2022年3月27日 復活前第3主日

説教「輝く姿で」

聖書 マルコ福音音 9:2~19 コリントの信徒への手紙 Ⅱ 4:1~6

 

 今年度の最後の主日です。

学校や仕事は、おもに年度によって区切られています.

卒業、就職の時期にもなり、また教会でいえば転任、就任もこの時期になります。

折しも、桜のつぼみも開花しはじめ、門出を祝し、別れを惜しむかのようにも思えます。

私自身、これまでの移動の日々が、どこか印象深く思い返されてきます。

 

 復活前の日々に、主の十字架への道を辿っております。

同時に復活の光を、その先に見つつ歩む時でもあります。

罪の赦しと神の愛の深さを、聖書を通して聞いております。

このレントの後半、本日は、山上の変貌の主題が与えられました。

共観福音書だけで、ヨハネにはありません、また福音書の中でも独特の物語です。

主イエスの御手による奇跡でもなく、また言葉による教えでもありません。

突如、主イエスが輝く姿に変わると言う出来事です。

 

 クリスチャンにとって、この変容を主の十字架への道での出来事として捉えられると思います。

「いばらの冠」と似ているかもしれません。

あるいは「飼い葉桶の救い主」もそうかもしれません。

茨と王冠は相反するものです。

ベツレヘムの貧しい馬小屋の飼い葉桶の天上では、天使たちの讃美の歌声が眩しく響くかのようです。

この山上の変貌では、主イエスの姿が白く輝き、エリヤとモーセと共に語ります。

その姿は、さながら幻のように天上の光を、この現実に照らしています。

そして主イエスの十字架への道を、復活の光で包んでいます。

 

 主イエスの救い、それは十字架と復活であります。

復活は十字架の死からのよみがえりの命です。

十字架もその死でもって全てが終わるのではなく、死から命へ、復活へと続きます。

それこそが、この山上の変貌の意味です。

「闇から光が輝き出よと命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」

このように、コリント書に記されている通りです。

 

 神の愛は、主イエスの十字架による贖いの死、それが私たちの罪の赦しです。

復活の命は、私たちが聖霊の助けによって隣人と共に生きるように、光の子として遣わされます。

この輝く主イエスの姿は、復活の章の御使たちの姿とも似ています。

朝の光が差し込む時、主のよみがえりを告げられた女性たちの心に、この輝く灯がともされます。 

 

今、世界は暴風の状況にあるかもしれません。

しかしこの主イエスの愛が、小さくとも消されずに灯されていることを信じます。

暗闇のなかに、また小さな光が人の中に輝き、神の愛と平和が満ちてゆくようにと祈ります。 

 

 今年度、関西学院教会の歩みも、コロナのため何度も苦境に立たされました。

本日、教会総会(予算総会)をもって、新年度を迎えます。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年3月20日 復活前第4主日

説教「何者だというのか」

聖書 マルコ福音書8:27~38 テモテへの手紙Ⅱ 1:8~14

 

 共観福音書には、主イエスの十字架の前に、三度の受難予告があります。

マルコには、最初の受難予告が8章にあります。

受難予告の前に、主は弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」と問われます。

この質問には深い意味があります。

主が歩まれる道の救いが示され、同時に私たちもその道に従う者かと問われているのです。

 

 弟子たちは、答えます。

「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」と。

主は「それでは、あなたがたは、私を何者だというのか」とさらに問います。

師である主とずっと一緒にいた弟子たちは、改めて「何者」と問われ、どう答えていいのか、何を訊かれているのかと戸惑ったかもしれません。

 

 この問いは、また、今の私たちへの問いでもあります。

もちろん礼拝を捧げている教会であります。

イエス・キリストという信仰の告白を中心に集っている共同体です。

答えは明白であると共に、やはりその心を問われています。

信仰とは、そのように思えます。

 

 この主イエスの問いと結びつくのは、主が逮捕され、大祭司のもとに連れていかれる時です。

ペトロはその後をついてつきます。

そして、人から「あなたもあのひとと一緒にいた」と告げられた時です。

「あなたがなんのことを言っているのか、私にはわからない」と言ってしまいます。

さらに「この人もあの人の仲間だ」と言われて、ペトロはそれを打ち消します。

三度目には、ついに呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓ってしまいます。

その時、鶏がなきます。

 

 悲しいまでの自分の口から発してしまった言葉です。

「命を捧げても」と言った自分が、その命に関わると「知らない」と言ってしまう。

この人の弱さと罪が、私たちの姿です。

誇らしく言えば言うほどに、その罪は深く身に返ってきます。

これが主問いの前の私たちの姿です。

 

受難予告の8章では、ペトロが「メシアです」と答えています。

主キリスト・イエスは、「知らない」と裏切る罪の私たち全ての救いのために、十字架への道を進みゆかれます。

主の「あなたは、私を何者だというのか」という問い。

その前に、私たちも、三度拒んだペトロのように、ただよみがえりの主の恵みによってのみ罪赦されたことを思います。

主はそのペトロに「わたしの羊を飼いなさい」とその罪を赦し、新たないのちの息吹でもって遣わされました。

私たちも、ただ主の愛により平和を求める民として、罪の赦しの福音に生きるものとして従ってまいりましょう。  

 

マタイでは、ペトロの告白に続き、主イエスが「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と天の国の鍵を授けます。

教会の土台は、この十字架の主イエスをキリストと告白する信仰にあります。

ただ主イエスの恵みによってなされた人の罪の赦しであり、人の力にはよりません。

それ故に教会は主の教会として立ち続け、福音の灯を照らしております。   

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2022年3月13日 復活前第5主日

説教「神の武具」

聖書エレミヤ書 2:4~13 エフェソの信徒への手紙 6:10~20

 

 これまでコロナの感染拡大の状況や緊急事態宣言により、6回の礼拝中断を行いました。

本日は6度目の礼拝再開となります。

この2年余りの間、生活や仕事、また人との集まりも今までとは違うものになりました。

けれども、大切なことはしっかり守っていくことが、これからの確かな道に思えます。 

 

 教会の礼拝も、長い歴史の中で守られ受け継がれてきました。

教会暦もそうです。

先主日の礼拝から復活前節・受難節になり、春のイースターに向かっての新しい時に入ります。

その最初の礼拝主題は、「荒野の誘惑」でした。

続く本日は、エフェソ書「悪と戦う」という小見出しの箇所が与えられました。

そして、エレミヤ書は、まことの神と神でないものを見誤ることのないようにという教えです。

 

今この時も、ロシアがウクライナへ軍事的な侵略を行い、戦争状態にあります。

多くの国が経済制裁でそのことに対抗し制止させようとしています。

破壊と戦火がおさまるようにと祈りが捧げられています。

抗議の声があがり、支援がニュースやネットを通じて、広がって波となっています。

多くの人が、なにができるのかと心を悩ませています。

人の命がなくなり、傷つくことに心震わせています。

 

 本日の聖書は、戦うことが書かれてあります。

それは武器を持ってではありません。

「血肉によるものでもない」とあります。

そしてまた「どのような時にも」と記されています。

「神の言をとり、霊に助けられて祈り、絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなさい」ともあります。

諦めや、一時の思いだけでなく、絶えず忍耐をもって、祈り続けることができる。

それは、その根幹に、まことの神を信じる命によっているといえます。

 

 エフェソの信徒への手紙は、獄中書簡とも言われます。

今日のところにも、「鎖につながれている」とあります。

鎖の不自由さはあるかもしれませんが、しかし、封じ込められていないのです。

コロナの中、不自由さに閉じ込められてきた日々で、多くの人が体力、気力の低下を感じられたかもしれません。

ただ、祈りと主への思いは、決して、封じ込められてはいないといえます。

この試練の中、逆に、その確かさを得たようにも思えます。

その主の民として、主の御跡に従ってまいりたいと思います。

 

 エレミヤ書は、一つの事で民は二つの悪を行ったと教えています。

一つめはいける水の源を捨てたこと。即ちまことの神を捨てたことです。

二つめは無用の水貯めを掘ったこと。

水を貯めることのできない水貯め、即ち神でないものを神としたことです。

この教えを聞き、激しい川の流れでも、流されない巌の足場を踏み締めましょう。

そして、エフェソ書の勧めにもあります「平和の福音を告げる準備を履物として」進んでまいりましょう。 

 

 主の復活日は、毎年、春分の日の後の満月の次の日曜日で、今年は4月17日です。

   

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年3月6日 復活前第6主日・受難節第1主日

説教「胸の中に、心に」

聖書 エレミヤ書 31:27~34、ヘブライ人への手紙 2:10~18 マルコ福音書 1:12~15

 

 受難節最初の主日は、主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受ける箇所が与えられ、主の試練と共に十字架への道を辿ることになります。

マルコの福音書では、主イエスと悪魔とのやりとりがなく、短く40日間、荒野での誘惑を受けられたとだけあります。

どこか出エジプトの荒野の40年の歴史も想起されますが、本日から主の十字架と復活の光に向かう道となります。

 

 ヘブライ人への手紙は、長い手紙であります。

旧約の歴史を細やかにときつつ、主イエスを大祭司とみなし、民の罪の贖いを御自身の試練を通して成し遂げてくださったことを告げています。

書全体では、信仰の多くの証人たちに囲まれているのだから、私たちも、試練の中にあっても、信仰の道を進むことを励まし教えてくれています。

 

 本日は、マルコの福音書の箇所も覚えつつ、旧約のエレミヤ書から説教題を取りました。

この箇所を中心に聞いてまいります。新しい契約と呼ばれる箇所です。

何が新しいのか。

それまでは、罪は共同体の罪というか、先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮くというように、先祖の罪が子孫に及ぶとの考え方でした。

今の自分たちの不幸は、自分たちの先祖の背信の報いである。

この古い教えからの新しさです。

 

人は、それぞれ自分の罪によって裁きを受け、そして自ら悔い改めることにおいて、神の赦しを自分の身で受けます。

それは、神を自分の神として知ることであります。

知るとは、モーセの十戒の石に刻まれていたことを比較し、それぞれの心の中に神を知り、神の教えに生きることです。

民はその神の民となることでもあります。

 

 復活前(40日間)の主日の礼拝は、主の受難を近くに覚える時でもあります。

それは、懺悔と喜びを遠ざけてゆく期間だけではないと思えます。

もちろん、そのようなイメージはあり、間違ってはいません。

しかしアドベントが、喜びだけでなく、神の前に悔い改めていく時でもあるように、復活前は、罪の赦しをより強く思う時でもあります。

それが、何より主の十字架への道に従い、その御跡に従ってゆくことになります。

 

福音書に、エリコの町で主イエスに目を開かれた人の話があります。

人々は、主イエスの名を大声で呼ぶ彼を叱ります。

しかし、主イエスは彼を呼ばれて癒し、罪の赦しを授けています。

彼は上着を脱いで、喜びをもって、主イエスに従ったとあります。

聖書が教える悔い改めの信仰がどのようなものであるかを、彼の姿が示してくれています。

このエリコの町の出来事は、主の十字架の前におかれております。

要は主イエスに心から従うことになります。

 

 わたしたちも、預言者エレミヤが教えるように、胸の内に、主イエスの御姿を見て、

従ってきなさいとの御声に光を感じ、歩んでまいりましょう。 

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2022年2月27日 降誕節第10主日

説教「嵐の中で」

聖書 ヨナ書 1:1~2:1 マルコ福音書 4:35~41

 

 降誕節の教会暦も本日まででで、今週の灰の水曜日から復活前節となります。

主の御業を本日も聞いてまいります。

先主日に、主の御業は罪の赦しと申しました。本日の福音書は、嵐を静める主イエスの箇所です。

罪の赦しとは、直接的には言えないかもしれません。

しかし、創造主なる神との関係に於ける私たちの命を思うと、そこに私たちの罪と、また赦しが感じられます。

 

 ヨナ書は、12小預言書で唯一物語風の書で、神の大きな愛を教えています。

嵐の海、大きな魚、牛や家畜、最後はとうごまの木をもって、狭い心のヨナに、神は民族を超えた愛を投げかけます。

暖かくも深くもあります。

他の書では、預言者が神の言を告げます。

ここでは背くヨナに対し、神が憐み深い愛と、創造主の御心を教えます。

 

本日与えられた福音書の箇所にも荒れる海が出てきます。

主イエスと弟子たちが小さな舟に乗り込み、激しい風に漕ぎ悩みます。

よく信仰共同体である教会も、この運命共同体の舟に例えられます。

時に教会も、この世の波に傾き、動揺します。

しかし、ここに主が共におられることから、そのように例えられるのです。

 

舟は水浸しになり、沈みそうになる中、主イエスは寝ています。

弟子たちの激しく揺れ動く「動」と、主イエスの「静」が対照的です。

弟子たちの不安の中に「主がそこにおられるけれども、いない」そんな状況が描かれています。

自分たちの力では、もうどうしようできない。

絶望的な環境で、弟子は叫びます。主イエスに助けを求めます。

「わたしたちがどうなってもかまわないのですか、お見捨てになられるのですか」と。

 

 主イエスは起き上がり風を叱り、湖に「黙れ、沈まれ」と命じます。

風は止み、凪となります。

そして弟子たちに「まだ信じないのか」といわれます。

 

 大自然の災害を信仰で防ぐことはできません。

信仰は無力で役に立たないのか。

そうではないといえます。

聖書は、その時に私たちもまた、弟子たちのような姿になることを教えているのかもしれません。

けれども聖書は、主イエスがその時、風を叱り、波を静められたことを記します。

そして、信じないのかと問われたことは、「信じることができる」ということです。

激しい風を見て、思わず主イエスから目をそらし、沈みかえたペトロの話もあります。

そのときに何を見るかです。

激しい風か、それとも、ペトロの腕をしっかりとつかみ、救い上げられる主イエスの姿か。

 

 全て上手く進んでいる時に信じられるのではなく、嵐の中にあっても、その主の御声を聞くことができる。

そして、信じられる喜びをもって教会という船も進みます  

 

今年の復活日は4月17日で、その40日前(主日を除く)から復活前節・受難節です

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年2月20日 降誕節第9主日

説教「罪の赦し」

 

聖書 列王記下 4:18~37 マルコ福音書 2:1~12

 

 主イエスの御教えを2週に亘って聞いてまいりました。本日は御業となります。

御業と同じ意味の言葉として、不思議な業やしるしがあり、一般的には奇跡と呼ばれています。

この神の御業は、新約聖書では福音書の主イエスに、旧約ではモーセと預言者エリヤ、エリシャに集中しています。

 

 列王記の与えられた箇所は、シュネムの女性の子供を生き返らす物語です。

彼女は子供に恵まれず、その夫も年老いていました。

エリシャの預言により、子が恵まれますが、その子が病気で亡くなってしまいます。

彼女は急ぎエリシャのもとに向かい、押さえられない悲しみを訴えます。

エリシャはその子のもとにゆき、その命を再び戻します。

 

 福音書では、主イエスのもとへ、中風の人を癒してもらうために友人たちが訪れます。

しかし、群衆に阻まれて家の中に入ることができません。

屋根を剥がし、病人を釣り降ろす大胆な行動に対して、主イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言われます。

そして、中風だった人に「起き上がり、床をかついで家に帰りなさい」と告げ、癒されます。

その場にいた律法学者は異を唱え、神以外に罪の赦しはなく、神を冒涜していると批判しています。

 

 奇跡、御業が、主イエスによる罪の赦しであり、主イエスの福音であると、聖書は証ししています。

この前後に、らい病の人の癒し、徴税人レビと共に食事をする物語もあります。

主イエスは「わたしに従って来なさい」と招き、「わたしが来たのは罪人を招くためである」とはっきり告げられます。

 

 罪の赦し、罪人を招くこと。

それが主イエスの御業であり、招かれたそれぞれの人の応答が奇跡の出来事となっています。

ルカ書の徴税人ザアカイの物語もそうです。

直接的な癒しではありませんが、主の言葉に、彼は胸を躍らせ、喜びに溢れ、生き方がこれまでとは全く変えられます。

癒されたといえるのではないでしょうか。

 

 目の見えない人が見えるようになる。

歩けない人が歩けるようになる。

人を信じられなかった人が、人の為に捧げられるようになる。

神の栄光を、それぞれの身体において現わし、主に従っているのです。

 

 放蕩息子の物語で、死んでいた者が生き返りと、父は言います。

それは、新たに主イエスに従っていく道を進みゆくこととも繋がっています。

主イエスの御業は、「わたしに従ってきなさい」の御声と共にあります。

そして、十字架の贖いの死によって、神と共に生きる新しい命を吹き入れてくださった恵みです。

神の愛が聖書の御業であり、御教えであり、福音であります。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志

 


2022年2月13日 降誕節第8主日

説教「御言葉の糧」

聖書 箴言 2:1~9 マルコ福音書 4:1~10

 

 マルコ福音書に種蒔きの譬があります。

まず譬が語られ、次に語る理由が話され、そして最後に解説まで付いています。

解答まで全て与えられ、もう完結してしまっているような感じがしないでもありません。

自分で考え、解釈する余地が残されていない固定的な教えのようにも思えます。

 

 主イエスは、神の国の譬でも、からし種のようであり、どんな種よりも小さい。

しかし、成長すると空の鳥が巣を作れるほど大きくなることも教えています。

その御言葉の種を今日は聴いてまいります。

 

旧約の箴言は知恵の格言集でもあります。

神のこの知恵と教えは、わたしたちにとって宝のようであります。

この教えに生きる時に、正義と裁きと公平はすべて幸いに導くとあります。

 

 さて福音書のなかで、種は御言葉であり、蒔かれた地は4つに分けられています。

人を4つのタイプに分類して、教えているようにも思えます。

しかし、この譬で教えているのは、そのような人の区別ではなく、1つの良い地への勧めです。

良い地とは、御言葉の種が伸び育つところです。

 

 私たちは、ここで思い違いをしてはなりません。

御言葉は、罪の赦しという神の招きです。

その種が大きくなるのは、罪の赦しの愛をどれだけ切に感じられているか、ということになります。

客観的に測られるような良い地ではないのです。

 

 ヨハネ福音書に、生まれつき目の不自由な人の物語があります。

立派な行いをしてきたファリサイ派の人たちが彼を取り調べます。

取り調べの最後には「お前は、全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、

自尊心から怒りを露わにし、彼を外に放り出します。

人の眼から見た立派な生き方が、そのまま良い地ではないということになります。

 

 何が良い地になるのか、考えすぎても迷路のようかもしれません。

ヨハネ福音書のなかで、目を開かれた人が主イエスに再び出会います。

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と尋ね、

主は「あなたと話しているのが、その人だ」と答えられました。

これが、まさに種が芽を、そして豊かな実を結んでいる様子に思えます。

 

 パウロも自分は土の器だといっています。

それは福音の宝がそう思わせしめて、それで心から満足しているからだと思えます。

御言葉の糧、それが宝であり、この糧が私たちを活かし、神の愛を実らせてくださいます。

私たちもその小さな器として用いられることを喜びとしてゆきたいものです。

その時に、神の愛が私たちを通して働き、主の栄光にあずかってゆけることになります。

 

 言葉と言。

イスラエルの信仰に於いては、古代旧約の初めより神の像を造らず、拝まず、ただ神の言を信じてきました。

ヨハネ福音書で初めに言があり、言は神であり、命であり、その言が世に来たと主イエスを証しています。

御言葉と言の二つの表記が見られますが、教えとしての御言葉と御子の十字架と復活でもある言、まさにわたしたちの命の源といえるでしょう。

 

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


022年2月6日 降誕節第7主日

説教「ナタンの譬」

聖書 サムエル記下 12:1~121 ペテロの手紙Ⅰ 1:22~25

  

  本日から6回目の礼拝中断となります。

これまで、5度礼拝を中断してきたと申し上げることができます。

そしてまた、この状況下でも私たちは5度、礼拝を再開してきたと申し上げることもできます。

倒れない力もあれば、倒れても起き上がることのできる力というものもあります。

暫くの時、忍耐して待ちましょう。

礼拝を再開できる日はまた必ず来ること、それが近いことを信じられる。

その時、聖書の御言葉は、私たちに力をもって、近く語りけかけてくれるとも思っています。

 

 これまでの礼拝で、主イエスの福音宣教の開始を聖書から聞いてまいりました。

これからは主イエスの御教えと御業へと入ってゆきます。

御言葉と奇跡の業は、あわせて一つの福音となっています。

教えは単に知識だけでなく、御言葉にある主イエスのいのち、信じる喜び、その力に及びます。

それは私たちの日々の生活の中で芽を出し、成長し、実を結びます。

その実は、私たちの益というよりも、神への感謝によって、共に生きる人々のなかに結ばれる実です。

その天にある大きな喜びに、あずかってゆくことになります。

 

 主イエスも御教えのなかで、譬を通じて、天の国のことを教えられました。

本日は預言者ナタンの譬が挙げられています。

ダビデはサウルから離れた時は一人でしたが、やがて数名の共が加わります。

王位に就く頃には多くの臣下の者が組織されてきます。

その一人にナタンもおります。

彼は預言者と呼ばれていますが、今でいう顧問、参与、参謀のような人物に見受けられます。

神殿建築についても、ダビデは彼に意見を求め、ナタンも主の言葉を告げています。

12章は、ダビデの犯した罪についての断罪の場面です。

その罪とは部下ウリヤの妻を奪い、ウリヤを戦場で死なせたことです。

絶対的な権力の座にあるダビデ王の罪を、臣下の者が断罪することは難しい。

方法を誤れば、王は否認し、逆に訴えた者を反逆罪で処刑することもできます。

ナタンは臆せずに、譬で語ります。

ダビデはその非情な行いに激怒します。

主は生きておられると言い、神の前に、正義は踏みにじられてはならないと言います。

そして、ナタンに、その男はあなただと告げられます。

ダビデは自らを省みて、罪を認めます。

預言者ナタンの知恵ある譬が、ダビデをしてその罪を神の前に明らかにしたといえます。

 

 ペトロの手紙には、イザヤ書の引用があります。

主の言葉は永遠に変わることはないとの御言葉も、人はみな草のようという譬で、より近くより深く感じられてきます。

主イエスも天の国、神の愛を譬で教えてくれています。

例えば、放蕩息子の譬、失われた1匹の羊の譬です。

その譬を通じて、私たちは見ることのできない神の大きく深い愛や天の国を、この目で見ているかのように感じることができます。

聖書が啓示学や教義学の難しい言葉ではなく、やさしく私たちに神の言葉を心に届けてくれているのは、この譬によるところが大きいと思います。

それとまた御業がその御教えを、心と体、魂全体に亘り教えてくれています。

そして、次主日も御言葉を聞く心(地)となるのだと思います

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年1月30日 降誕節第6主日

説教「聖なる神殿」

聖書 歴代誌上 29:10~20 コリントの信徒への手紙Ⅰ 6:12~20

 

  聖書の中で重要な事柄でありながら、いまひとつ理解しにくいのが神殿ではないかと思います。

教会の建物をイメージされるかもしれません。

けれども聖書の民と歴史にとって、神殿はもっと大きな存在であるように思えます。

 

 歴代誌上は、ダビデが神殿建築の準備して祈りを捧げる箇所です。

歴代誌下でソロモンが神殿建築を果たします。

サムエル記では、神はダビデに、自分のためにレバノン杉の家を建てよと命じたことはないと退け、その子ソロモンの事業としています。

そのためか、ソロモンの神殿とも呼ばれています。

 

 王国の以前と以後において、神殿を見てみましょう。

モーセの荒野の天幕の建設が出エジプト記にあります。

素材の違いこそあれ、まさにソロモンの神殿と天幕の図面は同じといえます。

ただ、どちらが古いかは微妙です。

ソロモンの神殿が、過去の歴史にさかのぼって投影されている可能性もあるかもしれません。

また、捕囚期のエゼキエルの黙示的な神殿もあります。

祖国の神殿の細やかな幻は、民たちに言葉以上の希望の光を与えたのかもしれません。

捕囚から帰還以降、エズラ、ネヘミヤや預言者ハガイも含めて、神殿再建の歴史の中で神の言葉が告げられます。

まさにイスラエルの民の歴史は、神殿と共に歩んできた歴史です。

それが新約の時代に移ります。

 

 主イエスの十字架への道は、ガリラヤからエルサレム入城と受難、復活となります。

十字架の時に、共観福音書は神殿の垂れ幕が裂けたと記しています。

主イエスの福音は、古い神殿から新しい神殿として開かれてゆきます。

よみがえりのキリストの体は、主の復活を信じる民の主の日の礼拝として始まってゆきます。

 

 知識と富が集まり、繁栄から時に不品行にも及ぶコリントの町。

そこで、パウロは主の十字架の言葉と復活による新しい一致を教えています。

「わたしたちは、神のために力を合わせて働く者であり、神の畑、神の建物です」

パウロはそう言います。

イスラエルの神殿の歴史を省みる時、この言葉がどれだけ深い意味をもっているかをあらためて思います。

あなたがたが神の神殿なのです。 

 

神殿について

ソロモンの神殿にも荒野の幕屋にも前に祭壇があります。

その祭壇で、神に動物が焼き尽くす捧げ物として捧げられました。

その香ばしい煙が天に上る時に神さまの怒りもやわらぐ。

ここに罪の赦しとしての礼拝の原型があります。

また、ソロモンの神殿の側面には、そのために海と呼ばれる大きな水の鉢がありました。

天幕からの火と煙は、民にとって恐らく雲の柱、火の柱として神の守りの象徴となりました。

ソロモンの神殿の前には二本の柱があり、その名前はボアズとヤキンです。   

   

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年1月23日 降誕節第5主日

説教「律法学者のようにではなく」

聖書 申命記 30:11~15  マルコ福音書 1:21~28

 

  今期10主日の降誕節も本日第5主日目です。

主イエスの受洗、弟子への招き、福音宣教の開始、そして、御言葉の教えと御業が礼拝の主題となってゆきます。

 

 マルコ福音書は、マタイ、ルカに比べて簡潔で力強く感じられるとよくいわれます。

1章のこの箇所では、安息日に会堂で主イエスが教え、人々はその教えに驚いたとあります。

なにが驚きだったのでしょう。

律法学者のようにではなく権威ある者として、新しい教えとして、人々に感じられことが宣教の始まりに記されています。

 

 また併せて申命記の30章には「命と幸いと死と災い」の教えがあります。

「祝福と呪い」という言葉も同じです。

マタイ福音書25章にも、羊と山羊を分けるように祝福と呪いの譬があります。

ここにある2つの対極は、どちらかという賭けのようなものです。

呪いと災いの厳しい裁きでなく、民に命と祝福の道を教え、その道を進むように示しているように思えます。

 

 律法学者に対して、マタイ23章(ルカ11章)では、主イエスの言葉により、その偽善の具体的な内容が書かれてあります。

それは、人々に律法の重荷を負わせ、救いの門を閉ざしてしまっているかのように捉えられます。

申命記の祝福と呪いは、律法学者たちの姿と主イエスの福音という光と闇に重なっているようにも思えます。

律法学者は律法の専門家であり、秩序を好み、厳格な思いをもって生きている人達です。

彼らに対して人々は権威を感じず、主イエスが罪びとと呼ばれる人々と共に食事をし、病人を癒されてゆくなかに、新しい教えを見て権威を感じました。

その感じられた権威には、人によるものか神によるものかの違いがあるようにと思えます。

 

わたしたちも、どこか心の中に偉くなりたい、人から良く思われたい、少なくとも嫌われたくないなど、律法学者の小さな一面を抱えています。

しっかりと聖書に聞き、この道標の指す道を歩んでゆきたいとそう感じます。

 

 申命記30章は、この後モーセの最後の祝福と祈りで結ばれています。

まさにモーセの遺言のようです。

それは神の教えがわたしたちの命と幸である。

どこか遥か彼方にあるものではないということです。

今日、この日を神と共に生き、そして隣人と共に歩む。

それが、神から頂いたわたしたちの命と幸いです。

主イエスが、神の愛と赦しの息吹を吹き入れ、わたしたちを遣わします。

そこに宣教の道が開かれてゆきます。 

インマヌエル。「神は我等と共にあり」といわれます。

神の恵みによって、背いているわたしたちを、主イエスがやさしい羊飼いのように連れ戻してくれることを感じます。

その神の愛に応えて、神の示す命と幸いの道を選び、その道を進むなかで、「神は我等と共にあり」の讃美と感謝があるように思えます。

主の十字架によって、わたしたちが神の光の子とされ、「アバ 父よ」と呼ぶことができるようになったことも覚えます。

わたしたちに権威があるとするならば、ただこの神の罪の赦しにあると感じるのです。

   

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年1月16日 降誕節第4主日

説教「ついて来なさい」

聖書 エレミヤ書 1:4~10 マルコ福音書 1:14~20

 

 主イエスの公生涯の始まりは、共観福音書では受洗から荒野の誘惑、弟子を招く物語と続きます。

荒野の誘惑は、復活前(受難節)最初の礼拝主題ですので、本日はマルコ福音書の弟子を招く物語となります。

12人の弟子すべてについて、聖書は詳細に語っているわけではありません。

弟子の名前に微妙な違いもありますし、ヨハネではガリラヤ湖の漁師という姿も出てまいりません。

さらにマルコ2章では、徴税人レビも、主イエスは同じように「わたしに従いなさい」と招かれております。

しかし、このガリラヤ湖畔のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが12弟子の中でもよく知られています。

それは、この箇所が弟子を招く内容に留まらず、主イエスを信じるということが、どういうことかも語っているように思えます。

 

 常識的に考えて現実的ではないような事が起こっております。

突然に出会い、声をかけられ、自分の生業である網を捨てて従ってゆくことは、誘拐でもなければ有り得ないと考えられます。

 

 しかし、全く違う現実が此処にあります。

信仰によって歩む人にとって、この物語が如何に真実であることでしょう。

こうとしか言い表せない思いがここには含まれている。。

自分自身を重ねて、そのように捉えられてくるのではないでしょうか。

弟子たちが主イエスを知った思いだけでなく、信仰によって歩んできた人生の中で、主イエスの御声が聞こえてくるように思えます。

 

 常に新鮮に、わたしたちを十字架と蘇りの主に出会わせてくれるのです。

「ついて来なさい」の御声は、同時にわたしたちに聖霊の息を吹きかけ「さあ、いきなさい」と遣わされる主イエスの姿でもあります。

弟子たちにとってガリラヤ湖とガリラヤ地方は自分たちの生活の場でありました。

律法学者、ファリサイ派の人々が暮らすエルサレムとは違います。

このガリラヤ湖畔に、自分の生きている場に、主イエスが共にいて下さり、招いてくださっています。

わたしたちにとって、それは罪の赦しも込められています。

神に背き生きてきたわたしたちに、主はすべてを捧げて下さり生きよと、その命まで捧げて下さり生きよと告げておられます。

それをこの身に溢れる喜びとして感じるのが、この弟子を招く箇所であります。

 

 讃美歌に「キリストにはかえられません」ともありますが、この主イエスのほかに、わたしたちの救いはありません。

この方によって、わたしの罪は赦され、その主イエスの御声が、主日の礼拝ごとに、わたしたちに語りかけてきます。

そして互いに愛し仕えて生きるようにとわたしたちを送りだしてくれます。

どうか今、会堂での礼拝が敵わない方の上にも、この主イエスの御声が届きますように。

「従って来なさい」といわれる主の豊かな恵みがありますように。 

 

 先主日、長老会で受洗希望者の諮問会が持たれました。

その日の礼拝では、主イエスの受洗の箇所を聴きました。

そして、本日「ついて来なさい」の御声にあわせ、受洗者が恵まれることは、教会にとっても大きな喜びであり幸いであると感じます。

   

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


022年1月9日 降誕節第3主日

説教「主イエスの受洗」

聖書 出エジプト記 14:15~22 マルコ福音書 1:9~11

  

  人にはそれぞれ起点となるような出発点があるかと思います。。

誕生日を経て、年齢が自然に刻まれてゆきますし、また勤めも勤続何年といわれます。

私は脊髄腫瘍の手術を受けた日から、毎年経過観察がありまして、2つめの誕生日のような気がします。

受洗した年からの年数を信仰歴と呼びます。

クリスチャンとして、日々を新しく生かされている感謝、初心を新たにとの意味でも、是非起点としていただきたいと思います。

 

 本日の礼拝主題は、主イエスの受洗です。

主イエスの宣教の始まりは、ヨハネからの受洗と弟子を招くことから始まっています。

ヨハネは主の道を備える先駆者であると同時に、洗礼者ヨハネと言われます。

彼が主イエスに洗礼を授けたことは、全ての福音書に記されています。

マルコ福音書でも、ヨハネはイエスをメシア・キリストとして指し示します。

そして「自分は水で洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼を授けられる」と、その違いを明白に証言します。

 

 マタイとルカ福音書のイエスが人々に語った言葉には、いくつか違いがあります。

ヨハネは断食をし、ぶどう酒も飲まずにいると、悪霊につかれていると批判します。

主イエスが飲み食いをすると、大食漢で大酒飲みと批判するという言葉もあり、ヨハネも主イエスの弟子たちも、ファリサイ派の対極に立ったことでは共通しています。

 

 罪なき神の御子が、どうして罪の悔い改めの洗礼を受けられたのか。

ここに大きな意味と始まりがあります。

それは主イエスが、世に来られて、人の子として歩まれるということです。

この世界で、わたしたちの只中に共にあって、神の愛を告げる為です。

私たちの罪、弱さの中に、神の赦しと招きがあることを、主イエスの洗礼は示しています。

天が裂け聖霊が降り、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」と、あの十字架の前の山上の変貌の時と同じく、この言葉が響きます。

 

 わたしたちの洗礼は、罪の赦しでもあります。

しかし、完全に清い聖人に変わるのではなく、ただ神の恵みによる招きに従って歩ませて下さいとの信仰の告白と応答であります。

御子もまた父の御旨に従い、わたしたちの罪を背負うために十字架への道を進みゆかれています。

 

 出エジプトのモーセの海の奇跡も洗礼の水と関係しているようにとれます。

水が避けて民の救いの道が開かれます。

同様にわたしたちは、御子の十字架の上で裂かれた身体、流された血潮によって、救いの新しい命の日々を生かされるようになりました。

 

 先主日の新年礼拝も、少年イエスの宮詣での聖書箇所が与えられ、新年にふさわしいと感じました。

本日も新しい年を進みゆくなかで、出エジプトのこの箇所と主イエスの受洗を通じて、主が先立ちゆかれること、神の御手の守りがあることが強く感じられます。

 

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年1月2日 降誕節第2主日 新年礼拝

説教「神と人とに愛された」

聖書 ゼカリヤ書 8:1~8 ルカ福音書 2:41~52

 

 2022年の年が明け、本日が最初の主日で新年礼拝となります。

聖書にはよく8日目という言葉がでてきます。

例えばルカ書を見ると、ヨハネ、イエスともに名付けられたのは8日目です。

復活の箇所でも、ヨハネ福音書トマスの物語にも8日の後とあります。

これはその日を含めて1週間と同じで、主日から主日の間隔と重なります。

 

降誕日が1225日であり、それから8日目が元旦で、新しい年を迎えます。

救い主降誕の光を受けて、その喜びをもって8日目、1週間に元旦の朝を迎える。

主の日の礼拝を軸として歩んでいる私達にとって、クリスマスは昨年のことではありません。

主イエスが世に来られた喜びをもって礼拝を守り、新しい年の始まりを感じたいと思います。

多くの日本人がお正月に初詣に出掛けます。

教会も公現日を迎え、本日与えられた幼子イエスの神殿での物語は、新年に相応しく思えます。

 

 両親が、主イエスを見失い、迷子になったと思い、心配して探し回ります。

なかなか見つからず、3日が経過します。

この3日も、主イエスの生涯で鍵となる期間です。

十字架から復活までが3日でもあります。

主イエスの復活の光もどこか、この物語の中に感じます。

弟子たちも十字架の前に主を見失いますが、3日目の朝に甦りの主から命の息を吹き入れられ、目が開かれてゆきます。

 

 幼子イエスは、神殿を父の家と言います。

御子として、人々の心を父なる神へと向けさせてくれます。

律法学者たちの只中に立ち、彼らに教えを授ける少年イエス。

ここには既に、律法の根幹である、神を愛して隣人を愛することで、全ての律法が成就されてゆくと教える主の姿が描き出されているように思えます。

 

 この少年イエスの姿と、旧約聖書ゼカリヤ書は、エルサレムという神殿によって繋がります。

神はその民を救い、民は真実と正義に基づいて、神の民となるとの言葉は、父なる神の働きとその近さを感じさせてくれます。

 

 新しい年に新しい歩みを始めようとしております。

何が大切なことなのかを本日の聖書は示してくれています。

ただ、多くの人が目の前のなすべき務めに追われ、毎日深く考えて行動することなく、歩んでいるのが現実だと思います。

 

少年イエスの物語は、両親の思いをひっくり返すような言葉で神を示してくれます。

大人が無意識にも持ってしまった、どこか「自分は正しい」という感覚をひっくり返すように、神の御心がこの世界で成し遂げられてゆくことを教えてくれています。

それがゼカリヤ書の真実と正義に近いのかもしれません。

 

 この年も、その神の御恵みの大きさに、新鮮な喜び感動をもって歩んでゆきましょう

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


 2021年12月26日 降誕節第1主日 歳末感謝礼拝

説教「東の国から」

聖書 イザヤ書 49:7~13 マタイ福音書 2:1~12

 

 2021年も本日が最後の主日礼拝です。

同時に降誕節第1主日となります。

年が明けて、1月6日は平日ですが、公現日という教会歴にある博士たちがベツレヘムの主を礼拝した日にあります。

教会歴で、1年の最初の日でありながら、ほとんど知られていないかもしれません。

クリスマスが世で広く祝われている分、それだけ25日が過ぎると潮が引くように去ってゆく感があります。

主の降誕は、天では神の栄光が照り輝いても、地上では馬小屋での誕生であり、公現日も「知られていない」という点では、クリスマスらしいかもしれません。

 

 マタイ福音書には、いわゆる3人の博士の礼拝が記されています。

3人は、黄金、乳香、没薬の3つの宝物から、3人の占星術の学者といわれています。

彼らはユダヤ人の王がお生まれになったことを、星に導かれて旅をしてきます。

東の国と宝は、ソロモン王の時代、シバの女王の来訪が重ねられているように感じます。

アラビア地方の産である香料もそうです。

没薬は雅歌にもでてきますが、乳香と同じような香料(ミルラ)で、乳香(フランキンセンス)と共に、現代でも意外と身近に手に入れることもできます。

ルカの羊飼いとマタイの東方の博士たちは、救い主の降誕をわたしたちに示してくれています。

それはなにより喜びに溢れて主を讃美した姿、救い主を心に抱き、また自分たちの道を歩んでいく姿も示してくれています。

 

 今回、博士たちを、わたしたち自身に重ねて想像してみましょう。

子供讃美歌の「らくだにまたがって」の曲が浮かんできますが、人生はよく旅や航海に譬えられてもいます。

平坦な道もあれば険しい道の時もあります。

信仰の人生は、主イエスに招かれて遣わされてゆく、毎週の礼拝の日々であります。

そいて長い人生は、主イエスを求めての旅をしているようです。

 

 そして宝でありますが、主イエスは、高価な品を求められるようなことはされず、名誉を捧げて欲しいとも願ってもおられません。

むしろわたしたちの内なる罪、人から見ると見劣りするような欠点、それが、主イエスが受け入れて下さるわたしたちの宝であるように思えます。

その罪の土の器の中に、神の大きな恵みと赦しが溢れて、それこそが宝となります。

その喜びをもって、主イエスと共に旅が続けられると思えます。

 

 クリスマスに、神の愛によりその独り子がわたしたちのために与えられました。

その神の愛に、わたしたちの持ち物や、自分の力によって応えられるものではありません。

ただ素直にその神の愛を受け、隣人と共に生きることを神さまは求めておられる。

それを忘れることなく。光の中を、降誕日からの新しい歩みを始めてまいりましょう。

この2021年を感謝し、新しい年も主の恵み豊かな年となりますように。 

 

 12月25日の降誕日から、丁度1週間、7日目が元旦になります。

もちろん日曜日とは限りません。

救い主の降誕と博士たちの礼拝(公現日)、ルカの幼子の神殿の礼拝(初詣)は、クリスマスから年末年始の時宜にかなう聖書の出来事のように感じます。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


しばらくの間、降誕祭賛美礼拝配信を掲載します。


2021年12月19日 待降節第4主日 降誕前第1主日

説教「わが魂は主をあがめ」

聖書 サムエル記上 2:1~10 ルカ福音書 1:39~56

 

 今年は降誕日が土曜日にあたり、降誕祭礼拝はやや早い19日となります。

多くの教会が、コロナ禍のもと2年近くを歩み、本日救い主の御降誕を祝う礼拝を迎えています。

ルカ福音書は、羊飼いに御使いが「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と知らせ、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が、あなたがたへの救いのしるしである」と教えます。

救いのしるしは、貧しい馬小屋の飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子であること。

それが、神がわたしたちに与えてくだった救いの道の初めであること。

そして、わたしたちの救いは、ただ神の恵みによる主の十字架の罪の赦しにあることをクリスマスは示しています。

ヨハネの手紙も、神がわたしたちを愛しその独り子を捧げられたのは、わたしたちが互いに愛し合うためであると教えます。

クリスマスは、神の愛が身に感じられる喜びの日であります。

 

 本日の礼拝の主題は告知です。福音書は御使いがマリアに御子の誕生を告げる箇所です。

この後、マリアは親戚のエリサベトのもとにゆき讃歌を歌います。

旧約のサムエル記にある預言者サムエルの母ハンナが、神殿で祈り、恵まれた子供を神に捧げる時に歌った歌で、マリアの歌の原型といわれています。

讃美歌にもマニフィカートと題されている曲や「我が心はあまつ神を」(178番)が、このマリアの讃歌を歌詞にしています。

 

 先主日、婦人会のクリスマスの話で主イエスの系図を取り上げました。

その時にマタイとルカの降誕物語を比較しました。

その中で、マタイはヨセフと博士、ルカはマリアと羊飼いで、別々ではありますが、系図は両方に出てくると申しました。

今朝、それを修正します。

確かに物語は別であるけれど、ふたつは補完し補いなっているように感じられます。

羊飼いと博士もそう思えますし、告知もそうです。

二つの福音書は、ヨセフとマリアのもと、御子は人の子としてこの世界にお生まれになったこと。

そして、わたしたちを神の愛のもとに招き、その愛に生きるようにしてくださったことを伝えてくれます。

 

今のわたしたちの社会も、「御子を泊める場所はなかった」と聖書にあるように、困難が降りかかると冷たさが他人に向けられる場であります。

そんなわたしたちの只中に、主が共にいて、わたしたちの重荷を担ってくださっています。

その主の愛に満たされて、この世の中の小さな福音のあかりを灯してゆきたいと思います。

皆さまの上に、救い主の御降誕の喜びが豊かにありますように。 

 

昨年に続き、今年も24日の礼拝は、収録の配信のみの礼拝となりますこと、お詫び申し上げます。

思い返せば、昨年も11月末に2回目の礼拝中断となり降誕祭礼拝から再開しました。

礼拝の収録も、そのような中断の中でした。

手探り綱渡りのような日々でした。

ただその苦労を通じて、御子の降誕がより慰めとなり希望として感じられたように思います。   

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年12月12日 降誕前第2主日・待降節第3主日

説教「一日は千年のようで、千年は一日のよう」

聖書 イザヤ書 40:1~11 ペトロの手紙Ⅱ 3:8~14

 

 アドベント第3の礼拝の主題は、先駆者、バプテスマのヨハネです。

旧約と使徒書を読みましたが、福音書はマルコ1章になります。

教会が本当のクリスマスを祝っていると言え、ば傲慢かと思います。

ただ、世の中のクリスマスと違いは幾つかあります。

一つは、巷では25日を過ぎると忽然と姿を消してしまう感もありますが、教会の降誕節は25日に始まり、救い主の生涯を辿って礼拝は続くことです。

二つめは、このヨハネを教会ではアドベントに聖書から聴いてゆくことであります。

二つともとても大切なことかと思います。

 

 イザヤ書40章は、荒野で呼ばわる声がでてきます。

バビロンからの解放を告げる預言です。

主の道を備えよ。

谷は身を起こし、山と丘は身を低くせよと告げ、門よ、扉よ、開いて大路を真っすぐにエルサレムへ通せと聴こえてきます。

この預言をヨハネにも重ねて、主イエスの道を備える先駆けとして福音書は描いています。

ルカでは、主イエスの降誕前に、マリアの親戚エリサベトに、ヨハネの誕生のお告げもあります。

マラキの「父の心を子に向けさせる」エリヤの再来のようにも描かれています。

旧約聖書と新約聖書を、ヨハネが繋ぎ、主イエスに福音を託しているようにも感じられます。

 

 説教題は、ペトロの手紙からの言葉からです。

ヨハネに直接的に結びついておりません。

しかし、ヨハネの荒野で呼ばわるその声は、「時」を知らせています。

神の国は近づいたこと、そして悔い改めて福音を信ぜよと、主イエスを指し示しています。

時を示してきたのは、アドベントの最初の礼拝もそうです。

「目を覚ましていなさい。」

「人の子は近づいている。」

「その日、その時は誰も知らない」

来たるべき時の鐘が鳴らされ、この第3の主日は、救い主を迎える備えとして、その時の声を、ヨハネを通し聴いています。

 

そこにこのペトロの手紙の勧めもあります。

この手紙を少し説明します。

弟子のペトロの名前で書かれていますが、著者は彼ではなく、この書も新約文書の中で、かなり遅い時期の書とみられています。

再臨がいつまでたっても来ないではないかと信仰が揺らいでいる時期です。

その中で、なお主を待ち望み、その時を語っているのが、この「一日は千年のようで、千年は一日のよう」の言葉です。

詩編90編の「千年といえども、御目には昨日が今日へと移る一時にすぎません。」に依っているといえます。

この詩編は、はかないわたしたちの人生にあっても、主よ、あなたこそが神であり、わたしたちの生涯の日々を正しく数えるようにして下さい。

わたしたちの手の働きを確かなものとして下さいと祈っています。

まさに主を信じて待つということは、とりもなおさず、待ち望む主と共に歩んでゆくことです。

隣人への愛の業を確かなものとしてゆくことが、神の御子を迎えるにふさわしい処となります。

讃美歌443に「きつねには穴があり、鳥に巣はあるが、神の子の休まれる寝床は荒れ野だ、おいでください、イエスよ ここにこの胸に」とあります。

御子を迎えるのにふさわしい、わたしたちの心を備えてまいりましょう。

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年12月5日 降誕前第3主日・待降節第2主日

説教「神の掟と人間の言い伝え」

聖書 エレミヤ書 36:1~10 マルコ福音書 7:1~13

 

  アドベント第2の礼拝主題は、旧約における神の言です。

降誕前に入り、創造から旧約の大きな歴史の流れを辿ってきてまいりました。

本日は再び、旧約の神の言を学ぶことになります。

この繰り返しは、単なる重複ではなく、改めて大切な事柄を踏まえて、救い主の降誕へと望むように思います。

申命記30章にもみられますが、約束の地に入る前に、もう一度神の前で命と幸いか、それとも死と災いか。

選択と判断を迫るような内容であり、御子の降誕を前に不可欠ともいえるのが旧約の神の言となります。

 

 エレミヤ書では、エレミヤへの預言が弟子のバルクによって朗読されるところです。

民の罪に対する神の怒り、そして神に立ち帰るようにという勧めです。

ヨヤキム王の役人たちがそれを聞き、その巻物を王にも聞かせます。

しかし、王は聞く耳をもたず、暖炉にその預言の巻物をくべてしまいます。

 

 預言者と預言は、歴史の中で、往々にこのような民からの誹りと迫害の目に遭います。

神の御心と民との間には、まさに天と地との大きな隔たりがあることが、聖書の歴史にみられます。

その深い溝の中、神の言は、この地に、預言者の口を通して、狭い扉であるかもしれません。

それでも、絶えず人々に神に立ち帰るようにと光と道を与えています。

 

 またこの隔たりは律法学者やファリサイ派の人々と主イエスの間にもみうけられます。

律法は、創世記から申命記までの書から更に膨大な口伝の法が加わって膨れ上がりました。

学者の中にも何が大切な教えなのか分からなくなり、イエスさまのもとに尋ねに来る者もいます。

 

 細かな安息日の禁止の事項を人々に負わせて、それを守れない人を罪びととします。

異邦人との繋がりのある仕事の人や重い病気の人なども罪びととなります。

律法で、神から人をどんどん引き離すような社会となってしまいました。

それに対して、主イエスは2つの教えを最も大切な教えとし、罪びとと呼ばれる人の中に立ちます。

彼らを神さまのもとに招きます。

2つの教え、それは神を愛し、隣人を愛すること、それが神の御心であると。

 

またパウロも、どんな敬虔や犠牲、善い行も、愛がなければむなしいと言います。

兄弟を愛することと、イエス・キリストが世にこられたその十字架の救いとが一つのように強く結びつけられています。

ヨハネ福音書にも、主イエスは「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。

ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と告げています。

 

 信じることが、いつのまにか自分の思いの中で方向を誤ること、大切な教えから離れることもあるかもしれません。

アドベント第2の礼拝で、旧約の神の言を聴く意味は、救い主を待ち望む備えのともしびと油のようです。

父なる神の民を思う憐みの心が、ひとり子を捧げてまでも、わたしたちを罪から贖いだされた御業であります。

そして、父の御子こそが、わたしたちのすべての罪を背負って下さった救い主であることを証しする礎のようです。

 

 (説教要旨 廣瀬規代志


2021年11月28日 降誕前第4主日・待降節第1主日

説教「主を尋ね求める人」

聖書 イザヤ書 51:4〜11、マルコ福音書 13:24〜37  

 

 本日からアドベントに入ります。

恐らくどこの教会でも、クリスマスのリースやクランツが飾られています。

そして、これからの特別な4つの主日をもって降誕日となります。

既に降誕前9主日から5週間を辿っており、神の御子の到来を、その背後にある旧約の神の救いの歴史の中で捉えつつ、わたしたちすべての民の罪の赦しを成し遂げられた救い主を待ち望む時となります。

 

 わたしたちの罪のなかに。

これがアドベントの最初の主の日の意味のように思えます。

福音書の「目を覚ましていなさい」と呼びかけられている御言葉もそのように聴こえてきます。

 

 イザヤ書と本日の福音書の箇所は、不思議なやまびこのように響いております。

「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。教えはわたしのもとから出る」

とイザヤ書は語ります。

 

  福音書も「いちじくの木から教えを学びなさい」そして「悟りなさい」と語っています。

「人の子が戸口に近づいている」と福音書が告げ、イザヤ書も「わたしの正義は近く」あること「わたしの救いは現れる」と言います。

そして「地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることがない」は、まさしく福音書の、天地が滅びても、「わたしの言葉は決して滅びない」と共鳴しています。

この世界の中で、終わりのような状況と見えても、それは終わりではありません。

神の言葉は決して滅びず、恵みの御業が絶えることはないと聖書は語っています。

 

 これをどのように聞くかであります。

宗教によっては、世の不穏な社会情勢を絡めて、終わりを強調する処もあるかもしれません。

わたしたちは、内面へと目を向けて聞く事をお勧めいたします。

それが最初に申し上げたアドベントの最初の主日に、この聖書箇所が語られる意義です。

長い教会の伝統と教えの中で受け継がれてきた大切なことでもあります。

わたしたちの罪のなかに、自分の力ではどうしようもない罪の中に、神の御子が到来し、十字架によって信じる者すべてに与えられる永遠のいのちの光が照らされることになります。

 

 

 福音書13章の32節からは、繰り返し「目を覚ましていなさい」がでてきます。

これも終末的・象徴的な言葉かもしれません。しかし同時に、日常的・具体的事柄でもあります。

それは主が「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて、戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」(ヨハネ黙示録)と「共に食事をしよう」と呼びかけて下さる御声を聞く事のできる嬉しさといえるでしょう

ザアカイに「今日あなたの家に泊まりたい」とそういって下さる御声を聞ける喜びが、この「目を覚ましていなさい」の教えに応える鍵であるように思えます。

 

 アドベントは罪を初めに申し上げた通り、罪を思う時であります。

それと併せ、このわたしの罪のなかに、救い主の御声がそこから聞こえてくる大事な門でもあります。

ファリサイ派の人々のように自分が正しく、自分たちだけが神を知っているという思いの中には聞こえてきません。

だから注意して「目を覚ましていなさい」と聖書は告げてくれています。 

 

 

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年11月21日(降誕前第5主日 謝恩日 収穫感謝日礼拝) 

説教「エッサイの子」

聖書 サムエル記上 16:1~13 テモテへの手紙Ⅰ 1:12~17

 

 アブラハムは信仰の父として、モーセからは律法の教えを、そして本日のダビデは、建国の礎、平和の王としての希望を、新約聖書は受けついでおります。

マタイ福音書冒頭も「アブラハムの子 ダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まっています。

 

現在、水曜日の祈祷会では、士師記を学んでおります。

時代でいえば、王国が成立する前になります。

通常は、王国はダビデによって打ち立てられたと見られていますが、もう少し正確にみると、サウルが預言者サムエルによって油注がれて王となっていますので、サウルが初代の王といえます。

しかし、士師記の中で、ギデオンの息子アビメレクはシケムという町限定ではありますが、そこで王となっていますので、誰が最初の王なのかは、微妙です。

1代だけではだめなのか、また油注がれる儀式が重要なのか分かりませんが、聖書では明らかに、ダビデを王とし輝かせ、イザヤ書11章にある平和の君の預言にもダビデの姿が感じられてきます。

そのダビデが表題の「エッサイの子」であります。

 

 王国が最も繁栄した時は、ダビデの息子ソロモンの時代です。

彼は国内の制度を整え、外国との交易において豊かな富を蓄え、王宮と神殿を建設します。

ダビデも成しえなかったことをソロモンは果たしますが、不思議なことにダビデは、この「ソロモンの父」とは呼ばれずに、やはり「エッサイの子」がその王に相応しい呼称となっています。

 

 神は、サムエルにサウル王をあきらめて、新たな王に油を注がせに、ベツレヘムに向かわせます。

村の長たちは動揺します。

それほど小さな、のどかな村だったように感じます、

エッサイの7人の息子たちがサムエルに次々紹介されてゆきますが、その中にはいません。

まだ他にということで、羊の番をしていた末の子ダビデが連れてこられ、油注がれるところが本日の聖書です。

 

 聖書には、王に対する否定的な預言者的な目があります。

軍事力によって民を支配し、富を自分一人に集中させて、民を苦しめる王の姿です。

それに対して、羊を守り、馬ではなく、ろばにのり、平和の君としての王の姿が人々に希望を届けています。

それはソロモンでも、サウルでもなく、このダビデであり、この「エッサイの子」であります。

 

マタイ福音書のすべての民を裁く王の譬(終末的な譬え)もあります。

この王の言葉「この最も小さい者一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことなのだ」も、王の言葉をもって民に告げられる神の御心であります。

 

 「エッサイの子」のほかにも「エッサイの根より」という言葉もあります。

レバノンの大木が切り倒された後に、このエッサイの切り株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育つと、ここにもダビデの血筋が、民への救いの希望の灯となっております。

 

次主日よりアドベントです、ベツレヘムのエッサイの子が私たちを導いてくれます。

 

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年11月14日(降誕前第6主日) 

説教「呻き声を聞き」

聖書 出エジプト記 6:2~13 ヘブライ人への手紙  11:23~29

  

  降誕前からの教会暦の礼拝主題は、創造、堕罪、神の選び(アブラハム)、救いの約束(モーセ)と続きます。

族長アブラハム、モーセ、ダビデはそれぞれ信仰の父祖、救いの原点、王国の礎という旧約の流れの中で大きな頂のようです。

それ故に物語も非常に多くあります。

 

 本日はモーセを見てゆきます。

彼の働きは膨大過ぎて、時に分かりにくくもなります。

その一つは海の奇跡で、イスラエルの同胞を奴隷の地から贖いだします。

まさに旧約の救いの原点といえます。

さらに荒野の旅の指導者としての姿です。

ヨシュアに受け継がれてゆきますが、雲の柱に火の柱、天からのパン(マナ)もモーセとの出来事です。

加えて重要なことは、神の十戒をモーセは受けます。

そして続く律法もモーセの教えと結び付けられています。

 

 あまり関心は寄せられていませんが、出エジプト記の大半は天幕の礼拝祭儀の説明です。

そこには、ソロモンの神殿の原型ともいえる形が記されています。

後代のエルサレムの神殿が、遡って投影されていることも十分考えられます。

モーセという人物が、あらゆる面で神と民との信仰の仲保者のようにも受け取れます。

本日は、そのモーセに、主がその民を贖いだすようにと遣わす箇所です。

 

 出エジプト記は、族長ヤコブとその息子たちが飢饉によってエジプトの地に移り住み、その子孫たちが増えて、奴隷の課役を負わされ、ヘブライ人というだけで生まれた男児は殺されるという闇の世から始まります。

モーセは姉ミデアンにより、ナイル川に葦の籠にいれて隠されているのを、幸いにもファラオの娘に見いだされ育てられます。

その場面で王女は言います。

「わたしが水の中から引き上げた」と。

まさにモーセが民を、水の中から贖いだす救いの予兆のような言葉です。

 

 モーセが民を救出するまでに、神がモーセを召し遣わしますが、モーセ何度もしりごみして神を苛立せます。

しかし、その後には大胆にファラオと対決しつつ、エジプトの地に於ける10の災いのしるしをもって、解放への道が開かれます。

ファラオの追手を振り切るのが海の奇跡となっています。

この大きな筋の中で、注目すべきことは、モーセが民を導き出したその元にあるのは、神がその民の嘆きと、呻き声を聞かれたことであります。

そして憐み深い神が、その御手でもって、モーセをして民を導き出したといえます。

 

 この神が小さな民の祈りを聞かれるということが、わたしたち信仰者の救いの原点であります。

恐らくモーセのその器も、神のその御心に適う者として、神が選び遣わされたといえます。

わたしたちの、人にも言えないようなうめき声を、神は聞いてくださり、聖霊もそれを執り成してくださいます。

また神の御子があの十字架で苦しみの呻き声をもって命を捧げられたこと、その御子の贖いにより、わたしたちの罪の救いがあることを思わずにはおれません。

 (説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年11月7日(降誕前第7主日 聖徒記念礼拝) 

説教「恐れるな、アブラムよ」

聖書 創世記 15:1~6 マルコ福音書 12:16~27

 

 創世記に出てきますアブラハム(最初の名前はアブラム)は信仰の父と呼ばれています。

神の顕現でも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」はよくでてきます。

アブラハムが神の祝福の約束を信じて旅立ち、15章の「信じて義とされる」も、使徒パウロや教会の歴史の中で、信仰義認の拠り所の箇所とされています。

また他方、信仰による行いと実践を勧めるヤコブ書に於いても、アブラハムは模範的な姿として紹介もされています。

まさにあらゆる面で、アブラハムは信仰の先駆け、また父祖として見ることができます。

 

 ただ創世記のアブラハムの物語は、多くの苦悩や課題に満ちています。

いくつか取り上げますと、エジプトの地、ゲラルの地で、妻サラを妹だと偽ります。

それは寄留の民である夫婦が身の危険を回避する為の必死の策でした。

甥のロトと共に旅をしてきながら、僕たちの争いにより別れなければならない寂しい時もありました。

また側女ハガルによって恵まれたイシマエルも、サラから追い出してくれと懇願されます。

その時、自らの気持ちに背くような思いで非情な決断もします。

想像するだけで、胃が痛むようなストレスです。

またロトが暴徒に襲撃されたショックも聞かされます。

あげく神は、最愛の息子イサクを生贄として捧げよとまで言われます。

何度この大変な苦難の峠を経なければならなかったか。

そして、サラを葬り、その後は一人で老いの旅路を歩むのはこの世の人と同じ思いです。

 

 神の選びという主題で、アブラハムが与えられております。

この波乱の人生の旅路を見る限り、神の選びと祝福というよりも、試練と課題の旅路です。

困難と労苦の旅路の中にまた神の選びがあり、神の祝福があるといえるかもしれません。

 

 パウロも、宣教の旅で、何度も患難を受けております。

その患難によって、いよいよ福音がパウロの力となり、主の十字架の言葉が、宣教の核心となり、主イエスの使徒とされていったように思えます。

ヘブライ書にも「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しい者と思われるのですが、後になると~義という平和に満ちた実を結ばせるのです」と教えています。

神の祝福もそれに似ていると思えます。

わたしたちの旅路も、いくつかの課題と共に生きてゆくときに、アブラハムが示す道のように、神は時に満天の星をもって、祝福の光を見出させてくれると思います。

 

 主の山に備えありといわれます。

神は必ず、主の道を従うわたしたちをその御手で守り、必要な力を与えて下さると信じ歩んでゆきましょう。

 

 11月の第1主日は聖徒記念礼拝として守られています。

通常ですと礼拝後に、教会墓所での礼拝を守っておりましたが、今年も昨年に続き、墓前での礼拝は中止とさせていただきました。

けれど天上にある聖徒たちも、このコロナ禍の中、礼拝が守られるように、また一人一人の信仰の旅路が支えられるようにと見守っていてくれていることを覚えて、この日々を乗り越えてゆきたいと願っています。

 

 また春がきて、復活祭の翌主日の墓前礼拝でお会いしましょう   

  

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年10月31日(降誕前第8主日 宗教改革記念日礼拝) 

説教「カインの罪」

聖書 創世記 4:1~10 マルコ福音書 7:14~23

 

 創世記4章にカインとアベルの物語があります。

本日の礼拝主題は、創造に続いて堕罪ですが、カインの罪をこの4章からきいてまいります。

兄弟が助け合う存在ではなく、憎しみの対象として兄が弟を殺してしまいます。

カインは、そのことで新約(ヨハネの手紙)にも悪者の典型として名を残します。

ただカインという人の罪としてではなく、神によって造られた人の中にある罪を、このカインに見てゆきたいと思います。

 

 創世記に登場する人物は、理想的な信仰者ではなく、人間関係でも行動に於いても葛藤と混乱の連続でもあります。

父アダムもそうです。

創世記3章では、蛇と女の誘いにより、禁断の実を食べてしまい、エデンの園から追放されています。

カインはまさにこのアダムの息子であります。

アダムは追放後、土を耕す者となりましたが、カインも父と同じく土を耕す者であります。

 

 主に捧げものをした時、主はアベルの羊を顧み、カインの捧げ物には目を留められませんでした。

カインは怒りと妬みで、アベルを殺してしまいます。

主に「弟アベルはどこにいるか」と問われても、知らないと嘘をつきます。

アダムに主なる神は「どこにいるか」と尋ねた時も同じでした。

そのカインに主は言われます。

土を耕しても作物を生み出さず、お前は地上をさまよう者となると。

 

 不思議なことですが、父アダムと共通点があるように思えます。

神の前ある人の姿を示しているようにも感じられます。

一つの不満という壁にぶつかると、衝動的、感情的になってしまう。

自己中心的になり、虚偽も行う。

あらゆる罪が人を覆ってしまうかのようです。

 

 カインを失敗した人物、自分とは違う人間と見てしまう。

それは福音書でのファリサイ派のように、罪は自分の外にあるとする思い違いであります。

見えない罪は、常に自分の内にあるといえます。

それはカインの中に描かれているように、誰もが、何かのきっかけで燃え上がり、そして簡単に崩れる。

自分ではどうしようもない深い根っこで、罪は絡みついているようにも思えます。

まさにこれが土でつくられた人の存在なのかもしれません。

 

 けれどその人に、神は命の息を吹き入れられた。

それは、まさにこの罪の中に、救いの息もあるということです。

この罪の中にしか、わたしたちの救いもないのだと思います。

神の命の息が人を活かしてくれる。

人間の名誉でも、正しさでもない。

わたしの罪の中に、キリスト・イエスの十字架がみえてきます。

主の赦しの愛が、わたしたちを招いてくださるのだと。

その神をわたしたちは信じております。 

 

本日10月31日は宗教改革記念日であります。

讃美歌377(神はわが砦)は宗教改革者マルチンルターの曲としてしられています。

また388(栄光は主に在れ)も宗教改革記念日の讃美歌です。

宗教改革記念日と教会暦の聖書は連動しているわけではありません。

 

ただ堕罪という主題のもとで罪を思うこの礼拝の中に、ただ主の恵みを記念することは、ふさわしく思えます。

  

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年10月24日(降誕前第9主日) 

説教「命の息」

聖書 創世記 2:4b~9 ヨハネの黙示録 4:1~11

 

本日から降誕前の教会暦に入ります。礼拝主題は「創造」です。

礼拝の日課では福音書と旧約と使徒書と(交読)詩編の4か所が読まれるのが勧められています。

本日は、創世記と黙示録を選ばせていただきました。

創造と黙示録の天上の礼拝が、どう結びついているのかですが、11節の「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」の1句にあるのは明らかです。

聖書の初めの創世記と最後の黙示録が、ともに創造主(つくりぬし)を語り、讃美しています。

 

創世記2章のこの箇所は、神が人をつくられた物語として有名であり、この意味はとても深いといえます。

人の創造は1章の「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」もよく知られています。

聖書学的には、1章、2章は異なる資料の文書とされています。

2章4節の「b」も聖書に記されておりませんが、節を更に細かに分ける時に用いられます。

「主なる神が地と天を造られた時」から古い資料の文書です。

説話的、神話的な感じもしますが、哲学的、心理学的な感じもします。

 

この創造の特徴は、土(アダマ)と人(アダム)との関係です。

人はその息をひきとり、葬りの時も、祈りの言葉に「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」とあるように土に人はかえります。

ただ私はそれ以上に、人が生きるのは、土を耕すことの存在として感じます。

これはアダムだけでなくカインにもでてきていますので、注目したいと思います。

また個人的によく引用するのですが、同志社大学の校歌「蒼空に近く」の繰り返しの歌詞に「植えよ人を、輝け自由 我等 我等 地(つち)に生きん」も聖書の教えにふさわしく感じております。

 

この人と土の関係ともう一つは、神の息です。

もちろん人の命は、古代に於いても、呼吸の有無が死と生を分けることは誰もが検証できるしるしとなります。

その息を、聖書は「神が鼻に命の息を吹き入れられた。

人はこうして生きる者となった。」と告げています。

この1節は、聖書全般に広がりを感じます。

まさに「人はこうして生きる者となった」ことをいろんな場面で感じます。

よみがえりの主が、弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けよ、と福音宣教に遣わされたこと。

その弟子たちから今のわたしたちも、よみがえりの主イエスのからだなる礼拝から、主の息吹を感じつつ、罪赦された新しい命に生きる者と遣わされています。

まさにわたしたち信仰者の存在の原点でもあります。

 

聖書から更に聴いてまいります時、福音書の主イエスの言葉にも、この創造の命、息吹を感じます。

「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」にも、神の豊かな守りそのものが、わたしたちの命であるように感じます。

 

そのわたしたちですので、心と思いをひとつにし、神がわれらのつくりぬしであり、この世界は神のもの、万物は神によって創造されたことを讃美してゆきましょう。 

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年10月17日(聖霊降臨節第22主日) 

説教「ともし火をもって」

聖書 イザヤ書 33:17~22 マタイ福音書 25:17~22

 

5月23日のペンテコステからの聖霊降臨節も本日の第22の主日の週で終わります。

教会暦の聖書に関して申せば、1年のサイクルで、神の御救いを聖書の御言葉で辿っております。

 

流れとしては、救い主の降誕に向かう旧約の歴史、そして降誕、主の生涯、十字架と復活、聖霊降臨からの使徒と教会の働きとその信仰を、この1年52週の主日で聖書から聴いています。

すごろくでいえば本日の主日が「あがり」であり、次主日から新たな降誕前の聖書の学びがスタートとなります。

すごろくと違うのはあがりで終わってしまわないことですが、あがりということも少し念頭において頂き、本日の礼拝主題「天国に市民権をもつ者」も考えてみたいと思います。

 

これらのことが聖書の内容と係わっております。

一言でいうならば、福音書の「信じて待つ」ことにも近く、讃美歌で言えば「主を仰ぎみれば」の2節のうつくしの都、エルサレムはで謳われるあの黙示録の輝ける水晶のような川のほとりの世界を抱きつつ、信じて生きることが、天国に市民権をもつ者と言えるかもしれません。

 

イザヤ書は、大きな区切りで言えば40章までは、王国時代の預言者イザヤの預言と言われますが、その中には、後代の預言も混ざっているように思えます。

この33章もむしろバビロンの捕囚の地に於いて、遠くシオン、エルサレムを幻の内に見ています。

そこにはもう脅かす者も虐げる者もおらず、まことの神が、われらの王となって救われるという預言であります。

バビロンで告げたエゼキエルの幻の神殿のようでもあります。

 

マタイ福音書は、10人のおとめの譬であります。

譬ですので、そこには伝えたいことが比喩的に織り込んでおりますので、読み違えると、油を分けてくれない冷たいお話、婚宴に入れてもらえない悲しいお話になってしまいますが、この譬は、信仰の応答、信じ備えをして待つことを勧めております。

ただ備えとは何か、待つこともこの地上の生活に於いて、どこまで具体的なことが求められているのかを問われると、難しくもなってきます。

この信じて待つことが、どういうことなのかを、イザヤ書のこの預言の言葉が、その心を教えてくれています。

 

この33章、民たちを抑圧する力の存在をでてくる言葉から感じます。

暗い影がまだ地上を覆う中でも、確かにあかるい光が差し込んできています。

マタイ福音書の花婿を迎える女性たちのともし火も似ているかもしれません。

仰ぎ見る神の御恵と御光こそが、わたしたちのともし火でもあり、それを喜びとして感じられる心こそが備えの油ともなります。

 

テサロニケの信徒への手紙にも、「霊の火を消してはいけません」と教えています。

「いつも喜んでいない。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

この小さなわたしたちのともし火が、この世を旅する人の希望となってゆくことができますように。

  

終末的な譬は、よく右と左に、また忠実な僕と悪しき僕に、賢いおとめと愚かなおとめに分けられていますが、単に分け裁く事よりも、むしろ神の恵みに応えて生きよと促されてきますし、また、主よ、来ませり(或いは主の御前にでる)その主との「近さ」を強く感じます。  

 

 (説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年10月10日(聖霊降臨節第21主日) (神学校日礼拝)

説教「何をしてほしいのか」

聖書:ルカによる福音書18:35-43

 

私は現在アメリカのサンフランシスコ神学校に在籍し、キリスト教の霊性について学んでいます。

「霊性」というのは、神様とまるごとの私との関わり、神様との関係における私の全体的なあり方と言っても良いでしょう。

 

一方で、私たち現代人は、頭だけの信仰理解に偏っているかもしれません。

そのような中で身体や心、たましいも含めた私として神様がどのように私を愛してくださっているかに気づくことを助けるような実践について、キリスト教の伝統に根ざしつつ学び研究しています。

 

聖書にも、自分まるごとをイエス様に訴え、イエス様との対話の中で自らの心に気づいた人物が登場します。

エリコの街の近くで物乞いをして生活していた盲人は、イエス様とその群衆がやってきたことを知ると、全身全霊をもって「私を憐れんでください」と叫びました。

この叫びは最も根本的な大きな願いです。

彼の第一声はともかく私はここにいて、助けてほしいというものだったかもしれません。

この叫びにイエス様は応えて問いかけます。

「何をしてほしいのか」と。

これは「もう少し聞かせて?」というようです。

 

このやり取りからこんな場面を連想します。

混乱して自分でも何を求めているのかわからなくなっている子どもに、親がしゃがみこんで、「どうしてほしいの?」と尋ねるような場面です。

自分ひとりでは難しくとも、誰かが、イエス様の方がそこに関心を寄せてくださる中で、私たちは心の内にある思いに気づくことができるのではないでしょうか。

この時に尋ねられているのは、親が子に問いかける時と同じように、優等生の回答ではなく、すでにあなたの内にある思いです。

 

そのまま素直に打ち明けても聴いてくださる方がいる。

そのような関係においてこそ、男はまっすぐに、「目が、見えるようになりたいのです。」と答えることができたのでしょう。

 

イエス様はこの男の願いを知った上で敢えて聴いてくださった、と語られることもあります。

その通りだと思いますが、一体なぜでしょうか。

イエス様は彼の頭とだけコミュニケーションを取りたいのではない。

腹の底にある思い、あなたという存在すべてとコミュニケーションを取りたいと願っておられるからです。

そこに、全人的な癒しが生まれるのではないでしょうか。

私たちのまるごとをしっかりと受け止め、取り扱ってくださっているお方がいてくださる。

その中で、自分の内に認めた思いについて、イエス様との対話はさらに続けられていきます。

 

この思いについてイエス様はどのように見ておられ、どのようにお語りになるだろう。

何へと招いておられるのだろう、と。

このやり取りが全身全霊をもった、より全体的な献身へとつながっていくのではないでしょうか。

イエス様とのより深いコミュニケーションはより深い従い行く道へとつながっていく。

癒やされたこの男は、イエス様に従っていきました。

 

この対話へと私たち皆が招かれています。

イエス様が今、あなたの前で、あなたは何をしてもらいたいかと尋ねてくださっている。

すでにあなたの内にある思いを打ち明ける時、私たちの身体に、たましいに、あの思いこの思いに、私たちのいのちのすみずみにイエス様がいてくださったことを知るのではないでしょうか。

新たな一週間を、私たちのいのちの、具体的な生活の一つひとつに主の臨在を思う週としていただきたいと願います。

 

(説教要旨:上田直宏)


2021年10月3日(聖霊降臨節第20主日) (世界宣教の日礼拝、世界聖餐日礼拝)

説教「信じて祈るならば」

聖書 ヨシュア記 6:15 マタイ福音書 21:1832

 

 マタイ福音書21章18節から32節までに4つの段落があります。

葉だけのいちじくの木の話、権威についての問答、二人の息子の譬であります。

旧約のヨシュア記はエリコの陥落の冒頭部分でありますが、福音書のいちじくの物語の「信じて祈るならば、求める者は何でも得られる」の内容と通じています。

エリコの城壁も、この前には偵察を送り、遊女ラハブの協力によって無事に戻ってくる話も有名ですが、この戦いの勝利は、城壁を1週間かけてめぐり7日目に鬨の声をあげて城壁が崩れるという不思議さをもって、神によって与えられた勝利であることを告げています。

本日の福音書も「信じること」と「信じないこと」の明暗を対比させ、信じることとは、更にどういうことかを聴いてまいります。

 

 主イエスが、いちじくの木を枯らすことも珍しいかもしれません。

この実のない葉だけのいちじくが何を現わしているのは、後に出てくる「何の権威で」と、偉そうに質問する祭司長や長老たちであることが分かります。

3つめの返事だけで父の手伝いをしなかった弟も、彼らのうわべだけの姿を描いているように思えます。

言葉としても、バプテスマのヨハネを「信じなかった」と断言されています。

 

では大切な実とはなんでしょうか。

それは3つめの譬より、父の求めに「いやです」と答えてしまったけれど、悔い改めて手伝いにいった兄の姿であり、いちじくの実は、徴税人や娼婦のような罪びととみられている人達への神の招きと救いが、その実としてあることを感じます。

 

 「信じて疑わない」の言葉からは、自分のうちにあって、ゆるがない確かな信仰のように捉えると、それも自分を頼り、かえって誤ってしまう危険はあります。

人は全く確かではないと、聖書は主イエスの傍にいる弟子たちの姿を通して教えています。

 

 信じることに確かさがあるのは、それはこんな罪のなかにあるわたしたちでも、神は御恵みをもって救い出してくださるというその神の愛にしかないといえます。

そしてその恵みは、必ず聞き届けられ与えられてゆくというのが信じられることだと、今日の聖書は教えています。

 

 ヨシュア記で、民を先導したのは7人の祭司と神の箱ですが、わたしたちの前を進みゆくのは、十字架に主イエスであり、わたしたちの後ろに在って守ってくださるもこの主イエスであります。

山が海に移るという表現もありますが、世界が波で騒ぎ、揺れ動くとも、この主の御守りと導きは、変わりなくあることを信仰はいつも教えてくれます。

この主の恵みを一筋に信じつつ歩んでまいりましょう。

 10月は教会行事が続いてまいります。

その最初本日は世界宣教の日、世界聖餐日であります。

コロナの中で、まだ聖餐を礼拝で守れておりませんが、しかし、本日より礼拝が再開された喜びをもって、主がわたしたちのこの交わりの只中におられ、わたしたちを、キリストのひとつのからだとし、礼拝からそれぞれの1週間の旅路へと聖霊をもって遣わしてくださるその意義と喜びを感じつつ、この礼拝を捧げましょう。

 

 (説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年9月26日(聖霊降臨節第19主日) 

説教「永遠の命」

聖書 コヘレトの言葉 3:1~13 マタイ福音書 20:1~16

 

  コヘレトの言葉(口語訳聖書では伝道の書)は、預言書や歴史書でなく知恵文学に属するユニークな書です。

肩の力を抜いてくれるような感じのする御言葉が沢山あります。

今日の箇所では「神はすべてを時宜にかなうように造り」や「神のなさる業を初めから終わりまで見極めることはできない」とあります。

この現実の世を不条理も含めて受容しつつ、どのように生きたらよいかをコヘレトは勧めています。

 

 ぶどう園の労動者の譬も、解釈によっては難しい譬かもしれません。

同じ農園で長時間働いた者と、短時間働いた者が、同一賃金の支払いとなっています。

労働時間と賃金の観点からみると不公平であり、長時間働いた者は、当然、不満を言いたくなります。

また賃金支払い方法も、多くもらえるような期待を抱かせられていますのでなおさらです。

ただその順序によって主人の「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」という神の愛がより強調されてくることになります。

 

 この譬は、労働基準の法や労動者の権利を取り上げているのではなく、神の僅かしか働かなかった者への思いが核となっています。

この僅かしか働かなかった者をなまけ者とみるか、働けなかった者として見るのかで理解も少し変わってきます。

譬では「誰もやとってくれないのです」とあるように、働きたくても働けなかった者です。

人は誰しも、自分の立場で考えますので、他の人の気持ちまでは、分かりづらいといえます。

譬も、長時間働いた農夫は、自分の苦労とその労苦が報われるように主人に訴えています。

ただこの主人だけは、自分ではない他者の気持ちを重んじています。

この最後の者も、皆と同じように分けてあげたいと、この人も同じように支払ってあげたいと。

 

 ここには平等と公平という内容が、全く違う角度で感じられてきます。

一日働いた農夫たちが期待する自分のための公平さと、主人が思うその公平さは、同じ言葉であってもここでは違いがあります。

公平や平等、また自由や平和、これらの言葉自体は正しい響きを常に持ちながら、それがどのように使われているのか、しっかり見据えてゆく必要もあるかもしれません。

もしかするとその実態が、自分の狭い小さな思いであったなら、神さまの愛は、いつもそれをひっくり返し、成し遂げてゆく思いがします。

それが神の賜物かもしれません。

 

 「この最もちいさい一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」(マタイ福音書)といわれたように、神はこの世界に、御子をおくられて、十字架による救いを成し遂げて下さいました。

その神の愛の前に、わたしたちの傲慢な思いも、災いの口も、身勝手な手足も、少しは神の御用のために用いられるようにかえられてゆきたいと思うものです。

 

コロナによる礼拝の中断と再開を既に今回で5回目となっています。

まもなく緊急事態宣言も解除される見通しです。

礼拝再開の御案内もお届けできると思います。

「何事にも時がある」のコヘレトの言葉を、あらためてかみしめております。   

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年9月19日(聖霊降臨節第18主日) 

説教「永遠の命」

聖書 マタイ福音書 19:13~30  エフェソの信徒への手紙 5:1~5

 

 本日は、これまででしたら礼拝後に敬老祝福の会がもたれている日です。

集会も会食もこの2年控えておりますので、この礼拝の中で、聖書の御言葉と共に祝福の祈りを捧げさせていただきます。

招待者として該当される方は、100名を超えられると思います。

教会員全体の比率から見て、10年、20年後の教会は大丈夫かと不安になる数かもしれません。

しかし、本日は純粋に喜び、お祝いしたく思います。

 

そして教会をこれまで支えてこられたことへの感謝を表し、どうぞコロナ禍にあっても足腰も弱らずにご健康といよいよの長寿を祈願し、この豊かな数も力も全てを神に感謝したいと思います。おめでとうございます。

 

 本日の説教題「永遠の命」は聖書によくでてくる言葉です。

特にヨハネ福音書によく使われています。

またパウロもロマ書のなかで、罪の支払い報酬は死で、神の賜物は主イエス・キリストによる永遠の命です、と教えます。

この頻度の高く、馴染みある言葉は、しかしまた客観的に説明しにくく、時にベールに包まれたようにも感じられるかもしれません。

 

 マタイ福音書の富める青年も永遠の命を求めるために、イエスさまのもとにやってきます。しかし結果、彼は悲しみながら立ち去っております。

律法も守り、欠けていることの無いこの青年が、求めつつも得ることができなかったその命は、確かに難しいのかもしれません。

難しさがどこにあるのかですが、青年が沢山の物を所有しているというその一点が、躓きとなっています。

逆にその前にある子供が祝福される物語では、子供を連れてきた人々は弟子たちに叱られていながらも祝福されています。

ふさわしいと思われた者が去り、ふさわしくないと思われた者が招かれています。

それが永遠の命のヒントのようです。

 

 永遠の命に誰がふさわしいのか、それは人が決めたりすることはできないと聖書が告げているのは、それが神の憐みと愛によるからであり、永遠の命は、まさにこの神の憐みと愛に結ばれた人の命と見えてきます。

 

 この世にあって輝く栄誉は、多くは誰が見ても分かりやすく人の目に写ります。

しかし、永遠の命という神の賜物は、主イエス・キリストによる罪の赦し、その招きにあずかっているという、神の御業にしかないといえます。

その神は、全ての人を救うために御子を、この世に送られ、わたしたちを神の光の子として生きることを望まれていると思います。

 

その光もまた神の憐みと愛によって輝いている不思議な光かもしれません。

一人一人の人生に疲れて呻く時き、不安や悲しみで心塞がれているような時ですら、みな神の輝きの中にあり、たくさんの神の愛が永遠の命として、現にそこにあることを感じさせます。 

 

聖書の中に永遠の命を感じさせられる幾つかの場面があります。

ルカ福音書で、主の十字架の隣にいて一人は主を罵り、もう一人はそれをたしなめ「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」と願い、主が「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答える箇所も私にとってはそうです。

  

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年9月12日(聖霊降臨節第16主日) 

 

説教「七の七十倍」

聖書 創世記 45:1~15 マタイ福音書 18:21~35

  

 主の祈りの中にも「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」と祈っております。

この罪の赦しは、教会にとって、主イエスの十字架の贖いという救いの最も核心でありながら、同時に、人に対しては、マタイ福音書の7章で告げるように「自分の目の中の丸太には気づかず、人のおが屑は見えてしまう」という自分勝手な面があります。

また本日の王に借金の返済を免除してもらいながら、人には情け容赦もない家来の譬も同じくそれを語っています。

 

 弟子たちが、主イエスに対して尋ねた何度まで人を赦すべきですか。

7回までですかの問いには、恐らく、それだけ赦せば十分であろうという答えを予想した多めの数ではなかったかと思います。

日本の諺にも「仏の顔も3 度まで」があります。

過ちも3 度までは大目にみてもらえてもそれ以上はないというこの回数と比べても、弟子の7回は寛容さを誉めてもらえそうにも思えますが、ところが却ってきた答えは、その7の70倍という桁違いの数でした。

赦すことの無制限の勧めのようでもあり、弟子たちの思いを根底から揺るがすようでもあります。

 

 ただ人間はそれほど寛容ではないことも確かです。

この7の70倍という言葉を聞く時、主イエスは、何をここでいい、そして弟子たちに何を聴いてほしかったのか。考えてみましょう。 

 

 後の譬は、自分は赦してもらいながら人を赦せない家来は、分かりやすいタイプです。

自分中心の人です。

赦しというのは、自分とは無関係の事柄では冷静に判断ができ、赦すことをわきまえられていても、こと自分に関しては難しくもあります。

7の70倍も、それだけ沢山赦すよう努めよとの教えよりも、赦すことのできない人の罪の根深さをこの数は語っているといえます。

 

 創世記のヨセフも、兄弟を赦し和解しておりますが、それまでの長い日々は、赦せない思いや労苦の道を歩んでおり、再会しても簡単には信用せず自分の正体を伏せたまま対応しています。

そしてようやく、ここに赦すということを、神から与えられたその計画としても受け入れて、涙ながらに兄弟となっていることは、人がどれだけ赦すということの難しさをも含んでいます。

 

 このような赦せない人がわたしたちの姿であるということを先ず、主の前に思い、そして、その主イエスが、このようなわたしたちのために、十字架にかかって、その命を捧げられたということをわたしたちは信じ告白しております。

 

 主の十字架と復活に、わたしたちの罪とその贖いがあること、そしてその主に生きよ。と命を受けたわたしたちであります。

どうか、この主を見つめつつ、従ってきなさいといわれた道を見失うことのないように歩んでゆきたいものです。

 

讃美歌54年版511「み赦しあらずば 滅ぶべきこの身 わが主よ 憐み救い給え。

イエス君よ このままに 我をこのままに 救い給え」の歌詞も思い浮かんできます。  

 

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年9月5日(聖霊降臨節第16主日) 

 

説教「兄弟をえる」

聖書 エゼキエル書 37:15~28 マタイ福音書 18:10~20

 

 本日の旧約書と福音書は、異なる時代の異なる教えでありながら、その中心にあるのはほぼ同じ言葉という格別な思いをもって臨んでおります。

 

 エゼキエル書の「わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とあります。

マタイ福音書には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と記されています。

神がわたしたちの真ん中におられること、それがわたしたちをして、兄弟としてくれることを聖書からきいてゆきたいと思います。

 

 エゼキエルは、バビロンの捕囚時代の預言者です。

新しい神殿の幻のような長い黙示的な箇所もありますが、枯れた骨の復活やイスラエルの牧者のように命と愛に溢れる預言も沢山あります。

この37章も散らされ、分かたれた北王国のイスラエルの民と、南王国のユダの民がひとつの木とされる象徴的預言により、再び同じ主の兄弟となることを告げております。

福音書も迷いでた1匹の羊を探しにゆかずにおれない羊飼いの譬えであり、小さな兄弟の一人も滅びることのないようにという神の愛の教えであります。

やさしい聖書の御言葉であり、神の愛が、抽象的な一般的なものでなく自分中心のものでもないこと、ただこの兄弟の為になす業であること、またそうせざるを得ないどうしようもない思いであることが伝わってきます。

 

 世のなかで正論と呼ばれる言葉があります。

その字が示す正しさがあるようで、実は自分の言い訳やごまかしに用いられることもあります。

他者への愛や思いやりが失われていては、正しさもその大切なものを欠き機能しないようにも思えます。

99匹を放り出していくその責任も問われれば、何も答えられないかもしれませんが、それでも神の愛は壁や枠を超えてゆきます。

その地上の業は、天上にあってしっかりと神の御心に結ばれ繋がっております。

失われた1匹の羊も、皆と同じ大切なかけがえのない神の羊です。

それを、わたしたちも主イエスの愛によって知ることができます。

だから、罪のわたしたちも兄弟とされてゆくことができます。

その場、その時に神がわたしたちの真ん中におられることを、本日の聖書は告げてくれています。

 

 十字架の後、怯えて閉じこもる弟子たちの真ん中に、主は立たれ、罪の赦しの聖霊の息吹を吹き入れられ、復活の証人として遣わされました。

今も、この世界の中で、孤独やみずからの壁の内にたたずんでいるわたしたちに、「生きよ」と主は新しい命を授けてくださったことを思う時、わたしたちも、兄弟としてのいのちと喜びにあずかって遣わされてゆくひとりとされるように思えます。

 

 9月第1主日は、教団の教会行事ではありませんが、振起日礼拝としても守られてきました。

今は関西学院教会も無会衆の礼拝となっておりますが、今日の聖書の「主がこのわたしたちの真ん中にいてくださる」から、心のどこかに新たな風が吹くのが感じられてきます。   

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)


2021年8月28日(聖霊降臨節第15主日) 

 

説教「天の国のたとえ」

聖書 列王記 3:4~15マタイ福音書 13: 44~52

 

 旧約列王記上3章は、ソロモン王の祈りが聞かれる物語です。ここから私は、日本のおとぎ話が浮かんできます。

老夫婦に、願いこと3つが叶えられるということで、夫が願った1つめから妻と喧嘩になり、かっとなって2つ目を言ってしまい、3つ目はそれを戻すことで、結局なにも叶えられなかった話です。

 

 ソロモンは、神に何でも願うがよいと言われ、自分が未熟な者であるので、民を正しく裁く知恵を授けて欲しいと願います。

神はそれを喜び、彼が求めなかった富も栄光も加えて与えられるという内容で、ソロモンと知恵が結び付けられています。

 

 福音書は、天の国のたとえで、短く3つ続いています。

直接的にソロモンの物語との結びつきは分かり難いのですが、3つのたとえを見つつ考えてゆきましょう。

 

 3つのうち、最初のたとえは、畑に隠されている宝です。

これだけでは分からないのですが、見つけた人は持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うとあります。

この売り払って、新しいものを買うことが後にも続き、共通しているのは、古いものを放っても、新しい喜びに満たされるということがいえると思います。

 

 フィリピ書の御言葉に「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」とあります.

この言葉が、福音書の内容を言い表しているように思えます。

それが天の国のたとえとソロモンの祈りにも通じているように感じます。

 

 ソロモン王も、自分の為に長寿も富も敵の命(古きもの)も求めなかったことを神はよしとされ、善悪を判断する心、聞き分ける心を求めたソロモンに、彼が求めなったものまでが、神から賦与されています。天からの恵みで溢れているように思えます。

 

 人は得ようとして失うこともあれば、失うことで初めて得るものがあることも、人生の不思議な豊かさです。

天の国のたとえでは、先のフィリピ書に「あまりにすばらしさゆえに、それまで自分に有利であったものも、ちり芥のように思える」もまた同じことを告げています。

 

 よく信仰の旅路を歩んでこられた方が、「今日あるは是すべて神の恵みなり」ということも、天の国の輝きを灯しているように感じます。

労苦や忍耐をも神の恵みの中に見ておられます。

 

 わたしたちが求め、所有から得る喜びも確かにありますが、神が与えてくださる御恵みというものは、それとは違い、わたしたちの目と心を新たにさせて、働き、無くなることもない喜びのように思えます。

パウロが言う「キリストと結ばれた人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、あたらしいものが生じた。」また「今や、恵みの時、今こそ救いの日」とコリントの教会に宛てた手紙で語っているその内容が、この天の国の喜びを語り、またその天からの恵みは、小さなわたしたちの杯に溢れているようにも思えます。

 

 わたしたちの信仰の旅路も、この喜びに満たされてゆきますように

ソロモンの知恵は、この後、遊女二人の争いの物語で、見事にその知恵で裁くことが描かれております。

 

5度目の礼拝中断となりますが、神がみなさまと共にありますように。

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)  


2021年8月22日(聖霊降臨節第14主日) 

 

説教「毒麦のたとえ」

 

聖書 マタイ福音書 13: 24~43

 

 今朝の聖書箇所は、マタイ福音書の13章24~43節です。

この箇所で気になるのは、「毒麦」という言葉です。

調べてみると、イネ科の植物にドクムギ属というのが確かにありました。

内村鑑三は、カラスムギと書いていました。

人間には食べられない、という点で「毒」という名前がついているようです。

 

 よい麦も、毒麦も、実がなる前の段階ではよく似ているようです。

しかも、麦畑に雑草として生えてくるドクムギは、根が麦の根にからむように伸びるのだそうです。

ドクムギだけ抜こうとして麦が一緒にぬけてしまわないよう、実がなってから、刈り入れのときに決着をつけよう、ということです。

 

で は、その刈り入れとは何か。

39節によれば世の終りのことです。

わたしたちが天の国に入れるのかどうか。

そのことを刈り入れた後に焼かれるか、蔵に収めてもらえるか、といっているのです。

 

 果たして自分たちは神の国、蔵に収めて頂けるのか焼かれてしまうのか。気になってしまいます。

イエス様は、ここで「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と言っておられます。

最終的な判断は神様がご自身でなさるのだから、お委ねするしかありません。

確かに同じ畑の麦同士で、自分はよい麦だが、おまえは毒麦に違いない、おまえなんか焼かれてしまうのだ、と争っても仕方ないようにも思えます。

 

 現代の私たち、とりわけ日本の状況を考えると、我々こそ救われて神の国に入り、あとの連中は歯噛みして悔しがるのだ、というのはあまり救いを感じるメッセージではないようにも思います。

 

 確かに、悪魔の蒔いた毒麦が、不法をなし、躓きのもととなるようなことをする。

これは注意すべきです。

しかし私たちには、自分たちが躓きの原因であっても、誰かのせいにしたい。

その誰かが悪魔、毒麦と考えたい。

そういう厚かましさが私たちにはあるのではないか、と思わせられます。

そんな自分こそ毒麦です。

 

 では私たちは悪い毒麦で、それは変えられないことでしょうか?

私たちは神様の呼びかけに応える気持ちであるのに、実際は悪魔に撒かれた毒麦であった。

そのようなことがあるでしょうか。

 

 ここで目を向けたいのが、毒麦のたとえとその説明との間におさめられている、からし種とパンだねのたとえです。

からし種のたとえも、パンだねのたとえも、とてつもなく大きなものが、今はほんの小さな始まりであるけれども、確かに始まっているということを示しているのだと思います。

 

 ほんの少しのはじまりから大きなものを与えて下さる神様のすごさをイエス様は示しておられます。

神の国の大きさ、神様のはたらきの不思議さ、人間にははかり知れない様子を示しておられるように思われます。

また、ほんのわずかな弟子たちに対して語られたイエスの神の国の福音が、世界中にひろがる神の民となることを示しているようにも思えます。

 

 かほどに、神様は不思議な偉大なことをなさる。

毒麦のような罪人も神様の愛によりよい麦のように義人と見なしてもらえる。

そのように期待してもいいのではないでしょうか。

 

 世界はすべて、神様が創りたもうた世界であるはずなのです。

神様のおかげで自分たちも大丈夫であり、みんな大丈夫である、とても喜ばしい、ということなのだと思います。

 

 この世界は、本来の設定としては「よい畑」であり、私たちは本来「よい種」ということをよく覚えておけばそれでよいようにも思います。

私たちはみなよい種のはずです。

 

お祈りいたします。

 

(説教要旨 岩野祐介)


2021年8月15日(聖霊降臨節第13主日)

説教「ここにわたしの兄弟がいる」

聖書  創世記 24:62~67 マタイ福音書 12:43~50

 

  教会でよく使われる言葉(単語)に「罪や救い」、「招きと派遣」などあります。「兄弟姉妹」という言葉もそうです。

創世記ではイサクがリベカを妻として迎え、家族となります。

マタイ福音書には、「わが家」、「家族」、兄弟姉妹」という言葉がでてきます。

わたしたちだれしも、家族、家、友は、現実の生活の場であり、日常の身近なこととなります。

居心地よく暖かい場であり、また時には極めて難しい場となることもあります。

創世記を見ていきますと、家族の関係、それが如何に難しいか、読めば読むほどそう感じます。

 

  アダムとエバの関係、カインとアベルの兄弟争い、そして族長物語でも、アブラハムと甥のロト、イサクとイシマエル、そのイサクの息子ヤコブとエサウ、またヤコブの息子のヨセフと他の兄弟たち。

兄弟がことごとく一緒におれなくなったり、憎み争っています。

 

 また家との関係に於いても、アブラハムも、父の家を出て旅立ちますが、祝福だけでなく、ヤコブも、イシマエルも逃げるように家を出てゆきます。

ヨセフもそうです。

自分の家がありながら、石を枕に野宿の旅となっています。新約の放蕩息子もそうかもしれません。

自発的に家から出ていきますが、離れて家と家族を思うのです。

また失われた1匹の羊も、その群れから離れていますし、バビロン捕囚の民たちも、ケバル川の畔で、遠い故郷、家を思う民となっています。

 

 居場所を求めて彷徨う民のようにも思えます。

神の「どこにいるのか」の御声に、身を隠すところが人にはあるように思えます。

居場所とは、家族や人との関係に於ける自分の生きる場所かもしれません。

場所が用意されていても、期待が大きすぎ、それに応えられない時も、やはり場が無いのかもしれません。

 

 聖書は、家や家族、兄弟の間において不和と不協和音を描き出し、如実に人の弱さを炙り出します。

まるで、バベルの塔の意味する混乱(バベル)です。

理想を目指しつつも、崩れかかるそのバベルの塔は、人と社会に常にあります。

 

 主イエスは、そのようなわたしたちの世界に来られ、「見よ ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われます。

よきサマリヤ人の譬の教えでも、人は皆生まれながらにして隣人の関係ではない、しかし、隣人になれると教えています。

それが、神が生きよと息を吹き入れられた人であります。

「父の御心を行う人」であるともいえます。

創世記はあれだけ兄弟の争いを描きつつ、最後に、ヨセフがその兄弟を涙のなかに抱きしめて、それこそ「兄弟」となってゆきます。

 

 主イエスがいわれた「健康な人に医者はいらない、わたしがきたのは罪びとを招くためである」の御言葉。

その罪の中に主イエスの愛が溢れるように、わたしたちの交わりの欠けと躓き、そこにキリスト・イエスが共におられ、主と結ばれた兄弟、姉妹となってゆけるのだと思います。

 

そして教会も同じく、主の教会として、この世界で福音を伝えてゆけるのだと思います。

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)  


2021年8月8日(聖霊降臨節第12主日)

説教「蛇のように賢く、鳩のように素直に」」

聖書  エレミヤ書 20:7~13 マタイ福音書 10:16~25 

 

 先主日の「宣教への派遣」に続く御言葉になります。

マタイ福音書には「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とあります。

そして、説教題にもしましたが「蛇のように賢く、鳩のように素直に」と教えます。

分かり難い譬えではありませんが、しかし違和感がなくもありません。

牧師就任式の司式者の勧めにも「教会というのは、狼の群れのような処ですので気をつけて」は聞いたことがありません。

「羊の群れを養いなさい」という聖書の御言葉が勧められます。

 

 この狼の群れは、宣教の中で苦難と迫害を想定しているのでしょう。

苦難と困難は、確かにいつの世にも教会でみられ、珍しいことではありません。

そういう共同体の困難に対し、圧倒的な支配力や指導力よりも、「蛇のように、鳩のように」という賢明さと純真さの両方を備えるように勧められています。

 

賢さは行き過ぎると、要領の良さやずる賢さのように自分が益することになりかねません。

また純真さも同様、ただのおひとよしになり、人のいいなりになってしまうことも問題です。

現実の社会の中で、その節度が難しいかもしれません。

また更に、本来自分の性格に持ち合わせていないような資質であれば、それを持てといわれても、何かあるとすぐにメッキが剥がれそうです。

 

 預言者エレミヤは、南のユダの国が滅びに直面している時代に立てられた預言者です。

本日の箇所からも、孤独に悩み、職務に自信も喪失しており、内向的な性格であったともいわれています。

 

 人の嘲笑が彼を窮地に陥らせます。

そんな時、よく「気にするな」と助言されますが、気にする性格の者にとっては、その言葉も気になってしまいます。

神はその孤独なエレミヤに告げます(15章)。

「あなたが、彼らのところに帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と。

 

 エレミヤの立つ場所、彼のその苦難こそが、正しい位置の証明のように言われます。

考えてみれば、そのような職はどこにでもあります。

責務を負う中で人のせいにできず、批判を受ける務めのようなものです。

例えば、野球の監督も、負けが続くとファンからの容赦ない矢がとんできます。

 

 さて、エレミヤはそのように一面は神経質で臆病でありながら、しかし同時に大胆で力強い預言者であります。

それが神の立てた預言者であり派遣であると感じます。

 

 「蛇のように鳩のように」も、このように考えてみると、聡明さと素直さだけに留まらず相異なる二つのことを勧めているようにとれます。

倒れても立ちあがることや、進むことと忍耐して待つこと。

宣教の働きには、順風な時、逆境の時もその務めは止むことなく、神に用いられてゆくように思えます。

 

 それは信仰生活に於いても然りで、激しい逆風の時も、その大切な枝が折れてしまわないよう、神は、木は守りその枝を守り、収穫は多いといわれるように、時をもって、実を結ばしめてくれることを信じたいと思います。 

 

 創世記(3章)にも出てきますが、蛇がどうして知恵の象徴なのか、異様な形態から超越的、神秘的な知恵が結び付けられたように思えます。

またお土産屋で、フクロウもよくみかけます。

フクロウも知恵と結び付いてますが、夜でも目を覚ましているからでしょうか。   

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2021年8月1日(聖霊降臨節第11主日 平和聖日)

説教「「収穫は多いが、働き手は少ない」」

聖書  ヨナ書 3:1~5 マタイ福音書 9:35~10:15 

 

 

  宣教への派遣という礼拝主題のもと、旧約はヨナ書、福音書はマタイの弟子を派遣する箇所が与えられています。

珍しく、旧約がニネベという異邦の町への宣教を、新約が「異邦人の町に行ってはならない」と、宣教がイスラエルの民に向けてとなっています。

しかし、飼い主のいない羊のような民に向けられているのは、変わりがありません。

 

 ヨナ書は、預言書であっても、2章が詩文で、それ以外は教訓的な物語となり、読みやすく広く親しまれています。

民族の壁を越えた神の深い愛は、この書独特のものがあります。

ヨナは人間味溢れる預言者で、神の命に背き、不平を言います。まるで民の代弁者のようです。

愛国心旺盛なヨナに、神は憐みの心の強さを、とうごまの木をもって諭すように教えています。

神の愛は、ヨナの思いを超えて深いことを分かって欲しいという切なる温かみも、この預言書にはあります。

 

 宣教の派遣では、自らの目的達成の為ではなく、神の深い憐みの愛が、弟子たちを送り出します。

初代教会も、主イエスの十字架の罪の赦しという喜びの福音を、すべての民に告げてゆくことになります。

この神さまの愛による働きと収穫は、からし種一粒がどんな木よりも大きくなるように、測り知れない恵みと喜びに溢れております。

その収穫の前に「常に、働き手は少ない」と表現されますが、これはパン屑が12の籠に溢れている状態となります。

 

 弟子の派遣にあたり、主イエスは「金銀を持っていくな、袋も二枚の下着も履物も杖も持っていくな」と教えています。

旅には必需品ばかりでしょう。

けれどそれを持っていくなということは、この世の頼りとなるものに頼ってはいけない。

ただ神の恵みを信じ、それを第一として、行きなさいという意味に感じます。

 

 現代風に言えば、夏期派遣の神学生を送り出す時に「スマホを持っていくな」になるのかもしれません。

きっと誰も守りはしないでしょうが。

ただ、その意味は「お前のいく処で、人に出会い、人を大切にして、御言葉を伝えよ」であると思われます。

 

 神さまの派遣、それは伝道者だけではなく礼拝によって遣わされる私たち一人一人です。

「さあ、行きなさい。」

それは主の招きと併せて一つです。先立たれる主の後に、わたしたちは従いゆきます。

主がその十字架を背負われたように、わたしたちもキリストにあって、多少の荷を背負いたいと思います。

そのことにより、ますます主の恵みと主の近さを感じつつ、主の収穫の喜びに預かれると思われます。 

 

8月の第1主日は、平和聖日です。

「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」の御言葉や「もはや戦うことを学ばない」世界が実現しますように。

主の平和をこの世界で、すべての民が享受できますように。

飢餓や差別、病と貧困、様々な問題が尚世界にありますが、互いに弱さをもつ人の理解と協力によって心が通じ合い、希望が生まれますように。   

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2021年7月25日(聖霊降臨節第10主日)

説教「共に食事を」

聖書  ホセア書 6:1~6 マタイ福音書 9:9~13  

 

 新共同訳では、ホセア書6章の冒頭に「偽りの悔い改め」という小見出しが付いております。

もし、この小見出しがなく読んでいくと「さあ、我々は主のもとに帰ろう。・・主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、・・・我々を訪れてくださる」とありますので、慰めと励ましに満ちた御言葉として受け取ってしまうかもしれません。

けれど内実は、全く逆の神の嘆きと怒りに満ちた皮肉の言葉であります。

それは後の言葉からわかります。

「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか」と。

つまりどうしようもない深い罪の中にある民への嘆きです。

 

 何を嘆かれているのでしょうか。

口先だけの、偽りの言葉を神の前に捧げて、自分たちはさも信仰深くあるかのように思い込んでいる民に対してです。

神の思いは、そこから大きく離れているというのが、ホセアの預言の言葉です。

 

 マタイ福音書も、異なる状況ですが、同じ事柄がここにあります。

罪人といわれる徴税人たちとの交わりを避けることが、神の前に正しい生き方であると思っているのがファリサイ派の人たちです。

彼らの前で、主イエスは、マタイという徴税人の家で共に食事をしています。

これはファリサイ派の人々には、理解し難いことです。

罪の中に自らを進んで投じているように見えたでしょう。

 

 本日の箇所に登場する者は皆が神を信じ、信仰の旗印を掲げている人たちです。

しかし、そこに大きな溝があります。

ホセア書も、そういう人の思いに対して、木が切り倒されるような厳しい口調で、神が求めておられるのは愛であり、いけにえではない。

神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではなく、愛(ヘセド、憐れみ)であることを教えてくれています。

 

 愛とはなにか。

主イエスが徴税人と共に食事をすることについて、ファリサイ派の人は、自分たちはそう生きてはいないので、冷たい非難の質問を向けます。

主イエスは、ホセア書の言葉も引きつつ、次の言葉で応えます。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 正しい人の過ちは、自分自身を正しいと見なしていること、そして、それに気づいていないことかもしれません。

一方、罪人と呼ばれる人は、正しいと自分で思っている人から罪人と見られ、そう言われています。

でも、神さまから見て、この人を(このわたしたちを)、どう見ておられるのでしょう。

傷づいた者を守らずにはおれない、そういう愛の神であると信じます。

そしてわたしの大切な子もを傷つけることを、わたしは断じて赦さないというのが神の愛だといえます。

その神の御心が、ホセア書の「ああエフライムよ、お前をどうしたらよいのか」という言葉に現わされています。

また、わたしたちも御子イエスの罪の赦しの命を受け、招かれている罪人の一人であると思えます。

  

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年7月18日(聖霊降臨節第9主日)

 

説教「ただ一言」

聖書  創世記 21:9~21 マタイ福音書 8:5~13  

 

 マタイ福音書5章から7章までのいわゆる山上の説教と呼ばれる御言葉よる教えの後、8章から9章にかけては御業と呼ばれる奇跡物語が続きます。

本日の箇所は、百人隊長の僕を癒す物語です。

そして創世記は、アブラハムの側女のハガルとその子イシュマエルの物語です。

共通するのは、百人隊長も異邦人であり、ハガルもサラに仕えるエジプト人の奴隷でしたので、異邦の民が本日の聖書の中心にいることです。

 

 アブラハムとサラには子供がなく、サラの希望により自分の奴隷のハガルによって子を得ますが、その子がイシュマエルです。

けれどその後、サラにもイサクが生まれると、今度はイシュマエルが疎ましく思え、サラはアブラハムにハガルとその子を追い出すように促します。

アブラハムも苦しみますが、僅かな食料を持たせ、二人を連れ出します。

ハガルもこれから先のことを憂い、絶望と悲嘆の泣き声をあげます。

神はその声を聞き、ハガルに告げます。

「子を抱きしめなさい。わたしはこの子も大きな民とする」

そう約束なさいます。

 

 福音書の百人隊長の僕が主イエスに癒される物語も感動的です。

百人隊長が、主イエスに「自分の屋根の下にお迎えるできるような者ではありません。ただひと言、おっしゃってください。そうすればわたしの僕は癒されます」と言い、主は「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と絶賛して癒されます。

 

 先主日、家と土台、木とその実の段落で「主よ、主よというものが皆、天の国に入るわけではない」と言われた御言葉が、今日の箇所と共によみがえってきます。

ユダヤ人であるというだけで救われるのでもなく、律法の行いをひたすら厳しく守ることにでもなく、この百人隊長のように、信じる信仰によって人は救われることが示されてきます。

「ただ一言で十分、わたしの僕も癒されます」と告げるその思いを、神は御心のままに(ハガルにイシュマエルを抱きしめなさいといわれたように)抱きしめられている思いがします。

 

 カナンの女性の娘を癒してもらうために、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と願い、主イエスに癒された物語も同じく、異邦人であっても神の民であることを告げています。

 

 イシュマエルも、アブラハム、イサク、ヤコブという族長の正統的系譜からは、傍流となっていますが、今日の神のハガルへの言葉は、祝福に満ちています。

まさに「この(人)子もアブラハムの子なのだから」と主イエスがザアカイに言われた救いの御言葉が響いてきます。

 

 信仰は人の功績によらず、ただ神の憐みと恵みによって与えられることを、聖書に出てくる多くの異邦人たちの信仰が教えてくれています。

罪の赦しと招きの福音を喜びとして、わたしたちも歩んでまいりましょう。

 

ノート

ハガルの名前の意味は逃亡です。創世記の物語に合致しています。

またイシュマエルの嫁もエジプトから迎えていますが、イシュマエル族はエジプトとの繋がりがみられます

 

(説教要旨 廣瀬規代志)  


2021年7月11日(聖霊降臨節第8主日)

説教「岩の上に」

聖書  エレミヤ書 7:1~7 マタイ福音書 7:15~29 

 

 聖書の言葉の中に、一つの単語でありながら直ぐに物語まで広がってくる、そういう言葉があります。

「ナルドの香油」や「カナの婚礼」もそうだと思います。

本日説教題の「岩の上に」もそれに近い言葉と思われます。

浮かんでくるのは、マタイ福音書16章のペトロ信仰を言い表すというくだりかと思います。

主イエスの「人の子を何者だというのか」の問いに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答える。

そして、主が「あなたはペトロ(岩)、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた箇所ではないでしょうか。

 

 本日の聖書箇所は、そこではなく、同じマタイ7章の山上の説教の最後のところにあります。

「わたしの言葉を聞いて行う人は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と教えられたところです。

その対比で、「言葉を聞くだけで行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人」の言葉があります。

雨が降り、川があふれ、風がその家に襲いかかると倒れてしまうとあります。

またその前には良い木と悪い木の譬があります。

 

 福音は神の恵みで行いによるのではないとのパウロの言葉もあり、預言者の言葉にも、悔い改めて神に立ち帰るならば、たとえ罪びとであっても決して死ぬことはないと励ます御言葉に比べ、「悪い木は悪い実を結ぶ」は、どこか見捨てられたような冷たさも感じられるかもしれません。

けれども、その理解は、一部の言葉に囚われているように思え、全体から、教えの核心へ聞き直してみたいと思います。

 

 山上の説教のはじめにも、主イエスは大胆に、あなたがたは、こう聞いている。しかし、わたしは言っておくと告げます。

あまりにも生い茂った律法の枝葉を落としつつ、その根幹である神の御心に、わたしたちの思いを向けさせるのです。

「行い」も、人に見られることが前提にしているような善行ではなく、神の御心に沿う歩みと生き方であります。

それが神を信じる事であり、神への祈りであるといえます。

良い実は、ただ神の憐みと恵みに応えるわたしたちの素直な心であるともいえます。

 

 旧約エレミヤの時代もまさに暗雲と激しい風が押し寄せる時代です。

そのなかで安易に「主の神殿」という言葉だけで守られると思いこんでいる自分中心の信仰ではなく、神の御心に沿う、神が求めておられる正義、即ち孤児、寡婦を守り寄留の民を大事にするその歩みを神に捧げるべきである、と預言者は教えます。

その信仰こそが、民が立ってゆける揺ぎ無い土台であると。

 

 土台となる部分は通常は見えてはいない隠れたところにあります。

また実は(大根などは別とし)、見える地上にあります。

良い木はよい実を結ぶというのも、その地上の実が、見えない土台の根っことも繋がっているということを教えています。

わたしたちの隠れた、しかし、確かな土台は、御子キリストの十字架の贖いにより受けた命であります。

なんの功もなく、ただ恵みによって罪赦された木として、この身も(実も)神が求めておられる愛の実を育くんでゆきたいものです。

  

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年7月4日(聖霊降臨節第7主日)

説教「求めよ さらば与えられん」

聖書  歴代誌下 6:12~21 マタイ福音書 7:7~14 

 

 聖書の中に、さまざまな祈りがでてきます。

パウロも、自らのとげを取り除いてくださいと祈り、神は「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と教えられています。

また神殿でのファリサイ派の人と徴税人の祈りの対比により、神に義とされる祈りを、主イエスは弟子たちに教えられました。

わたしたちも、祈りは、聖書の御言葉とともに信仰と生活に係っております。

 

 本日の歴代誌下にあるのは、ソロモン王が神殿を奉献しその時に捧げた祈りです。

神殿が立てられる前も、モーセの幕屋の時代から祭壇はあり、神にいけにえを焼き、その香ばしい煙が天に昇り、宥めの香りとして神に捧げられ罪の赦しを祈る祭儀が行われていました。

そしてソロモンが建てた神殿に契約の箱が至聖所におさめられました。ソロモンは祈ります。

この神殿も神さまの住まいとして相応しい処などではなく、ここで祈る僕(しもべ)の声に耳を傾けてください。

神を、まことの神として歩むその信仰を祈りの中で告白していますので、栄華を極めたソロモン王ですが、この神殿を前にした祈りでは、神の前に低く、神との近さを教えてくれています。

 

 マタイ福音書の山上の説教は有名な箇所です。

説教題は文語訳の言葉にしました(文語だと与えるの漢字も、復興の興という文字でした)、文語訳はわかりにくい言葉もありますが、短く簡潔に響きます。

天におられる父は、この世における親のようでもあり、親からみて子供はかわいいと、だから天の父に願いなさい、求めなさい、それは与えられるというこの主イエスの言葉に、わたしたちの信仰はどれだけ支えられているかを思います。

 

 悲しみの時、苦しみの時、祈りの言葉も出てこない時、聖霊は、その時もうめきをもって、執り成してくださることを聖書は教えています。

わたしたちの願うその前から、神はその願いをすべてご存知であられ、必要なものは、加えて与えてくださるといわれます。それが確かであるのは、わたしたちの願い通りではない、

神さまの御心のままにかなえてくださるからであります。

 

 親のように、深い神の知恵をもって、わたしたちに忍耐や必要な訓練も与えつつ、神はわたしたちを養い、育ててくださる、それが「求めなさい、そうすれば与えられる」の教えでもあります。

神の子として、光の子として、わたしたちが、その神との関係においてこの世に立てられております。

もちろん罪の中に歩むわたしたちですので、神の前に、「こんなしもべでごめんなさい」と祈るしかありませんが、神は、そのわたしたちの心に応えて、我が忠実なしもべよと、そう愛の御手で招いてくださると信じております。

その神との関係こそが、聖書の教える永遠のいのちであるように思えます。

 

 主イエスは祈りの教えの結びで、人にしてもらいたいと思うこと、即ち、わたしたちの求める祈りの先は、それを人にしなさいと言われます。

与えられればうれしいと感じること、それをひとにすること、それが、主イエスが歩まれた道に、わたしたちも従って生きる道として示され、命に通じる道のように思います。

  

(説教要旨 廣瀬規代志)


2021年6月27日(聖霊降臨節第6主日)

説教「どこにいたのか」

聖書  イザヤ書 49:14~21 マタイ福音書6:25~34 

 

 4月の第4主日から4回目の無会衆の礼拝となり、昨年と同じように6月の最後の主日から教会に集い礼拝を守ることができるようになりました。

礼拝の聖書は、教会暦に基づく1年のサイクルで、特にコロナのこの事態にあわせて選んでいるわけではありません。

しかし時宜にかなって、相応しい御言葉に導かれていることを、驚きをもって受けとめております。

昨年の再開の折の文章にも、「どこにいたのか」というタイトルをつけましたが、本日の礼拝ではその箇所から聞いてまいります。

 

 イザヤ書40章から、バビロンの地で捕囚であった民たちに、エルサレムへの帰還が託宣となって告げられております。

異教の地とはいえ、長い年月のなか、帰還にはさまざま不安があり迷いもあり、決断の勇気が必要でした。

もう自分たちは神から見捨てられてしまったというあきらめの気持ちも覆うなか、49章では、その民の不安に対して神の言葉が優しく語りかけます。

母親が自分の乳飲み子を忘れるだろうか(忘れるはずはない)。それ以上に、神は自分の民を忘れはしない。

また民を破壊した者も速やかに来たけれども、あなたを建てる者(神)は、それ以上に速やかに来ると。

内にある不安があっても、神のより大きな御手が守っていることを諭します。

その現実として、失われたと思われたその民は、なんとたくさんいるのか、「この子らはどこにいたのか」という驚きは、その神の守りに対する感激の叫びでもあります。

 

 マタイ福音書の山上の説教の、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと教えられた主イエスも、思い悩みに疲れ気味のわたしたちに、神はこの鳥も守り花も装って下さる、ましてあなたがたにはなおさらのことではないかと、そう教えます。

神が、わたしたちに必要なものをすべてご存知であられ、必要なものを加えて与えられることも教えます。

 

 思えば、不安と迷いの中に教会も世の人も皆この1年をそのように歩んできたように思えます。

一人鬱々とした思いを内に込めてきた方も多いでしょう。

また世に生きる限り、どうしても、孤独や悩みはいつも自分の影のように付いてまわるものかもしれません。

今日与えられた聖書は、まさにそういうわたしたちに、常に付いているのは、その暗い影だけではなくて、より以上にわたしたちの救いのために、主イエスが命を捧げてまでも、共にあってその御手でわたしたちを守っていてくださることを示しています。

その主の姿を見るときに、思いは全くかわってきます。

 

 それがイザヤ書の(信仰の)「目をあげて見渡すがよい」の言葉でもあります。

わたしたちが無力で、非力であればあるほど、その神の守りの力が働き輝きます。

わたしたちの小さな杯は、その神の恵みで溢れてくる思いがします。

福音書の「残ったパン屑を集めると12の籠に一杯になった」ということも、是みな、溢れる神の恵みを告げています。

  

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年6月20日(聖霊降臨節第5主日)

説教「共に喜ぶ」

聖書  申命記 26:1~11 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8:1~15 

  

 コリントの信徒への手紙Ⅰのなかで、パウロも、神の恵みによって今日のわたしがあるのですと言っておりますが、申命記26章の信仰告白も、それを共同体の告白として語っております。

 

 本日の礼拝の主題は、捧げ物についてですが、これは神の恵みが先行し、その恵みに対しての応答になります。

愛も同じように思われます。

ヨハネの手紙に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。だから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と教えています。

 

 この神の恵みについて、申命記では、次のように始めています。

わたしたちの先祖は滅びゆく一アラム人であったこと。エジプトで寄留の民であったこと。

重労働にあえぎ苦しんでいたのを、神が力ある御腕でわたしたちを贖いだし、この地を嗣業の地として与えてくださったこと。

その感謝のしるしとして、この地の実りの初物を主に捧げますと。ここには教会の献身のしるしとしての捧げ物の意味も込められています。

御賽銭のような、自分の願いのために捧げるものと違うといえます。

最初に神に捧げることも大切です。それは、企業の収益の税収のようなものでもありません。

 

 主イエスも、やもめの献金で言われました。レプトン銅貨2枚でも、この貧しいやもめは誰よりもたくさんいれた。

あの金持ちたちは皆、ありあまる中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部いれたからであると、そう弟子たちに諭しました。

神に捧げるその尊い気持ちが、なにより大事であることを教えています。

 

 日本の多くの教会も、宣教のために、この捧げ物によって立っているという現実があります。

その現実には、それが重い負担のように感じられてしまうこともあるかもしれません。

そういう時には、また今日の聖書の箇所に立ち帰りつつ、今日あるはただ神の恵みなりという、その気持ちを回復させてゆきたいと思います。

その感謝の気持ちがもたらすのが、自然な応答となります。

 

 コリント書も、遠い昔、荒野の旅路で天からのマナも思い起こし、多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかったと告げています。

それが共同体の捧げ物の根幹ともいえます。他の人たちと共に喜ぶことのできる豊さを味わっているのです。

それが捧げ物の大きな実りでもあるように思います。申命記もレビ人と寄留者と共に祝いなさいとあります。

 

 自分達もかつては寄留者であったことを忘れずに、神が何を求めておられるのか、そこを誤ることのないようにしたいと思います。

祭司であるレビ人も貧しい寄留者も共通するのは、自分の嗣業の地をもっていない。

その点では神の前で全く同じです。

繰り返しますが、今あるのはただ神の恵み。そう心から感じられように生きたいと願います。

それが自然に捧げられてゆくようにも思えます。

   

(説教要旨 廣瀬規代志)


2021年6月13日(聖霊降臨節第4主日) 教会創立106年記念日礼拝

説教「地の塩、世の光としての教会」

聖書  イザヤ書 60:1922 マタイ福音書 5:1316

 

 本日は教会創立106年の記念日の礼拝です。

1915年6月13日、神戸の原田の地にある関西学院ブランチ・メモリアルチャペルの礼拝で、わたしたちの教会が正式に創立されました。

設立された関西学院教会は、学院の歴史を共にしながら神戸から西宮に移り、更に現在の地に会堂を建てて今日に至っております。

これまでの教会の歴史を支えてこられた方々の信仰を思い、なにより恵みを持って導かれた神に感謝を捧げたいと思います。

 

 今年も昨年に続き、コロナのなかで配信の礼拝となっています。そういう中で教会の原点ともいえる創立記念日を迎えました。

教会のこれまでの歴史でも、戦時下で礼拝を守ることが困難であった時も、その福音の灯は小さくはなっても、消えもせず絶えることもなかった歩みも想起しつつ、今、離れてはおりましても、それぞれが関西学院教会に連なる一人一人であることをお覚え下さり、この礼拝を共にして下さい。

旧約の歴史でも、捕囚の時代もありました。散らされた民たちもまた、預言者を通して神の御言葉にきき、救いの歴史を繋げてゆきました。

 

 わたしたちの教会は、9月の関西学院の創立記念日も覚えて、関西学院のために祈っておりますが、教会の創立記念にあたり、あらためて、多くの学生のため、また奉職されている教員、職員のため、神の守りと恵みがありますようお祈りいたします。

 

 聖書日課は、教会暦に従った箇所で、山上の説教の主イエスの「地の塩、世の光」のみ教えです。

まさに創立記念日に相応しい箇所と思えます。

教会も「地の塩、世の光として教会」として立てられ、イザヤ書が告げる主の恵みと喜びを告げることができまように。

 

地の塩と世の光は、その目立つ点において対照的に感じられますが、地と世に注目すると、どちらも同じように思えます。

これだけ科学の進歩がみられても、地はなお問題を常に抱え、生きるしんどさが漂い、希望が溢れてこないそういう現実があります。

そういう世の中で、教会の光がどのように働き輝くかですが、教会が世から離れた所での輝きではなく、この地とこの世にあって、共に呻き模索しつつ、隣人に仕えるなかにしかその光はないように思えます。

主イエスが、このようなわたしたちの世にきてくだったという救いを教会は宣べ伝えてゆきます。

主イエスという一筋の光を仰ぎつつ。

  

 教会創立の日は、6月13日の日曜日で、礼拝後に創立宣言がなされました。

初代牧師は小野善太郎牧師です。その前日12日の土曜日に、教会成立発会記念式が同じブランチ・メモリアルチャペルでもたれました。

今年は偶然、日にちと曜日が重なっています。

 

その後、関西学院が神戸の地から西宮上ヶ原に移転するのを機に、教会も移り、学院のハミル館(このハミル館で仁川幼稚園がスタートしました)で礼拝を守りました。

1956年に現会堂の建築が始まり、翌年献堂式がもたれました。当時の牧師は長久 清牧師です。 

   

(説教要旨 廣瀬規代志)


021年6月6日(聖霊降臨節第3主日)

説教「立ち帰れ」

聖書 エゼキエル書 18;25~32 使徒言行録 17:22~34

 

 先主日の礼拝では、聖霊が降ることを、イザヤが預言者として立てられる箇所と、主イエスの「わたしのもとに来なさい」という御言葉を中心に、派遣と同時に主イエスのもとにあって、主イエスの軛を負うことでもあと聞いてまいりました。

 

 本日も、聖霊が降ることの豊かさを学びますが、それは神に立ち帰ることになります。

聖霊が降り宣教の開始がペンテコステであるという理解から、つい「行って、すべての人をわたしの弟子としなさい」の御声のみが聖霊の働きと感じるとしたら、それもわたしたちの思いが先行しているかもしれません。

コリント書のパウロの言葉に「霊は望むままに」(口語訳聖書では、思いのままに)とあります。

神の御心のままに、わたしたちの思惑を超えて聖霊は働くことを受けとめましょう。

ヨハネ福音書でも、聖霊が「罪について、義について、裁きについて明らかにする」とあるのも聖霊の豊かさであります。

わたしたちが世の中であって、冷静にかつ力強く信仰を守り生きていくことを助けてくれます。

 

 そのような聖霊の働きを覚えつつ、預言者エゼキエルは力強く神の言を告げます。

「たとえ罪びとであっても、もし犯したすべての過ちから離れて・・正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」と繰り返し何度も告げます。

「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは、立ち帰って生きよ」と。

神がどういうお方なのか、それは聖書全体から示されるのでしょうが、エゼキエル書のこの神の言、それが主イエスの十字架であり、神の愛であることをわたしたちは知っています。

 

 わたしたちに「生きよ」と、命を与えてくださった御子と父なる神を、聖霊はわたしたちに教えます。

聖霊は罪を教えますが、その罪の最も深い処に、主イエスの十字架の贖いと神の愛があることを示します。

その時、わたしたちの命が新しく主と共にある命へと、聖霊によってまた造りかえられてゆきます。

 

 使徒言行録は、パウロのアテネでの説教です。

ギリシア文化の華咲くこの地で、パウロはまことの神、そしてイエス・キリストの十字架と復活を証しますが、どうも聴衆は冷ややかに聞き流したようです。

パウロはショックを受けながらも、人に迎合することはせず、その後のコリントの教会では、十字架の言だけを、自分の語るべき命の言とします。

立ち帰れの意味を、アテネのパウロの説教にみてもいいかもしれませんが、アテネの経験によって、パウロもまたイエス・キリストの十字架しかないことを得たならば、神の「生きよ」という聖霊の豊かな導きがあったことを感じます。

苦難が、人生の小さな壁が、そして自分の欠点が、わたしたちにいける神のもとに立ち帰らせてくれます。

成功と人からの賞賛ではないように思います。 

 

 

 福音書の日課は、洗礼者ヨハネの悔い改めの箇所です。

洗礼者ヨハネと主イエスも、神の国の到来を告げる最初の言葉は悔い改めであり、聖霊の宣教開始と、神に立ち帰ることは、近いといえます。   

  

(説教要旨 廣瀬規代志)


2021年5月30日(聖霊降臨節第2主日)

説教「誰を遣わすべきか」

聖書 イザヤ書 6:1~8 マタイ福音書 11:25~30 

 

 先主日が聖霊降臨日でした。

聖霊が弟子たちに降り、一つとされた民たちは主イエスの救いを受け入れ、主の教会がうまれ、福音宣教の始まりの日とされています。

 

 本日は聖霊降臨と宣教開始の意味を、イザヤ書とマタイ福音書11章よりきいてまいります。

イザヤ書6章は、預言者イザヤ召命の箇所です。

イザヤは天の御座からのセラフィムが、主の讃美を唱えつつ、イザヤの口に、神殿の祭壇の炭火の火を運びます。

主を見たと恐れおののくイザヤに罪の赦しを告げ、主の御声が響きます。

「誰を遣わすべきか」と。

イザヤは答えます「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。

主はイザヤに「行け」と命じます。

 

 神に召された時、預言者全てが、このように即答したわけではありません。

モーセは先ず「わたしは何者でしょう」とひるみ、更に「ああ主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません」としり込みし、最後は「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」とまで言っており、イザヤと対照的な性格であったように思えます。

またエレミヤも同じく「ああわが主なる神よ、・・わたしは若者にすぎませんから」と言っています。

けれども、聖書がこのことを記していることも支えとなります。

どのような人であっても、神の言を民に告げるその器として、神さまが用いられることを示されてきますし、それが聖霊の働きと思えます。

 

 聖霊が卓越した能力と積極性に富む人だけを選び、その人の使命を果たさせていくというのではなく、神のみ心とその働きを、神さまがなされてゆくことに人は用いられてゆくように感じます。

預言者イザヤの「わたしがここにおります」の応答は、ガリラヤ湖畔で、すぐに網を捨てて、主イエスに従った弟子たちのように、恐れとおののきを超えて、喜びに溢れる姿を感じます。

 

 神が預言者を招き遣わすとこと、それを新約でいえば、証人として立てられ、主イエスの福音宣教へと遣わされてゆくことでありますが、当然、自分の目標を目指し、自分の道を進むことではありません。

本日のマタイ福音書11章から聞いてゆきます。

主イエスは「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われます。

この言葉からは「さあ、行って福音を宣べ伝える」方向とは逆の主イエスのもとに帰り、憩うという相反する方向を感覚として感じるかもしれません。

しかし逆ではなく、主イエスの福音宣教も、主イエスのもとにいることでもあります。

この世の幼子や徴税人、罪びとを招かれた主イエスと共にあることは、そこが福音宣教の原点、最前線でもあります。

 

 イザヤの召命が神殿の場ですので、彼が祭司の出自であったと思われます。

セラフィムは、正確にはよくわかりませんが、神の箱の上に座するケルビムのように解釈いたしました   

  

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年5月23日 聖霊降臨日礼拝(聖霊降臨節第1主日)  

説教「老人は夢を、若者は幻を見る」

聖書 ヨエル書 2:213:2 使徒言行録 2:113

 

 プロテスタントの教会の3つの祝祭日の一つが、本日の聖霊降臨日礼拝です。

クリスマス、イースターに比べて、本日のペンテコステは、残念ながら教会外では殆ど知られていないかもしれません。

イースターから50日目、弟子たちに聖霊が降った日であり、宣教の開始の日、教会が新たに誕生した日となります。

 

 3つの祝祭日の中で目立たない日であるかもしれませんが、イースターと共に重要な日であることに間違いなく、この礼拝の大切さに先ず注視してゆきたいと思います。

植物でいえば、地中にあって根を張り、養分を吸い上げて、葉や花、実を実らせる、そのような大切な日のように感じます。

別に隠れているわけではありませんが、主の十字架と復活を、教会が福音として宣べ伝えてゆく。

父と子と聖霊の神を力強く讃美して、わたしたちの教会生活の原点のような日として、聖書からきいてまいります。

 

 この日に最もよく読まれる聖書は、使徒言行録2章の箇所です。

弟子たちに、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、彼らは聖霊に満たされて、ほかの国々の言葉で語りだしたとあります。

日本のようにほぼ同じ民族で同一の言語で通じる国と、他民族が共にあり、複数の言語が通用する社会とは感覚も異なり、ここでは私たちの想像と違い、外国語を話せるというよりも、自分の母国の言葉を聴くことができた、分かりあえた奇跡が起こったことを現わしています。

聖霊によって一つとされた、それがペンテコステの出来事です。

この不思議な出来事の後にペトロが旧約の預言書ヨエル書をひもとき、主イエス・キリストの十字架と復活を告げます。罪の赦し、聖霊の賜物を人々は聴き、バプテスマを受けます。

 

 説教題は、この旧約ヨエル書からとりました。老人の「夢」若者の「幻」も、暗い今この時からの解放される希望よりも、ヨエル書2章にある、神を知るようになること、神の言を生きる者とされる意味もあり、そのことによって、喜びのうちに共にひとつとされてゆきます。

 

 昨年に続き、今も礼拝は共に集まることのできない中ですが、わたしたちに与えられていることは、主イエスの祈りがあり、わたしたちが神により、聖霊によって、ひとつとされることです。

老人も若者も、幼子も、女性も男性も共に主のひとつのからだであることを、今日もまたはっきりと聖書を通して告げられております 

 

 聖霊が鳩のように表現されるのは、翼をもって天から降るためかと感じますし、炎のような形は、宣教に熱く燃える火かもしれませんが、炎は舌と色も形もどこか似ています、舌が言語と係り、そのまま後の外国の言葉と繋がってゆきます。

言葉は、通じない時には大きな壁となりますが、しかしその言葉によって人を理解することも慰め励ますこともできます。

また愛があれば発せられない言葉の奥の意味も感じることができます。

牧師の言葉によって躓くこともあるかもしれませんが、神の言によって、立ち上がり喜びを得ることは、比べようもないほど多くあります。

 

 聖霊降臨日、皆様の上に、聖霊が豊かに注がれてゆきますように。

 

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年5月16日(復活節第7主日)

説教「天に上げられ」

聖書 エレミヤ書 10:1~11、ルカ福音書 24:44~53 

 

  13日の木曜日が、復活日からの40日目でキリストの昇天日となります。

教会暦で、灰の水曜日、昇天日はいずれも主日ではないので、注意をしていないと気づかずに過ぎてしまうこともあるかと思います。

 

 今年度は、わたしも聖書日課に従いながら3週間に渡り、キリストの昇天の箇所を中心にお話をしてまいりました。

これまでになく、復活の主が天に上げられること、聖霊がわたしたちに降ることを考えさせられました。

そこには主イエスの祈りがあり、父と子と聖霊とわたしたちがつながっていることを特に感じます。

正直に申しますと、これまで40日目が昇天日、主が天に挙げられ、聖霊がその後、50日目に降ると、歴史で年号だけを覚えて分かった気になっていたように思っています。

 

 

 昇天について、改め考えてゆくと、本日のルカ福音書に記されている、

罪の赦しの福音があらゆる人々に宣べ伝えられてゆくこと、弟子たちがその証人となること、それは父なる神の約束された聖霊の働きによること、主が弟子たちを祝福したこと、弟子たちは喜びに満たされ、主を讃美したこと。

長くなりましたが、これらすべてがキリストの昇天の出来事、その意味であります。

 

 また礼拝では、中心の聖書に併せて詩編(交読)と旧約からも聴いております。

エレミヤ書の内容も直接、キリストの昇天を指し示してはおりませんが、昇天の意味を知る上では大切な聖書です。

神により創造されたこの世界で偶像との比較をしています。

偶像は人がその技術と材料をもって、いかに高価な銀箔で装うとも、それは人が作った物にしかすぎない物であり、まことの神、真理の神、命の神とは比べようもないことを教えております。

 この旧約の預言書が、どう係わっているかですが。神の御子の復活、そのキリストの昇天と聖霊降臨が、この世界の造り主なる神の全ての民を救う御業となることを、この旧約の書がそれを補って語ってくれています。

その御言葉をもって、神の御救いの御業が、天地創造の初めから、イスラエルの民を導きだし、御子・主イエスの十字架と復活により、世界の民への福音と広がってゆきます。

 

 この世界を創られた神は、御子を捧げてまで、この罪の中にあるわたしたちを救い出してくださいました。

聖霊が、わたしたちを、その証人として立てるということは、即ち、わたしたちの信仰の歩みを通して隣人に、神の愛が働いてゆくことであります。

主が歩まれたそのように。 

 

 昇天日も主の復活から40日後ですが、同じく復活前の受難節も40日です。主の復活日を中心に、その前と後にこの期間があります。さらにレントの期間の40日は、主の日を数にいれておりません、主の日も数えるとほぼ50日です。

そして復活日の後、50日が聖霊降臨(ペンテコステの意味も50番目)でありますので、まさに中心に主の復活があるといえます。

 

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年5月9日(復活節第6主日)

説教「祈り」(母の日礼拝)

聖書 列王記上 18:20~29、 マタイ福音書 6:1~15

 

  本日の礼拝の主題は「イエスの祈り」で説教題も「祈り」といたしました。

復活節の中で、どうして「イエスの祈り」が礼拝の主題となっているのか。

これまでの復活顕現と昇天と聖霊降臨と、どう係わっているのかを先ず考えて、今日の礼拝を守りたいと思います。

 

 わたしに与えられたヒントは、ヨハネ福音書14章からの告別説教にあります。

そこには主の御受難と共に昇天、聖霊が語られ、また主イエスの祈りが17章にあります。

 

これまでは説教の後に祈りがあるように捉えておりましたが、十字架、復活と昇天、聖霊降臨は、

主イエスの祈りが其処に在ることを目が覚めるような思いで気づかされました。

主が「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ派遣することも、また祈りが其処に欠かせないことも、確かであります。

 

 また今日の礼拝から、これまでの収録の礼拝を配信するのではなく、ライブでの中継の形で配信を始めております。

コロナになって、学校もオンラインが行われ、勤務もリモートといわれる新たな形でつながることを社会全体で経験してきました。

確かに配信を用いておりますが、教会は祈りでつながっているのであり、祈りが配信になっていることや、捧げ物も同じく、それは祈りが捧げられているというのが教会です。

 

 今日の福音書は、山上の説教の一部です。

ルカでは弟子たちが、イエスさまに、祈りを教えて欲しいと頼み、この主の祈りが聖書にあります。

そして礼拝や集会の中で、共に祈る祈りとされています。

それぞれの違いあっても、同じ主の祈りを唱えることにおいて、わたしたちは一つとされ、主イエス・キリストの身体につながれてゆく思いがします。

また主イエスは、父なる神はすべてをご存知であること、だから人の目を気にして自分に冠をいだくような祈りは慎むことを教えています。

それが列王記のバアルの預言者たちのパフォーマンスのような祈りであり、エリヤによって一掃されてゆきます。

 

 ルカ福音書18章にも祈りについて教えられるところがあります。

神殿の前で、ファリサイ派の人と徴税人が祈ります。自分を誇らしげに思い、捧げたファリサイ派の人の感謝よりも、徴税人が「罪びとのわたしを憐れんでください」と祈った短い祈りが、神に義とされることを、主イエスは弟子たちに教えられました。

 

 祈り、それはわたしたちが神に捧げる祈りもありますが、なにより神が、御子をささげて、わたしたちの罪をあがないだしてくださったその神の思い、神の恵み、それがわたしたちの祈りの始まりであり根源であるように思います。

 

 教団の教会行事として、本日は母の日(5月第2主日)礼拝です。

来月には花の日、子供の日(6月第2主日)があります。讃美歌546「世界中の父や母を」は、母の日礼拝として選びました。

教団の教会行事には、父の日はありませんが、しかしこの讃美歌は、1節には父や母を、2節には子供を、3節は家庭を覚えて祈っております。

 

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年5月2日(復活節第5主日)

 「父のもとに」

聖書 サムエル記下 1:17~27、ヨハネ福音書 14:1~11

 

  イースターからペンテコステまでの7週の主日の前半は、よみがえりの主が弟子たちに顕われる物語が礼拝の中心ですが、後半は、キリストの昇天から聖霊降臨へと内容が移ってまいります。

ヨハネ福音書の14章は、いわゆる告別説教とよばれるところで、17章の最後の祈りまで続きます。

福音書の構成でみれば、過越の食事の後、逮捕される前となり、通常は受難節(レント)のなかでこの箇所は読まれるかと思います。

 

 今、イースターを迎え復活節のなかで、主が「父のもとへゆく」の言葉を聴くときに、レントの時とは異なる意味で感じられてきます。

同じ言葉でありながら、違うように聞こえてくるのは、そのアクセントが異なるような感じられるためかもしれません。

 

 もう少し説明しますと、主の十字架の前に、この「父のもとへゆく」は、主の十字架の死、弟子たちにとっては別れとなりますが、復活の後、昇天の前に聴くと、この「父のもとへ」は、「あなたたちは、わたしを再び見る、そして戻ってくる」とそのように聴こえてきます。

ここには永遠の悲しい別れのような思いもなく、何処に行かれるのか、わたしたちには分かりませんという不明さもなく、主が言われた「わたしは道であり、真理であり、命である」の深い意味に示されるように、ただこの主によらなければ、父のもとにも、また父からの聖霊もなく、この主によって父も聖霊も明らかにされてきます。そして、よみがえりの主がいつも共にいてくださることを、この「父のもとへゆく」によって受けることができます。

 

 福音書と旧約のサムエル記との繋がりは、少し難解かもしれません。ダビデが、サウル王とその息子ヨナタンの戦死の知らせを受け歌った哀悼の歌です。ダビデは当時、サウル王の嫉妬心によってその命を狙われていましたが、サウル王に対しては、敵意はなく敬意を抱き、ヨナタンとは無比の親友でありました。

哀悼の歌、別れではありましたが、しかしイスラエルの歴史の中では、ダビデが王位につき、王国を築く始まりの時となります。

ダビデ、ソロモンと続く王国の始まりでもあります。

 

 ヨハネ福音書の主の「父のもとへ」は、聖霊による使徒たちの働きを通して、主の福音宣教がこれから始まる時となります。

ヨハネ福音書ではこの後、その時には、祈りはすべてきかれ、叶えられるとも言います。

聖霊が、わたしたちの願いをすべて叶えてくれるという意味も、これまでの礼拝からの学びのように、主イエス・キリストの十字架により、罪赦されたわたしたちは、古い罪の身はキリストと共に葬られ、新しいキリストと結ばれた命に生きる者とされています。

つまり自分のためだけの祈りも、キリストと共に葬られ、キリストのみ心の祈りが、わたしたちの新しい祈りとなり、それは全て必ず実現されてゆくように思えます

 

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2021年4月25日(復活節第4主日)

「復活の命」

聖書 ヨハネによる福音書 11:17~27 コリントの信徒への手紙 1 12:3~13

 

 阪神大震災(私は当時、大阪福島教会におりました)の後の礼拝で、与えられた聖書の箇所は、主イエスの「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」の御言葉でしたが、その時の私の心に強く響いたことが忘れられません。

 

 教会も、この度、4度目の礼拝中断をお伝えすることになりました。

 これまでにも3度の中断と再開で、皆さまにも心痛を負わせてしまっていることも感じていますときに、本日、与えられた「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」の御言葉は、このような、今のわたしたちのなによりの支えとして感じられています。

 この困難の中、主イエスの復活の希望、命を、わたしたちに語りかけてくださるみ言葉として聴いてまいりたいと願っています。

 

 ヨハネ11章は、ラザロのまとまった物語です。

 ベタニア村のマルタとマリアの兄弟ラザロの死は、そのまま主イエスの十字架の死を予兆し、復活は、主イエスの復活を指し示しているとみられます。そしてそれ以上に、主イエスの復活の光と命から、このラザロの物語を聴くときに、わたしたちへ向けて発せられているキリストと結ばれた新しい命を感じます。

先主日の預言者エリヤのサレプタの女性の息子を生きかえらせる奇跡も同じです。主イエスの復活の命を通してみるときに、エリヤが告げる「見なさい。あなたの息子は生きている」のこの「命」も、わたしたちへの新しい命として感じられてきます。

 

 コリントの信徒への手紙には、そのキリストと結ばれた新しい命が、互いに結びあわされた異なる賜物の働きについて述べられています。

 更にパウロは言います。それぞれの部分は、みな必要で、不要なものはなく、むしろ弱いと見える部分がかえって必要なのだと。それが全体の益となり、キリストのためだと、パウロはこの教えの後に「愛」についても語り、どんな良い業も、愛がなければむなしいと。自分のためではなく、この隣人と主のために、わたしたちがひとつのからだとされて生きることが、即ち古い自分が「死」に、新しいキリストと結ばれた「命」であるように思えます。

 主はラザロに大声で「出て来なさい」と呼びかけられます。ラザロはその主の言葉どおりに「命」をもってあらわれました。わたしたちにも、今主は呼びかけ、告げてくれております「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでもいきる」

 

 主の豊かな御守りのなかに、主がわたしたちのために道を切り開き、その捧げられた命でもって、わたしたちの道を照らしてくださっています。

 この主の道しか、わたしたちの進む道はないと思えます 

 

 イースターからペンテコステまでの復活節7つの主日のうち、前半は、よみがえられた主が弟子たちにあらわれる顕現物語が中心となり、後半はルカ文書による40日目のキリストの昇天と聖霊降臨が礼拝の主題となってきます。

 次主日の説教は「父のもとに」です。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2021年4月18日(復活節第3主日)

「新しい人」

聖書 列王記上 17:17~24、コロサイの信徒への手紙 3:1~11

 

 祈祷会では、今テモテへの手紙を学んでおりますが、先週の5章の処に、(その一句だけを取り上げるのもなんですが)「生きていても死んでいるのと同然です」という厳しい言葉がでてきます。どきっと驚いてしまいます。

 

 今日のコロサイ書にも「あなたがたは、死んだのであって」という言葉もあります。

このような言葉を言われると、誰しも「いや、死んでません。まだ生きております」と内心思うことでしょう。

ここでの死は、人の呼吸や心臓の働きが終わる死ではなく、パウロがロマ書でも語る「キリスト・イエスに結ばれる洗礼を受けたわたしたちは、キリストと共に罪の身が葬られ、キリストと共に新しい命に生きる」そのことを語っています。

 

 主のよみがえり。それはイエスを主と信じ告白し洗礼を受けた者にとっても、キリスト共に新しい命に生きるということが今日の聖書の内容であります。

 弟子たちにとって、その新しい命とは、よみがえりの主の息吹を受けて、主の招きの言葉に従い、世に遣わされてゆくことであります。それは先主日のマタイ福音書の主の復活と宣教への派遣の言葉が一つになっていることからも学びました。

 

 列王記上は、預言者エリヤの物語です。シドンのサレプタの地で、飢えて死にそうな女性の家に壺の粉も瓶の油も尽きず無くならないパンの奇跡をエリヤが行った後、彼女の息子が病で息を引きとります。

彼女の悲しみの中、エリヤは「主よ、わが神よ、この子の命をもとに返してください」と祈り、その子を生き返らせた物語です。

 

 復活の主の信じることを通してこのエリヤの物語を見てゆきますと、エリヤが母親に告げる「見なさい、あなたの息子は生きている」という命。ここにも死を超える命が示されてきます。そして彼女は「あなたの口にある主の言葉は真実です」と神を讃美しています。

わたしたちも肉体の死は、それは必ずいつか迎えることになりますが、キリスト・イエスに結ばれたこの命は、その人としての死が宿す様々な暗い影のようなものを、まぶしい光の中で、それを受けとめることができるようになります。

主の十字架の死とよみがえりの命によって、わたしの罪が、主イエスによって贖われたことの恵みの大きさが、わたしの小さな器に感謝ともに溢れているせいかもしれません。

 

 わたしたちの肉体の衰えも、また同様に深刻にやってきては、わたしたちを弱くしてしまいます。確実に出来なくなる事も増えてきます。

それでもこのキリスト・イエスに結ばれた命は、語りかける声を新鮮に感じます。

「わたしに従ってきなさい」と。そして網を捨てて従った弟子たちのように、喜びの旅が始まります。

それがわたしたちの日々の朝の始まりでもあります。

 

 週の初め、御子のよみがえりの朝、主の復活の命が、わたしたちに吹き入れられ、行きなさいと遣わされてゆく、それが礼拝を守るわたしたちの新しい命であります。礼拝に集えない方の傍にも、主日の朝、主が共にいて下さる、それがキリストと結ばれた新しい命です。 

 

(説教要旨 廣瀬規代志)

 


 2021年3月7日(復活前第4主日)

「この岩の上に」

 聖書 ヨブ記 1:1~12 マタイ福音書 16:13~28 

 

 共観福音書には、3度の受難予告がでてきます。マタイ福音書では、16章、17章と20章になります。

 この受難予告より、十字架への道が色濃く迫ってきているように感じます。

 旧約のヨブ記1章も、苦難を受けたヨブの物語ですが、主イエスの受難と併せて与えられています。

 

 福音書の受難予告は、その前後の物語や言葉と繋がりがあります。マタイ16章では、冒頭受難予告前に「人々しるしを欲しがる」の段落があります。そこでは人々が、しるし(奇跡)を求めるのに対し、主は「ヨナのしるし以外に与えられない」と応えます。ヨナのしるしとは、ユダヤ人ではなく異邦人に遣わされたヨナを指しているようにとれ、人々の求めるしるしや期待とは異なる主の十字架への道を感じ、13節からの「人の子を何者だというの

か」という問いかけが其処にあるように思えます。

 人々の様々な思惑の中にも、人々の求めるしるしを感じます。更にその奥には自分中心の、自分の為に何をしてくれるのかという願いが伝わってきます。主イエスは、弟子たちに「それでは、・・あなたがたは」と問われます。ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。躓きと失敗の多いペトロが、ここでは「あなたは幸いだ」と誉められ、主イエスから「あなたはペトロ、わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」

と言われます。

 

 教会・礼拝が何に依り立つのか。それはこのイエスこそキリスト(救い主)であるという告白の上に立つといわれます。偉大な使徒ペトロの権威の上ではありません。受難予告でも、主から激しく叱られ、十字架の前では3度主を拒んだペトロです。しかしその弱さと罪のなかにあるペトロを赦し招きたもう主の御恵みを、彼の告白を通して、主の教会が、神の愛と福音を告げ知らせることができるといえます。

 その後の受難予告で、キリストがどのように私たちを救い贖われるのかが示されてきます。それは「ただ十字架によって」といえるでしょう。それが、わたしたちに示された神の救いのしるしです。クリスマスの夜、御使いが羊飼いに告げた「飼い葉桶の乳飲み子」が救いのしるしと同です。見る目には汚く貧しい桶、苦しい悲惨な十字架です。けれどそこに、人の救いがあることを(そこにしかないこと)、わたしたちは主の復活の光により、いのちに

よって知らされております。 

 

 1月24日の降誕節第5主日から、1か月半ほど礼拝を中断しておりました。皆さまとお会いすることもありませんでした。既に灰の水曜日を迎えて、3月、復活前第4主日(受難節第3主日)となっております。いつのまに、このように月日が流れていたのかと茫然とします。

週の初めの朝、教会で礼拝を守ることを生活の軸としてきた方にとって、礼拝中断は、配信や郵送を実施しましても、生活リズムの変調、心身の不調を背負わせてしまったと思っています。またこのような時、主の御苦しみを近く感じ、嵐に悩む弟子の舟にいる気持ちになります。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2月28日(復活前第5主日) 

 「神の国が来る」

 聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 3章1節~10節

 

 教会暦では、217日より、「受難週」に入りました。イエスが十字架にかかり、復活するまでの「日曜日を除いた40日間」を指します。この間、教会はイエスの十字架への道行きを想起し、自らのこととして受け止めていくことが求められます。現代において、誰しもが今まさに「コロナ・ウイルス」という苦難にあって、その十字架をどう受け止めていくのか、問われていると言えるでしょう。

  

 今日の聖書箇所では、教会の人々に対して、神の愛へと立ち返るように呼びかけられています。手紙の著者は、初期教会において「偽教師(惑わせようとしている者)」と呼ばれる人々が登場し、教会内に分裂が起きていることを述べています。つまり、この箇所では分裂状況にある教会において、「神さまの愛」に立ち返らせることで、キリスト教信仰の正当性を担保する必要があったのでしょう。それに加えて、この箇所では、そんな、様々な「偽り」によって、引き裂かれた魂を守ろうとする意味もあるのだと思います。著者によって示された、神の愛とは、「十字架によって示された愛」であり、それは、兄弟愛を伴うものであることが分かります。

 

 コロナ・ウイルスという「不安」を抱える現代、この不安感から、何らかのイデオロギーを安心材料として、盲信する動きが見られます。コロナ禍において、「陰謀論」や「フェイクニュース」という言葉が目立ったことも、その不安から逃れようとする、心理的働きの一つと言えるでしょう。評論家・著述家の真鍋厚さんは、こうした不確かな情報を、盲信していく現代の人間心理を、次のように分析しています。- 「恐ろしい出来事や不安な事実を、ありのままに受け入れることが困難であるがゆえの心の働きだ。世界は依然として自分にとって制御可能な安全な場所だという信念を強化することが出来る。」- つまり、人間は不安な事実に対して、それを「制御可能」な範囲へと落とし込むことによって(そう信じ込むことによって)、その不安から逃れようとするということです。

 

  イエスは、「十字架にかけられる」という、自身の運命に対して、逃れたい一心ながらも、最後には「あなたの御心のままに。」と祈りました。それは、自らの運命に相対する時、自己制御する力を放棄する姿勢です。この意味で、苦難に対し、「制御する自力を手放して、神さまに身を委ねていく働き」を、「信仰」と言うのだと思います。信仰とは、「自力の放棄に伴う、弱さの受容」です。

 

 イエスの示された「十字架の愛」とは、苦難に対して、決まった答えを提示してくれるものではありませんでした。あの場面では、沈黙が支配しています。しかし、同時にそこに描かれていたのは、「苦難の問いに、留まり続けられた神さま」です。今日、コロナという十字架を負う私たちもまた、そこに安易な答えを見出すのでは無く、沈黙の中で、神さまの御前に立つ自分と出会いたいと思います。苦難によって分断されるのでは無く、苦難を通して他者と繋がる道を祈り求めて参りましょう。

(説教要旨 小豆真太郎)


2月21日(復活前第6主日)

 「命と幸い」

 聖書 申命記 30:15~20 ヤコブ書 1:12~18(マタイ福音書 4:1~11)

  

  春の教会暦は、移動祝祭日であるイースターを起点にしています。

 その前40日(日曜を除く)が灰の水曜日(今年は2月17日)で、この日から復活前節(受難節、レント)です。

 その最初の主日礼拝の主題は、共観福音書の「荒野の誘惑」が与えられ、主のご受難の道をこの主の試練の箇所からスタートすることになります。

 

 ヤコブ書との繋がりは、試練の単語もここにみられるように「耐え忍ぶ人は幸いで、・・命の冠をいただく」とあります。

 申命記は、イエスさまが悪魔との対峙し追い払ったように、ここでは「死と災」か、それとも「命と幸」かの選択を迫られ、命を得るようにとの教えとなっています。

 

 申命記30章はこれまでの多くの法を総括するようなところで、御言葉をどのように聞き、御言葉をどのように生きるのかという根幹に係る教えです。繰り返し述べていることは、「それは難しいことではない、また遥か彼方にあるものでもない。それはあなたの口と心にある」と言います。

 まさに悪魔と主イエスの対決も、主はその神の子としての特別な力により悪魔を排したのではなく、御言葉を信じて立つ、その心と口によって、悪魔は打つ手なく退散します。

 

 申命記は、さらに命と幸い、それは、あなたの神、主を愛し、御声に聞き、主につき従うことであると教えます。

 主イエスも、律法学者にどの戒めが最も大切かと問われた時に、この「心を尽くし、魂を尽くして、神を愛すること」に加えて「隣人を愛すること」を教えています。

 

 ヤコブ書は、先に試練と命の冠も繋がりがみられると申しましたが、全体的な教えでは、御言葉を行う人になること、また具体的に隣人の中でも、貧しい人を分け隔てることなく大切にすることを教えています。

 まとめてみますと、心を尽くし、魂を尽くし、神を愛することと、隣人を愛してゆくことにおいて、命と幸いの道が恵みによって備えられてまいります。

 

 どうして、その道が確かに命と幸いと言い切れるのか。それは主イエスがわたしたちの罪を背負い、十字架にかかられ、よみがえられた。その深い神の愛と恵みが、わたしたちの思いを新たにし、心の目を開かせて下さるからです。

 神が、かくまで人を救い出して下さったその恵みを知り、信じることのできる幸いが、生涯その旅路を照らしてくれるからではないでしょうか。

 

 主イエスを誘惑するサタンも、単に栄華だけを見せて誘惑するのでなく、聖書の御言葉を用いて誘導します。

 律法に書かれてあることを、どのように聞くかということもイエスさまは教えられました。

  聖書の言葉で他人を裁くことになってしまうかもしれません。

 

 何処に立つべきかですが、罪人を招く神の愛に立つならば、人にやさしくありたいと思います。

  また主は「退け、サタン」と言われましたが、やさしさと冷静に見極める心も備えたいと思います。巧みな言葉の裏に隠された似て非なるものもあります。

 何が大切なのか、何が神の愛に沿うのか。今の世の中、高齢者を狙う罠も多くあります。便利な、しかしまた冷たい荒野のような世かもしれません。

 だからこそ、其処で真実なる道を選び命と幸を得るように歩んでゆきたいものです。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2月14日(降誕節第8主日)

 「波はさかまき」

 聖書 イザヤ書 30:15~17 マタイ福音書 14:22~36 

  

  イエスさまの奇跡は、人々を癒し、悪霊を追い出す奇跡が大半でしょうが、湖の上を歩く奇跡物語もあります。直接的には、人の救いに係るわけではなく、超自然的な出来事のようですが、弟子たち、特におぼれそうになるペトロの姿に、この奇跡の意味が語られていると思います。

 

 時は夜明け、多分弟子たちは暗い夜に沖へ流される小舟の中で不安と疲れの極致にいます。そこで湖の上を歩いてこられる主の姿を見て、幽霊と叫びます。主は「安心しなさい。わたしだ」と言い、安心したペトロは大胆にも、その湖の上の主のもとに行かせて下さいと頼みます。

 

 舟で待たずに、そこに行きたいというこの気持ちは、ペトロの姿そのものかもしれません。ガリラヤ湖畔で、「わたしに従って来なさい」の御声に従ったペトロ。また十字架の前でも、たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたし決してつまずきません。・・たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても・・と答えたペトロの姿を思い浮んできます。何時もどこでも主と共に、従い、そばにいる、それがペトロの全てであったといえるでしょう。

 

 しかし、そのペトロ、主イエスのもとへ進もうとしますが、つい強い風に気をとられます。目を主からそらしてしまうのです。するとたちどころに波に飲まれてしまいます。(讃美歌456の「わが魂を」の1節 波はさかまき 風ふきあれて 沈むばかりの 我が身を守りの歌詞のように)おぼれそうになり、主よ、助けて下さいと叫ぶのです。

 

 

 わたしたちの信仰は、よく弟子たちの姿に重ねられます。つまずき、弱さをもつ弟子たちの姿に、この沈みかけるペトロの姿もそうです。個々人だけでなく、教会の姿も重ねられる気がします。

 

 

 主は、わたしを何者だというかと尋ね、ペトロがあなたはメシア、生ける神の子ですと答えたときに、主は、あなたはペトロ わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てると言われました。

 

 まさにこのペトロの姿に、主の教会もみることができます。それはもちろんキリストの告白に立つこともそうですが、その告白をしても尚、風をみて、その足場を失いかけそうになり、主に助けを祈らずにおれない姿、とそのようなわたしたちを主の救いの御腕がしっかりと支えて、救い出して下さっている、この主の恵みこそがわたしたちの信仰であり、教会の姿でもあります。 

 

 

 降誕節に入り、主イエスの弟子を招く箇所、宣教の開始、福音の両輪である御教えと御業をこれまで礼拝で辿ってまいりました。

 御業(奇跡)も、人の思いや壁を越えて、神の御業がさまざまな病を癒し、神と共にある喜びを聞いてまいりましたが、この湖の上を歩く主イエスの物語には、ただ神の憐みにより、人の弱さを通して恵みの御業が成し遂げられてゆくことを示され、その奇跡の意味は、主の海上歩行の出来事から、罪びとを招き救う主イエスの愛がその実として感じられてきます。

 2月17日の灰の水曜日から復活前(受難節)に入ります。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2月7日(降誕節第7主日)

 「願いどおりに」

 聖書 列王記下 5:1~14 マタイ福音書 15:21~31 第二コリント 12:1~10

 

 主イエスの御教えに続き、本日の礼拝の主題は御業となります。福音は御言葉による教えと御業の喜び、恵みが合わさり一つであるように思います。

 御業は、不思議なわざ、奇跡、しるしとも呼ばれます。またその現れ方も様々です。

 

 本日の聖書では、コリント書では、パウロ自身が抱える病(とげと呼んでいます、正確な病気は不明)を取り除いて欲しいと、3度主に願いますが、その願いは聴かれず、主からの言葉は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」でした。

 これもまた自分の思いを超えて叶えられる神のくすしき恵みの御業であるといえます。ですから、信じるわたしたちには、その祈りは常に、きかれ叶えられることも、信仰に於いていえることです。

 

 旧約のナアマンの物語も、福音書のカナンの女性の物語も特徴的であります。アラムの軍司令官で重い皮膚病を患っていたナアマンも、はるばるエリシャのもとにやってきて、どんなに彼が特別なことを自分にしてくれるのかと期待していましたが、エリシャのそっけない言葉に失望と怒りで立ち去ろうとします。

 けれど部下に諫められ、エリシャの言葉通りに行うと病は癒されて、彼は自分の言動を恥ます。それでアラムの国に帰っても、イスラエルの神こそまことの神であることを知り、自分が座すための土をイスラエルから持ち帰りたいと願います。

 神の御業により、人がどのように変えられ、神と共に生きていくかも此処に感じます。

 

 福音書のカナンの女性は、幼い娘を癒してほしいと主イエスに懇願しますが、主イエスは、自分はイスラエルの家の失われた羊のために遣わされていると拒絶の言葉を言われます。母親は引き下がらず「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と応え、主イエスから「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と娘は癒されます。

 物語の中で、どうしてイエスさまが冷たい言葉をいわれたのか、理解しがたいかもしれませんが、この物語の中心は後半で、その拒絶は終わりではなく、始まりです。その閉じられたような扉が、この婦人の信仰によって開かれてゆくのです。そこにはわたしたちが想像する以上のユダヤ人と異邦人の見えない壁があり、主イエスの福音は、その壁や扉を超えて届けられてゆく力強さをもこの物語は含んでいるといえます。

 

 本日の3つの箇所から、いずれも不思議な共通点ですが、人の思い、予想、理解を超えて、神の御業が成し遂げられてゆくことを思います。

 その最も大いなるものは、主イエスの十字架の贖いの死によるわたしたちの罪の赦しであり、神の愛です。この世界がどれだけ困難な闇の蔭にあろうとも、光と喜び、生きる力をわたしたちにもたらしてくれるのが主イエスの福音とその御業といえます。 

 

 マタイでは、この女性はカナンの女性ですが、平行箇所のマルコでは、シリア・フェニキアの女性となっています。カナンはヨルダン川流域の地方を指す時もあれば、このところのようにフェニキアを指すこともあります。

  

(説教要旨 廣瀬規代志)


 説教要旨

2021年1月31日 降誕節第6主日

 

説教 「幸い」

聖書 マタイによる福音書 5:1~3

 

新型コロナウイルスのニュースを耳にしてから、はや一年が経ちました。本来であれば、新年を迎えて「身も心も心機一転」と、気持ちを切り替えていきたいところですが、そうもいかないようです。「コロナ」という一つの時代が明けるまでは、私たちの心も晴れません。

 

「コロナの時代はいつ終わるのか」-それはまだ、誰にも分かりません。コロナは最早、ワクチン一つで解決する問題では無くなりました。コロナの影響は、直接的な身体への被害に留まらず、経済を破壊し、失業者を生みました。また、恐れや不安を煽られる中で、差別や誹謗中傷が起こりました。しかし、多くの識者によれば、こうして見られた「社会の分断・格差構造」は、「社会の元々の性質が、災害によって表面化・可視化したに過ぎない。」と考えられています。つまり、こうした状況は「コロナ禍に起こる特殊な状況」ではなく、コロナ以前から既に社会に存在していたものだと言うことです。今では、ポストコロナ(コロナ後の時代)に向けて、「ニューノーマル」や「新しい生活様式」と言った言葉が語られています。コロナ禍において、「仕事のあり方」や「生活態度」を改める意味で使われますが、こうした言葉の意味領域を広げて、私たち個人の精神的態度をも、悔い改める時が来ているように思います。

 

ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムは、“To have or To be ? ” (持つことから在ることへ)という生き方を提唱しました。彼は、1976年著、『生きるということ』において、近代以降の人間の生き方が、「持つこと」を重視した生き方であることを述べています。そして、そんな「持つ」生き方からの、ラディカルな精神的変革を求めます。彼は、人間は、ただ「在る」という生き方へと変えられることが、「人間の真の生き方」であるということを、結論づけるのです。彼は、自身の立場を「ヒューマニスト」と説明しますが、彼の論拠には、タルムード(ユダヤ口伝律法)や、聖書・神学が含まれています。そして、彼は「在る生き方」の一端として、『マタイによる福音書』・「山上の説教」における、イエスの言葉を引き合いに出すのです。

 

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」-ポストコロナに向けて、私たちは今、その生き方を問い直す時にあるのかもしれません。「財産」や「地位」、ひいては「健康」や「知識」に至るまで、それらを満たすことを「幸せ」とした価値観は、たった一つのウイルスによって崩れ去ってしまうほどに、脆弱であったことが分かります。このイエスの言葉は、この当時の人々に、そして現代の私たちに、そんな常識や価値体系を問い、変革を促します。「満たされる」ことを「幸せの基底」としてきた、これまでの価値観に対して、「満たされる」ことと、「幸せ」とは「違う」と言い切る価値観です。言わば、「満たされずとも、人は幸せに生きることが出来る。」という価値観です。コロナを経験し、コロナを超克する上で、聖書の言葉から「人間の生き方」を問い、祈り求めていきたいと思います。

 

(説教要旨 小豆真太郎)


 

説教要旨

2021年1月31日 降誕節第6主日

 

説教 「幸い」

聖書 マタイによる福音書 5:1~3

 

新型コロナウイルスのニュースを耳にしてから、はや一年が経ちました。本来であれば、新年を迎えて「身も心も心機一転」と、気持ちを切り替えていきたいところですが、そうもいかないようです。「コロナ」という一つの時代が明けるまでは、私たちの心も晴れません。

 

「コロナの時代はいつ終わるのか」-それはまだ、誰にも分かりません。コロナは最早、ワクチン一つで解決する問題では無くなりました。コロナの影響は、直接的な身体への被害に留まらず、経済を破壊し、失業者を生みました。また、恐れや不安を煽られる中で、差別や誹謗中傷が起こりました。しかし、多くの識者によれば、こうして見られた「社会の分断・格差構造」は、「社会の元々の性質が、災害によって表面化・可視化したに過ぎない。」と考えられています。つまり、こうした状況は「コロナ禍に起こる特殊な状況」ではなく、コロナ以前から既に社会に存在していたものだと言うことです。今では、ポストコロナ(コロナ後の時代)に向けて、「ニューノーマル」や「新しい生活様式」と言った言葉が語られています。コロナ禍において、「仕事のあり方」や「生活態度」を改める意味で使われますが、こうした言葉の意味領域を広げて、私たち個人の精神的態度をも、悔い改める時が来ているように思います。

 

ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムは、“To have or To be ? ” (持つことから在ることへ)という生き方を提唱しました。彼は、1976年著、『生きるということ』において、近代以降の人間の生き方が、「持つこと」を重視した生き方であることを述べています。そして、そんな「持つ」生き方からの、ラディカルな精神的変革を求めます。彼は、人間は、ただ「在る」という生き方へと変えられることが、「人間の真の生き方」であるということを、結論づけるのです。彼は、自身の立場を「ヒューマニスト」と説明しますが、彼の論拠には、タルムード(ユダヤ口伝律法)や、聖書・神学が含まれています。そして、彼は「在る生き方」の一端として、『マタイによる福音書』・「山上の説教」における、イエスの言葉を引き合いに出すのです。

 

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」-ポストコロナに向けて、私たちは今、その生き方を問い直す時にあるのかもしれません。「財産」や「地位」、ひいては「健康」や「知識」に至るまで、それらを満たすことを「幸せ」とした価値観は、たった一つのウイルスによって崩れ去ってしまうほどに、脆弱であったことが分かります。このイエスの言葉は、この当時の人々に、そして現代の私たちに、そんな常識や価値体系を問い、変革を促します。「満たされる」ことを「幸せの基底」としてきた、これまでの価値観に対して、「満たされる」ことと、「幸せ」とは「違う」と言い切る価値観です。言わば、「満たされずとも、人は幸せに生きることが出来る。」という価値観です。コロナを経験し、コロナを超克する上で、聖書の言葉から「人間の生き方」を問い、祈り求めていきたいと思います。

 

(説教要旨 小豆真太郎)


2021年1月3日 降誕節第2主日

 

説教「成就」

聖書 エレミヤ書 31;15~17 マタイ福音書 2:19~23

 

 

  2021年の新しい年が明け、本日が最初の主日、新年礼拝となります。1年の中で、新しさを最も強く感じる時かもしれません。黙示録でも「新しい天と地」の到来は、大バビロンが倒れることによってもたらされるように、過ぎ去るものと、新しさは表裏一体であります。けれど教会の暦は、降誕日から降誕節に入り、救い主の降誕の光と喜びのなかに新年を迎えてゆきます。これからの主日の聖書(福音書)も、救い主の降誕からその生涯を辿ってまいります。

 

 マタイ福音書2章では博士たちの来訪の後、御使いがヨセフ、マリアにエジプトへ避難させ、ヘロデの魔の手から守ろうとします。そして再び危険が去ったときに、エジプトから戻るように御使いは告げます。御使いがヨセフにマリアが男の子を産むことを知らせるだけでなく、このように数度にわたり現れ、この幼子を守っておりますが、そこには「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」との言葉も繰り返されております。

 どの福音書も旧約の歴史を受け継いでおりますが、特にマタイ福音書の降誕物語の中には、特徴的にこの言葉がみられます。

 

 エジプトへの避難も、直接的にはヘロデ王の殺戮からの回避となりますが、その背後には、むしろエジプトから呼び出すということに意味も見出せます。即ち、乳児モーセがファラオの剣から逃れるためにナイル川の葦の籠に守られ危機を免れ、そのモーセがやがてイスラエルの民を、エジプトの地から贖いだしたように、救い主は、すべての民をその罪から贖いだされるという、その救いがこだましております。

 

 預言者たちを通していわれていたことが実現するためであったという言葉も、かつての預言者たちが民を牧し導いたように、今、御使の姿とともに、幼子を守りつつ、このお方が救い主であることと、その救い主が今、この世界に来られた(成就した)ことを告げています。

 それは今のわたしたちにおいて考えてみると、これまでの信仰の先輩達が歩んでこられたその信仰を受け継ぎつつ礼拝を捧げているようでもあり、このナザレのイエスこそ、わたしたちのただひとつの救いであることを、天の聖徒たちと共に証ししているようであります。

 この世界を照らす小さな灯を、礼拝によってこの年も掲げてゆきましょう。コロナ禍の中にあっても 。

 

 教会暦では1月6日は、公現日(顕現日)です。あまり聞き慣れない日かもしれませんが、当方の博士たちが御子を拝んだ日とされます。なぜ1月6日になったのか、クリスマスがヨーロッパにキリスト教が広まり、落ち着いたように、東方教会の古くからの祭りの起源があるようですが、博士たちの礼拝の日として守られてきました。公に現れるという意味は、東方の博士たちが異邦人であったことから、世界の全ての人に救い主が現れたという意味です。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)

 


2020年12月24日 降誕祭讃美礼拝

 

説教「喜びにあふれた」

聖書 イザヤ書11:1~5(招詞) マタイ福音書 1:18~25、2:1~12

讃美 248、(聖書朗読249)、258、265、259、

聖歌隊 257 

 

 今年は2度にわたり礼拝を中断し、20日の降誕祭礼拝から2度目の礼拝再開となりました。ただ残念ながら24日の讃美礼拝は、配信の礼拝とさせていただきます。

  1度目の配信時に使用しました画像数枚をポストカードにいたしました。その1枚は幼稚園園庭の鳥小屋の屋根の上の鳥(飾り)から教会を撮ったものです。

 

その写真に併せて詩編102編の「屋根の上にひとりいる鳥のように、わたしは目覚めている」の聖句を入れました。また同じ102編の「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。主を讃美するために民は創造された」も入れました、

今年ほどこの後の聖句が身に染みる思いをしたことはありません。またこの讃美礼拝にあたりそう感じております。

 

 礼拝は再開されても、飛沫感染防止の為讃美を歌うことを今は控えております。そのような羊の群れではありますが、主を讃美しない群れでも、讃美できない羊の群れでもない。神によって主を讃美するために創造された民である思いを、かえって強く抱いております。

そう感じられるのは、この地にあるわたしたちを主が慈しみをもってみつめ、共にいて下さることが信じられるからです。

 

 そのような神とその民であることが、今は声をあわせて讃美をすることはできなくても神の民としての輝きを失ってはおらず、天においてはしっかりと一人一人の信仰の歌声、讃美を神は聴いていて下さっていると確信をもてるからです。

 

 関学教会の讃美礼拝は、各年でルカとマタイの福音書を交互に用いております。

今年はマタイ福音書の博士たちが、御子にまみえ、その喜びに溢れたその心に、わたしたちも共に預かってゆきましょう。

救い主をしり、礼拝することができる喜びは、わたしたちの信仰の旅路においても静かに湧きあがってきます。

とくに困難な時、喜びが見いだせないような時にあっても。

主イエスが、わたしたちの全てをご存知であられ、声なき祈りをも聴いていて下さることをかみしめつつ、よきクリスマスをお迎えください。

 

 教会の降誕祭礼拝で、礼拝の開始前と後、また奉仕者への感謝の時が終わった後に、これまで聖歌隊が讃美した曲の録音を3曲流しました。

2019年「ベツレヘムの光」、2018年「荒野の果てに」、2017年「目覚めよ 高く歌え」です。

その礼拝の数日前に「クリスマスなので讃美歌の声も是非聴きたい」というご要望に依りましたが、それを可能にしたのは、これまでのすべての礼拝をCDに移し保存、それを年ごとのファイルにまとめて誰でもが聞けるように教会に備え付け、これまで奉仕下さったIさんの御蔭と感謝しています。

 

 クリスマス礼拝の後、奉仕者の感謝の時を持ちましたが、今年はコロナの為に、そのような人の奉仕の芽と実が際立っていました。

中断中も沢山のお支えのお手紙を頂戴しました。そう思うと暖かいクリスマスです。

(説教要旨 廣瀬規代志)

 



2020年12月13日 待降節第3主日(降誕前第2主日)

 

「主の道を備えよ」

 聖書

士師記 13:2~14 マタイ福音書 11:2~19

12月の受洗記念日を迎えられた方々を覚えての祝福の祈り 

 

 アドベントの4つの礼拝の3番目は、先駆者ヨハネの箇所が読まれます。先駆者ヨハネは、あまり世間のクリスマスイメージとは一致しないかもしれませんが、讃美歌でも、いくつもヨハネに関するアドベントの歌が沢山あるように、教会のクリスマスには相応しい人物です。 

 主イエスが洗礼を受けたのもこのヨハネからで、バプテスマのヨハネとも称されますが、アドベントではむしろ荒野で呼ばわる声、主の道を備える先駆者ヨハネとしてきいてまいります。

 春、主の復活を祝うイースターの前の棕梠の主日には、エルサレム入城の箇所が読まれるように、クリスマス前、この主の道を備えよと告げるヨハネという門を通って救い主への道が開かれるように、わたし自身思えるようになってきました。

  それに、このヨハネには旧約からのさまざまな歴史の水脈が集まってきている印象もあります。旧約の士師記は怪力サムソンの誕生のお告げの物語ですが、サムソンが民を導き、民の心を神に向ける聖なるナジル人であることが告げられています。

 

 バプテスマのヨハネもルカ福音書では、主イエスの降誕前に平行してその誕生のお告げが告げられていますが、丁度サムソンのようなナジル人としての様子も感じられ、彼は「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる・・・エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ・・準備のできた民を主のために用意する」といわれます。

  ヨハネは、4つの共観福音書全てに於いて主イエスの福音の初めに描かれており、主イエスこそメシア(救い主)であると証しています。

 その役割として主イエスの宣教開始後は、静かにその表舞台から退くようにも感じますが、本日のマタイ11章に於いては、獄中で再び、主イエスが来たるべきメシアであることを、イザヤ書の「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉を聞かされ、確認しています。

 そして14章では、ヨハネはヘロデにより殺され、ヨハネの弟子たちが遺体を引き取って葬っております。このヨハネの生涯を思うと、主の道を備えよと告げる預言者ヨハネは、主イエスの受難、十字架の死までもその身に重ねつつ、私たちの心を主イエスに向けさせているように感じます。

 

 主イエスもまたヨハネについて言われます。「あなたがたは何を見に荒野へ行ったのか。風にそよぐ葦か、では何を見にいったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者だ。」

 羊飼いには御使いが、博士たちには星が、世にあるわたしたちにはこのヨハネが、すべての人をその罪から救う救い主へと導いてくれています。

 

(説教要旨 廣瀬規代志) 


2020年12月6日 待降節第2主日

 

「ナザレで」

 聖書

イザヤ書 59:12~20 マタイ福音書 13:53~58 

 

 11月29日のアドベントの第1の主日から、関西学院教会も新型コロナ感染拡大防止の為に再度の礼拝中断となりました。そして12月6日の礼拝から配信も行うようになりました。また併せて6日の週報にも短い説教要旨を掲載することにしました。

 春の中断の折には、突然の手探りのように感じました。今回は前の経験は積まれてはおりますが、再度耐え忍ぶという気持ちの重さは加わったように思います。感染がこれから下降線を辿ってくれるのか、先の見通せない不安は残っておりますが、そういう中で、今年はアドベントに入っております。

 

 本日の礼拝主題は「旧約の神の言」です。旧約の歴史を通して民を導いてきた神の言が、肉となり、この世界にまことの人としてこられたわけでありますが、本日のマタイ福音書では、イエスの故郷であるナザレで受け入れられなかったと告げています。

 それは預言者が故郷では敬われないこともあるでしょう。誰しも、自分の故郷で錦を飾れたら、人としての誉であり心地よい満足となりますが、受け入れられないことは、自分の帰るべき居場所がなく惨めな気持ちになります。

  このナザレの出来事は、そのままヨハネ福音書が告げる「世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と語る「世」というものを、ナザレの出来事は象徴しているように思えます。

 そういう世は、またわたしたちの世界であり現実であると思います。特に今年はコロナの感染で、多くの人が孤独や不安にさらされました。そういう中で、助け合うこともあったでしょうが、普段はみえない人の弱さや冷たさも表に現れたかもしれません。主イエスも「狐には穴があり、空の鳥には巣がある、だが人の子には枕する所もない」と言われましたが、この世界は、主イエスを冷たく受け入れることない人の罪がそこにある場所でもあります。

 

 

  自分の思いで人を批判し裁いたりする、そういうわたしたちの姿と生きざまの中に、主イエスはこられたことを思います。その主イエスにあった、わたしたちの冷たさやちいささは、人の暖かさを十分に感じることのできる冷たさに変えられ、わたしたちの醜さは、主イエスによる罪の赦しがなければ生きてゆけない存在であることも感じさせられてゆきます。まさに闇のなかに、主イエスという光を待ち望みつつ、この今の日々を過ごしてゆきましょう。

 

 

(お詫びも込め)

 11月29日の礼拝は収録の配信が準備できず申し訳ありませんでした。22日の礼拝後に長老の方と緊急に相談し、暫時の礼拝中断を決めて、そのお知らせを24日に教会員と礼拝に集う方々に準備し発送しました。そしてその週の27日に、6日の礼拝の前収録を行いました。どうしても録音から画像と併せ編集をしてサイトにアップする作業があり、また時間を要します。

 因みに6日の礼拝の前には13日の収録を済ませ、土曜日までに次の説教要旨をホームページの管理人に送信するという大まかなスケジュールとなっていますことをご理解下さいますようお願いします。

 礼拝に集うことのできない間、週報もなるべく発送してゆきますので、皆さまの礼拝生活が守られますように。讃美礼拝も今年は収録配信です。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2020年11月29日 待降節第1主日

 

 「目を覚まして」

 聖書

 マタイ福音書 24:36~44

 

 今年もアドベントに入りました。外に出てみると、街はイルミネーションに彩られ、「もうこんな季節か。」と、クリスマスの到来を告げ知らせてくれています。しかし、今の時代、周りの状況を見渡してみても、とてもクリスマスを祝う気分にはなれないのが現状です。

「感染が拡大するウイルス」・「医療現場に立つ人と病にある人、その家族」・「倒産する企業」・「生活が出来なくなった人」・「不安と恐れの中で過ごす人」・「大切な人と会えなくなった人」・「絶望の中、自らの命を絶つ人」‐今年になって、様々なニュースを見聞きしました。私たちもまた、「教会で礼拝を捧げることが出来ない」という、前代未聞の事態に直面しました。

 

正直に言うと、私も気が滅入ることがあります。この期間を、ただじっと耐えるには、私にとってはとても長過ぎます。本当に「何が大事」で、「何をしたら良い」のか、そう問われる中で、いっそ全てを投げ出して、自らの殻に閉じこもりたくなるような、そんな気持ちになります。「もう何も聞きたくは無いし、知りたくも無い。」ぎゅっと目を閉じて、世界と自分とを切断してしまえたら、その方が楽なのではないかとも思うのです。

 

そんな私に対しても、なおイエスは、「目を覚ましていなさい。」と語りかけられます。この箇所は、『マタイによる福音書』の中でも、「終末に関する説教」としてまとめられている箇所です。キリスト教における「終末」それは、終末を単に「終わり」と解釈するのでは無く、「新たな歴史の始まり」と捉えます。時代の絶望を前に、盲目的になる人間に対して、しかし「目を覚ましていなさい。」と、そう語るイエスは、その誕生の時点から「人の目には触れない場所」で生まれたのです。

 

聖書におけるクリスマス、それは夜の闇の中で起きた出来事です。クリスマスを告げられた人々は、泊まる宿すら見つからなかった「若い夫婦」に対して、あるいは、冬の寒空の下で野宿生活を過ごしていた「羊飼い」に対してです。言うなれば、その誰しもが「クリスマスなんて、祝う気分にはなれなかった」人々です。しかし、それでもなお、そこに新しい命が生まれます。「救い主の到来」という、神さまの壮大な救いの計画は、まるで誰にも知られないままに、人間には「見向きもされなかった場所」で、「見向きもされなかった人々」に対して、告げられたものです。つまり、クリスマスとは、神さまからの一方的な「救いの決断」です。

 

 今年もまた、アドヴェントを迎えます。絶望するこの時代にあって、私は「信仰の目」を開いておきたいと思います。今、「クリスマスはどこで始まるのか」・「救いを必要とする人は誰なのか」闇の中で、「それでも生まれた命」と向き合う中で、この時代を見つめていきたいと思います。

(説教要旨 小豆真太郎)

 


2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日

 

 「花婿の声がきこえる」

 聖書

 ハバクク書 2:1~4

 ヨハネ福音書 3:22~36

 

4月12日、復活日から無会衆の礼拝となり、YouTubeでの前収録の短めの配信を5月3日から始めて、本日6月21日が8回目の配信となります。礼拝再開の目処がたち、次主日28日には教会で主日礼拝を捧げることができます。そのような思いの中、今日の聖書の御言葉は、わたしたちに希望を告げてくれるように思います。

 

旧約聖書、『ハバクク書』はあまり馴染みがないかもしれません。預言者の時代は、バビロンが南ユダ王国を侵攻してきた時代を背景にし、2章では預言者が砦の上に立つ見張りの人のように描かれています。(讃美歌236「見張りの人よ、夜明けはまだか いつまで続く この闇の世は」の歌詞が、今此の社会の生きる人の思いと近くあります)。

 

その預言者に神は答えます。「たとえ遅くなっても待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない」と。信じて待つことは、待ち合わせの約束のようでもあり、違いもあります。違いは、それが何時なのかが定かでないことでもあります。不安や絶望、諦めが混ざりつつ、「そのなかに希望が待つこと」と「信じること」が結びつきます。『ハバクク書』の「遅れることはない」と「遅れることがあっても」の相反する言葉も、その不安と希望の気持ちがこもっているように感じます。そして、告げられる意味は、「信じ待つなかで、必ず来る」と、「どんなことがあってもそれは必ず来る。」、「間違いなく必ず来る。」それが見張りの者への神からの言葉です。

 

わたしたちも、その「待つこと」と「既に救い主は来られたということ」を、聖書から示されています。すべての人をその罪から救う、救い主が世に来られ、その救いは主の十字架と復活によって成し遂げられておりますが、わたしたちが罪をもって生きている限りは、いつも、まだ主を待ち望みつつ、信じ歩んでいくことになります。

 

『ヨハネ福音書』の洗礼者ヨハネは、主イエスの到来を花婿として、自分はその花婿の介添人であるといい、花婿を待つ人々に告げます。「花婿の声がきこえる」と。(讃美歌236 見張りの人よ 眠らぬ夜の つとめが終わる 夜明けは近い 旅行く人よ 世の光なる 主イエスは近い 救いは近い 4節は希望が溢れてきます)

 

永らく教会に集うことを控えていただき、皆さまのご協力を感謝しています。「花婿の声がきこえる」は、礼拝再開の喜びの声がきこえると今日の聖書より重ねて感じられております。

 

 また、再開されても礼拝には共に集うことのできない兄弟姉妹が多くおられることも思います。主はすべての者の上に豊かに臨んでいて下さり、何処にあっても主イエスの「わたしが共にある」の御言葉と「わたしに従ってきなさい」の招きの御声がきこえますように。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2020年6月14日

 

 「信仰の言葉-創立記念日を覚えて-」

 聖書

 申命記 6:16~25

 ロマ書 10:5~13

 

 105年前の1915613日、神戸原田の地の関西学院ブランチ・メモリアル・チャペル(現在、王子公園の神戸文学館)でもたれた、礼拝後の総会で、関西学院教会の設立の宣言がなされました。教会が関西学院の中から正式に誕生いたしました。爾来、関西学院と共にその歴史を辿り、上ヶ原に移り、1956年に現在の此の地に会堂が与えられ今日に至っております。

 

例年、その創立日の前の主日を「創立記念礼拝」として守っておりましたが、今年は本日14日に行うことにしました。まだ無会衆の礼拝ではありますが、教会のはじまりを覚えつつ、今この時、そしてこれからもかわらない神の御守りと祝福を信じつつ、主の福音宣教の御業に参与してまいりたいと思います。

 

聖書は教会創立の礼拝のために選んだものではありません。教会暦に従って聖霊降臨節の聖書でありますが、礼拝主題は「神の民の誕生」と、まさに本日の創立記念礼拝のために与えられたような箇所となっています。

 

旧約申命記の中では、「信仰」それは個人個人の心のありようよりも、子供にそれを伝え、手渡す「いのちのバトン」のように思える処があります。子供が「これはどういう意味ですか」と問うなら、こう教えなさいと。伝える者も、それにより自分たちが何者であるのかを常に身に負うことになります。わたしたちが今日あるのは只神の恵みなのだとそう教えます。その神の選びは、自分たちの数が多かったわけではなく、貧弱な民であった、けれども神は宝の民としてくださったのだ、この告白が神の民としての礎となっています。

 

ロマ書でも、パウロは教えます。ユダヤ人が神を熱心に求めながらも、ずれていってしまったのは、「それは神の義を求めずに、自分の義を求めたからだ」と。自分の正しさが救いのつまずきとなってしまった。救いは、只、十字架のイエスが救い主であるとの告白に、すべての民族は、その神の恵みと愛ゆえにみな等しく救われてゆくのだと。ここにも神の民の誕生があるといえます。

 

関西学院教会も、これまでの日々、多くの信仰の証人たちがその信仰の旅路をもって福音を証ししてくれました。わたしたちも、今日あるは、これすべて神の御恵みなりという感謝と喜びをもって神の家族、民として歩んでまいりましょう。 

 

(説教要旨 廣瀬規代志)

関西学院教会成立発会式記念 1915(大正4)年6月12日


2020年6月7日 聖霊降臨節第2主日

 

 「すべてのものの造り主」

 聖書

 イザヤ書 40;12~31

 テモテ書Ⅰ 6:11~16

 

  関西学院教会も、412日の復活日から、在宅(無会衆)の主日礼拝が始まり、531日の聖霊降臨祭(ペンテコステ)の礼拝も、教会では、牧師と伝道師だけの礼拝となりました。けれど不思議なことは、そのイースターの礼拝に一人の受洗者が起こされ、ペンテコステの礼拝でも(以前からの予定でありましたが)、お一人の受洗者をお迎えすることができました。この喜びが、今御自宅に留まって下さっている教会のすべての人に届いているように感じております。

 

 

 ヨハネ福音書には、主イエスが、弟子たちに「わたしを信じる者は、わたしの業を行い、またもっと大きな業を行うようになる」と言われ、「わたしの名によって願うならば、何でもかなえてあげよう。」とあります。これが、父から賜る聖霊の働きによることと結ばれています。冒頭の、礼拝が中断されている間にも受洗者が恵まれたことも、わたしたちの思いを超えた、ただすべての造り主なる神のその御業であることを感じつつ、主の名によって祈り、願うことがかなえられることを聖書から聴いてゆきたいと思います。

 

 

 イザヤ書では、民の「わたしの道は主に隠され、裁きは神に忘れられた」という「神から見捨てられた」という嘆きの心に、悟るように語ります。その扉は、神がこの世界のすべての造り主であり、世界の初めから地の果てまでも神の御手にあることに目を覚まさせます。神の英知は極めがたいがゆえに、だから信じることが活きてきます。(主イエスも信じなさいと弟子に告げています)。

 

 

造り主なる神について、主イエスも「空の鳥、野の花を見なさい。」と教えています。わたしたちのいのちは神からのものであり、神の守りのなかにある、それがわたしたちのいのちであると。その神に、わたしたちが祈り願う時、その祈りは神の御心のままに聞き届けられてゆきます。丁度、パウロが、自分のとげを取り除いて欲しいと願った祈りを、神は「わたしの恵みはあなたに十分である」と応えて祈りを聞かれたように。その神は、わたしたちに必要な物すべてをご存知であられ、与えてくださるものをテモテへの手紙でも教えています。わたしたちがかなえられる願いとは、自分自身を高めるための願いではなく、ただ主の栄光のために信仰の道を歩み通して与えられる永遠の命といわれます。(6:12)

 

 

神さまが、わたしたちを通して働かれる力は、イザヤ書からは、むしろ人としての限界や弱さを知ることによって、すべての造り主なる神を仰ぐことです。その主の望みを置く者は、あらたな力を得、鷲のような翼を張って上るといわれます。聖霊が、主イエスの十字架の愛と赦しの息吹でもってわたしたちに吹き入れられるとき、わたしたちも日々の生活の中で、神さまの深い御旨によって既にわたしたちの願いはかなえられ、聞き届けられていることを、新たな感謝でもって気づかされてくるように思います。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2020年5月31日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

 

 「聖霊が降る時」

 聖書

 使徒言行録 2:1~4

 

 今日の聖書箇所は、『使徒言行録』2章1節~4節です。この箇所は、聖書の中でも、「ペンテコステを表す箇所」として知られ、読まれています。

 

 イースターを迎えて、復活されたイエスは、その後、天へと昇られました。その後、イエスと別れた弟子たちは、意気消沈しています。イエスは、そんな弟子たちに、聖霊を下されます。この聖霊を受けた弟子たちは、何かが変えられました。そして、イエス・キリストについて、宣教を始めます。その結果、各地で教会が誕生します。以上のように、この箇所は、「弟子たちが聖霊を受け、聖霊を通して、イエスと繋がる」という内容です。また、この内容から、ペンテコステとは、「教会の誕生日」と言われます。しかし、現在、ウイルスの影響によって、私たちは、教会に集まることが出来ていません。教会の誕生日を、教会で祝うことが叶わなくなりました。

 

しかし、そんな事態においても、私たちは礼拝を続けています。文書によって、あるいは、音声配信によって、何とか、「自宅での礼拝」を模索しています。これは、この状況を前向きに捉えるならば、「新しい礼拝の形」が生まれる、一つのターニングポイントとして捉えることも出来ます。そして何より、私たちは、どんな形であれ、今こうして「繋がっている。」と言えます。ペンテコステとは、「教会の誕生日」であると同時に、弟子たちが聖霊を通して、イエスと繋がり、また、教会という新たな繋がりを誕生させたように、「繋がりを信じる日」と言えるでしょう。

 

聖書において、「繋がり」とは、神さまの救いの歴史に基づく事柄です。聖書の神さまは、「繋がっていなさい。」と、語られる神さまです。聖書における「人間」とは、アダムとエバという、二人が揃って、成立しています。つまり、人間とは、一人では人間にあらず、二人という、「関係性」によって、成立しているのです(逆に言えば、「一人で生きる」という状態を、「罪」と理解することも出来るでしょう)。

 

このように、「繋がっていなさい。」と語られる神さまは、人間を創造された時点で、私たちに救いの道を示しています。つまり、「聖霊によって繋がる」という救いの出来事は、この『使徒言行録』2章によって、突として語られ始めた話ではありません。意気消沈する弟子たちに対する、「慰め」や「気晴らし」のような話ではありません。「聖霊が降る」という出来事は、神さまの創造の時点から、旧約聖書を通して預言され、新約聖書にまで至る、壮大な救いの歴史です。私たちの「繋がり」とは、言わば、その「大いなる歴史」の一つとして、位置づけられます。

 

  私たちは、今、こうして繋がっています。それが教会の姿です。つまり、教会とは、「建物」では無く、「関係性」の概念です。イエスは言われます、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」今日はペンテコステの日、教会の誕生を共に祝いたいと思います。

 

(説教要旨 小豆真太郎)


2020年5月24日 復活節第7主日

 

 「キリストの昇天」

 聖書

 列王記下 2:1~15

 ヨハネ福音書 7:32~39

 

 復活節の最後の週となっています。使徒言行録1章によれば主イエスは40日にわたって弟子たちに顕われ、天に上げられ雲に覆われたと記されており、この日(必ず木曜日)を「キリストの昇天日」として教会暦のなかに位置づけています。

 

 ルカ文書以外ではマルコ福音書が天に上げられ、神の右の座に着かれたと短く記しているのみで、ルカとその後編の使徒言行録が主イエスの昇天と聖霊の降臨を詳しく一つの流れのように描き、弟子たちの宣教への道が開かれていくように続けております。それは旧約の列王記の預言者エリヤが、天に上げられ、そのエリヤの霊と不思議な力を弟子であるエリシャが継ぎ、預言者として立てられてゆくようでもあります。

 

 ヨハネ福音書では直接的には昇天はでてまいりませんが、主イエスの告別説教を通して、弟子たちを助け守る聖霊の働きをこれまで学んできました。7章は、主イエスが父のもとに帰ること、その姿を見なくなるということを、本日の礼拝主題のキリストの昇天にあわせて聴き、主は、来たるべき聖霊によって信じる者すべてが、その人の内で生きた水が川となって流れ出るようになると言われました。比喩的な表現でありますが、まさしく聖霊を受けた弟子達が、主イエスの命の水を受け、湧き上がる清水のように、神の恵みを讃美し、渇きうめく人々にその川の流れと潤いを与えて、主の教会が生まれてくるようです。

 

 キリストの昇天も、ともすればわたしたちも、復活の主イエスが40日目に天に上げられた日というふうに、40日の数字の理解に留まってしまっているかもしれません。ましてその日は木曜日という平日です(今年は5月21日)。よほど注目しないと過ぎてしまいますし、注目しても何もその日にはないのですが、しかし大切な日です。その大切さをしるために広く眺めてみましょう。灰の水曜日に始まる受難節の40日、そして十字架と復活の後50日目の聖霊降臨というこの約100日(むしろ前7週、後の7週という表現が相応しいかも)の時が、如何に大切な時なのか。

 

 主の十字架とよみがえりの新しい命の息吹が吹き入れられて、人が罪の赦しを受け主の弟子として招かれること、このわたし達のうちに神の恵みが活ける水となり溢れる愛となって兄弟姉妹と結ばれてゆくことが、十字架、復活、聖霊降臨までの日々と思います。聖霊が、主の十字架を示し、主のよみがえりと愛をわたしたちの心に刻みつけてくださるのもキリストの昇天の日の意味と思えます。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2020年5月17日 復活節第6主日

 

 「世に勝利している」

 聖書

 出エジプト記 33:7~11

 ヨハネ福音書 16:25~33

 

 ヨハネ福音書14章17章では、弟子たちに約束された聖霊(弁護者、真理の霊)の働きが語られています。この中で、主イエスの「あなたがたには世で苦難がある」(16:33)や「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく」(17:15)の言葉を聞くと、使徒パウロが、「自分のとげを取り除いて欲しい」と3度主に願った祈りが思い返されてきます。そのパウロへの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で発揮される」でした。そしてまたパウロ自身も「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。わたしは弱い時にこそ強いからです」と告白するに至っております。

 

 日本社会の一般的理解ならば、苦難や災いという厄を払ってもらうために人は宗教に帰依するかのように捉えている人がいるかもしれません。けれど信仰はそうではありません。じゃあ「何のため」ともし問われても、どの宗教も自己中心でないので何千年の歴史の中にあっても存続しているように思えます。そういう意味で、主イエスが告げるこの世には苦難があるということもまた自然であり、パウロが願ったように、どうかこのとげ(苦難)を取り除いて欲しいという同じ思いも私たちにあろうかと思います。

 

神さまからパウロは、弱さの中に神の恵みが働くことを示されましたが、そのこともパウロが神から与えられた世での苦難と体験にあるように想像しています。それはアテネでのパウロの宣教です。そこにはギリシア文化の知者、学者達が多数おり、彼らの前でパウロは語ります。最初、熱心に耳を傾けていた聴衆は、主の十字架と復活を聴くと、冷ややかな嘲笑に変わり去っていってしまいます。パウロにとっては大きな落胆と失望でした。けれどもこの挫折によって、パウロは逆に、自分が語るべき言葉は主の十字架の言葉しかないという核心が与えられます。そして自分の欠けの土の器を通して、主の十字架の福音が救いの御言葉となってゆきます。主イエスの祈る聖霊の働きも、弟子たちをこの苦難の世から害の及ばない安全な処に移すのではなくて、その世の只中にあって、弟子たちを活かし、新たな道を開かせてくれるものです。聖霊が、この世にあって、どのようにわたしたちを守り助けてくれるのか。確かなことは、残念ながらわたしたちの願いや思い通りではないということです。しかし幸いなことに神の御心のままに叶えられるということです。

 

 主イエスも十字架によって、わたしたちすべての人の罪を贖い、救いとなられたように、神の自由なみ心のままに、聖霊はわたしたちを用い、わたしたちの弱さを通して、神さまの恵みと愛を誰かのために捧げられてゆくのかもしれません。しかしそれは神さまの喜びでもあるといえます。主イエスは告げます「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。たとえ苦難があっても、御使いの歌う喜ばしい讃美の歌声が聴こえてきそうな気がします。

 

 

(説教要旨 廣瀬規代志)

 


2020年5月10日 復活節第5主日(母の日礼拝)

 

 「弁護者 真理の霊」

 聖書

 エゼキエル書 36:24~28

 ヨハネによる福音書 15:18~27

 

 本日から聖霊降臨日(531日)にかけて、主イエスが天に挙げられる昇天(40日目)と聖霊についての聖書が礼拝の中で与えられてゆきます。

 

 ヨハネ福音書15章にあります「弁護者」も聖霊の呼び名の一つとして比較的有名な言葉です。口語訳では「助け主」。英語ではカウンセラーと訳されています。これらの訳語からも「弁護者」なる聖霊が寄り添い、力強く守ってくれそうな感じもします。新共同訳では、この段落に「迫害の予告」と小見出しがあり「世があなたがたを憎む・・・人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害するであろう」と書かれています。

 

 現代社会では、キリスト者ということだけで虐げられることはないでしょう。むしろキリスト教主義学校には神の愛と隣人愛の良きイメージが抱かれているように感じます。けれどこれまでの教会の歴史の中では、古代でも殉教や迫害があり、近世戦時下でも国家に協力できない信仰上の罪で投獄された方もいます。これからもそういう時がやってくる可能性は否定できないことを歴史は教えます。

 

 主は弟子達にそういう不吉な時の到来だけを告げているのでなく、そういう中で、わたしとつながっていなさいと教えます。主イエスが言われた「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」も、切り離そうとする力に対して「わたしとつながっていなさい」それがあなたがたの命でもあることを緊迫した中で語っており、それを助けてくれるのが「弁護者」なる聖霊です。

 

 主イエスと弟子が、常に結ばれていることは自明のことでも可能なことでもありませんでした。十字架の前に、弟子達は自分の力ではつながっていることが出来ず、主を見失い、闇の中に閉じ込められていたのを、この弁護者・聖霊が、よみがえりの主イエスを弟子達に結び付けてくれます。それがこの聖霊の働きです。まさに神の御心のままに吹きつける息吹です。

 

 また神の御救いは、主イエスの十字架によって成し遂げられ、全ての人が神の愛の中に招かれていることを告げ知らせるために教会が聖霊によって建てられました。艱難のあるそういう世の中だからこそ聖霊が働き、主イエスの姿をはっきりとわたしたちに示してくれます。互いに愛し生きるようにと。そこに主は共にいてくださるのだと。

 

 聖霊の実は、小さなわたしたちの心の大きな喜びです。何の役にも立たない器かもしれない。けれど主のために生きてゆきたい。主の愛の中に隣人と共に生きてゆきたいとそう願う時、既に聖霊の実はわたしたちの内に豊かにみのっているのではないでしょうか。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2020年5月3日 復活節第4主日

 

 「わたしに従いなさい」

 聖書

 イザヤ書 62:1~5

 ヨハネによる福音書 21:15~25

 

 復活節の7つの主日の前半は主の復活顕現の物語で、後半の主日はキリストの昇天と聖霊についての聖書箇所が与えられてゆきます。

ヨハネ福音書21章の後半は、よみがえりの主イエスがペトロに3度問うところです。ヨハネ福音書は、共観福音書と異なり、最初の弟子を招く物語もティベリアス(ガリラヤ)湖畔の漁師ではなく、アンデレとシモンの物語で、しかもアンデレはバプテスマのヨハネの弟子となっています。

 

 しかし21章では、共観福音書に近づいて湖畔での漁師の姿が思い返されてきます。そこで主はペトロに「わたしを愛しているか」と聞かれます。ペトロは「はい主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えます。また同じ問いを主は尋ね、ペトロもまた同じ答えをします。3度目に同じ問いを聞かれて、ペトロは悲しくなったとあります。それは自分が信じてもらえない悲しさではなく、3度目に、自分が3度主を拒んだことを思い起こしいたたまれなくなったのだと思います。

 

 けれどそこでペトロは「主よ、あなたは何もかもご存知です」と答えます。つまり3度も主を知らないと言ってしまったこんな自分を主はご存知であり、その上で「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と。なにもかも、既に弟子として破滅をもたらすようなことをしてしまったことも主は知っておられ、その主に今すべてを委ねていることを。

 

 先にトマスもペトロに似ていると申しましたが、同じくペトロもトマスによく似ています。ただ神の御赦し以外になにもない。この自分が主に従うことも、それもただ神の御赦し以外になにもない。けれどもこの御赦しこそが、主の十字架の愛であり、そしてその愛こそが、弟子たちへの主からの新しい命となっています。主はこのペトロに、「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしの羊の世話をしないさい。」と同じく3度言っております。3度主を拒んだそのペトロに、主は罪の赦しという福音を宣べ伝えさせ、このペトロに「わたしに従ってきなさい」と遣わされてゆきます。

 

 わたしたちも、自分のなにか優れたところで人を教え導けても、それは感化を与えることはできても主イエスがわたしたちすべての人の救い主であるという福音を届けるには至らないかもしれません。ただ自分の罪と、どうしようもないこの身が、主の溢れる恵みを指し示めしていることを、主の復活の命と「わたしに従ってきなさい」の御声が語り掛けてきます。

 

 主イエスの宣教の始まりに弟子を招く物語がありました。そして復活の最後にも主が湖畔で弟子に現れ「わたしに従ってきなさい」と告げられています。まさに主の復活が全ての始まりです。弟子たちが招かれた時「すぐに網を捨てて」や「すべてを捨てて従い」も、今日の聖書の箇所のペトロに3度主が問われ「わたしに従ってきなさい」と遣わされた御言葉から、宣教の初めの主と弟子の出会いがはっきりと感じられてきます。わたしたちもまたその弟子の一人です。主の復活の命の証人です。

 

(説教要旨 廣瀬規代志)


2020年4月26日 復活節第3主日

 

 「主であることを知る」

 聖書

 ヨハネによる福音書 21:1~14

 

 

 今日の聖書の箇所は、『ヨハネによる福音書』における、復活されたイエスの顕現の場面です。ヨハネは、復活の主と、弟子たちとの出会いを、3回に渡って描きました。この3回の場面から、「復活とは何か」という問いを、私たちに突きつけます。

 

 

イエスが復活された時、弟子たちは「ティベリアス湖畔」にて、漁に出かけていました。そこは、ある意味で、「弟子たちの日常生活」と言えます。愛するイエスが「十字架にかけられた。」そんな、緊急事態を経験した弟子たちにも、また、いつもの日々が戻ってきました。「茫然自失」としていたのか、黙って、淡々と漁に出たのか、それは分かりません。とにかく、何とか「いつもの日常」を取り戻そうと、漁に出るのです。そこに、「復活の主」が顕れます。それを見た誰かが、「主だ。」と言うと、ペトロは上着をまとって、湖に飛び込みます。

 

このペトロの行動は、まるで「洗礼(バプテスマ)」を想起させます。「これまでの(全てを失った)自分」から、「新しい(上着を身に纏う)自分」へと変えられるような、象徴的なシーンです。ペトロと言えば、かつて、イエスのことを三度、「あんな人、知らない」と答えた弟子です。そんな、自分の過去を背負いつつも、「復活の主」との出会いは、ペトロを新たな「宣教の旅」へと駆り立てるのです。また、イエスの処刑に際して、一目散に逃げ出した弟子たち。しかし、復活の主との出会いを経験した弟子たちは、皆が「主であることを知っていた。」と語り、共に食卓を分かちます。

 

 

このように、「復活」とは、ただ「死んだ人が生き返った。」という事実を表すものではありません。更に言うなれば、「復活」とは、過去の姿で、そのまま私たちの下へと帰ってきてくれるものでもありません。「復活」とは、これまでの時代・価値観・人から、「新しい世界」へと、造り変えられていくことを意味します。そこには、「変化が伴うものである。」これが、聖書の語る「復活」です。復活とは、過去に立ち返ることではなく、開かれた未来に向かって、「新しい世界の到来」を意味するものです。故に、「復活」とは、「未来に対する希望」です。

 

 

新型コロナウイルスの影響が各地で広がり、毎日のように感染者数が発表されています。私たちは、このような状況において、礼拝を守り続けています。礼拝堂へと集まることは出来なくても、礼拝の灯を絶やさずに守り続けています。それは、何より、日曜日の朝、「復活の灯」を絶やさない信仰です。

 

 先日、「緊急事態宣言」の範囲が拡大されて、全都道府県が対象とされました。今のところ、発令期間は、「5月6日まで」と言われています。「5月7日以降」がどうなっているのか、あるいは、「ウイルスの終息した世界」はどうなっているのか、それはまだ、誰にも分かりません。私たちは、誰もが、「早く、あの頃(過去)に戻りたい。」と、そう願います。

 

 しかし、復活とは、「未来に対する希望」です。むしろ、今、私たちは、これまで何気なく出会っていた人々や日常、それらに「かけがえのない価値」があったことに、気づき始めています。復活を迎えて、この時代の節目に、新たな世界(時代・価値・人)を創造していきたいと思います。

 

 (説教要旨 小豆真太郎)


2020年4月19日 復活節第2主日

  

 「トマスにも」

 聖書

   ヨハネによる福音書 20:19~31

   ペトロの手紙一 1:3~9

 

ヨハネ福音書20章19節からは、復活の主が、家に鍵をかけていた10人の弟子の真ん中に立ち、彼らに手とわき腹を見せてよみがえられたことを示し、彼らに息を吹きかけ、遣わすと言われます。

 

その場にどういうわけかトマスはおりません。

弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても信じられません。

あろうことかトマスは「あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみなければ・・わたしは決して信じない」と強く拒みます。

疑い迷うトマスや不信仰トマスと呼ばれる所以です。

 

このトマスですが、主の十字架と復活の場面でペトロと似ていると感じます。

「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ福音書)と言ったペトロも、主を三度「知らない」と言ってしまいます。

しかしこのペトロによみがえりの主は「わたしを愛しているか」と同じく三度尋ね、「わたしの羊を飼いなさい」と主の教会をこのペトロに託しています。

 

主が命を捧げられたその御傷跡に自分の指を入れなければと言ってしまったトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と主は言われました。

まさしく「御傷示して信ぜよと招くは誰ぞ 主ならずや」(讃美歌197)のようです。

他の弟子たちと離れていたトマスに主は臨み、その大きな赦しと愛の御手で包み、その愛と赦しの息吹でトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白し信じる者として遣わされてゆきます。

もう一度改めて、トマスとペトロは共に、自分の弱さ(罪)を知らされ、その悲しみの深さ、そしてそれ以上の喜びの大きさも併せて似ているように思います。

 

主の十字架と復活。

それはこのペトロとトマスに、その死と新しい命をみることができますし、わたしたちも同じくキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に新しい命へと招かれております。

 

ペトロの手紙は、今の社会状況下に偶然ですが「今、しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」(6節)とあり、また「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と教えます。

互いに顔を見合わせて礼拝を守ることが出来なくなっての二主日目ですが、聖書の御言葉に支えられつつ、復活の主が共にいてくださる喜びが豊かにありますように。

「主はよみがえられた」この命の御言葉が、光差し込む希望につながってゆきますように。

 

今朝の礼拝の中で予定通り、この月に受洗記念日を迎えられる70名の方の祝福の祈りを捧げます。

(説教要旨 廣瀨 規代志) 


2020年4月12日 復活節第1主日(復活祭礼拝)

 

 「主の復活」

 聖書

 ヨハネによる福音書 20:1~18

 

主の復活日は教会にとって最大の喜びの日であります。

教会の誕生はペンテコステともいわれますが、すべての始まりは主のよみがえりからといえます。

 

先主日後の長老会で感染防止の為に礼拝中断を決めて、各家庭で主日を守っていただくことに決めました。

今日がその始まりの主日です。

 

今日までの1週間に、わたくしもいろんなことが頭によぎりました。

辿り着いたことは、主の復活の朝も、ヨハネ福音書ではマグダラのマリア、ただ一人からすべてが始まっているということです。

まさしく今日の礼拝(お一人の受洗者が与えられ、共に礼拝を守りました)に重なるように思えるのです。

一人の受洗者がこのような状況のなかで神さまから与えられたことは、関西学院教会の多くの皆さまの喜びへと広がり、繋がっていくと思いを強くいたしました。

 

今の此暗い時だからこそ「主はよみがえられた」

この御救いの言葉をしっかりと心にうけとめて、主の復活の光を仰ぎつつ、すすみゆきましょう。 

 

(説教要旨 廣瀨 規代志)


2020年4月9日 受難週聖餐礼拝

 

「ペトロの否認」

 聖書 

 ヨハネによる福音書 18:15~27

 

本来は受難週の聖餐礼拝として、主と弟子たちの過越しの食事を記念し、この夕べも聖餐を共にさせていただく予定でしたが、この日々刻々と変化する情勢のなか、関西学院教会も去る5日の礼拝後の長老会に於きまして今後の礼拝について相談をいたしました。

聖餐は感染予防のために中止。主日の礼拝も、今は共に人が集まることをなにより控えることが、わたしたちのなすべきこと、しかも早急にということを教会の決断としました。

ただ礼拝を止めてしまうのではなく、それぞれの各家庭において主の日を共に過ごそうとし決意し、そのようにこの週の初めに連絡もさせていただきました。

 

寂しい思いもありますが、使徒言行録のなかで迫害され、散らされた弟子たちが、福音を宣べ伝えていったように、教会で共に守っていた礼拝の灯りが、多くの小さな灯りとして暫く分散し、そしてまた時が来れば再び一つの灯となり集められてゆきたいと思います。

今は讃美を歌うことも飛沫感染につながる可能性がある状況ですが、時が来ましたら、力強く大きな声で会堂に響き渡るほど、共に主を讃美したいと思います。福音の喜びが地の果てまでも告げ知らされるように、神の御名を誉め讃えたいと思います。

今暫くの時、神さまから与えられたこの時は、教会にとって、十字架と復活の前の時のように感じます。

主の復活と聖霊の助けによって、弟子たちが共に一つとなり、福音宣教に遣わされたように希望をもってまいりましょう。

 

今も厳しい状況におかれている人々のことを覚え、またこの病で多くの人も召されていますが、兄弟姉妹の悲しみに心を寄せつつ、そしてまた主の御守りを信じて、再び集まれる日が来ますようにと祈ります。

 

礼拝にくることができなくなる教会の皆さまには、できるかぎり教会からも説教の要旨などをお送りさせていただき、わたしたちが離れていても、共に主にあって養われる一つの羊の群れであることを、より心に強く感じていただきたいと願います。

 

今夕の聖書は、主が引き渡されるその夜、ペトロが三度主を拒んだところの箇所であります。

弟子の中でペトロは主を「知らない」「違う」とはっきりその口の言葉で拒んでおりますが、ほかの弟子たちも皆主を見捨てて去っております。

皆同じ罪のなかにおります。

 

先に申しましたが、わたしも、教会が主日の礼拝を中断するに至りましたこと。牧師として、主から託された務めに背き、神さまの前で「知らない」という言葉を発してしまっているような思いを正直抱かずにはおれませんでした。これまでの教会の歴史のなか、必死に礼拝を守り続けた信仰を思うと申し訳なさ、無念を感じずにおれません。

 

けれども、それでも神は赦される。神が赦しの神であることも、このペトロから感じております。三度主を拒んだペトロによみがえりの主は、三度「わたしを愛しているか」と問われ、そして「わたしの羊を飼いなさい」と命じられたこともわたしたちは知っています。

主の十字架は、わたしたちの罪を赦されるために、主がこの世界にきてくださり、その命を捧げられたことであります。ペトロはそのみずからの弱さという罪を神の前にあらわにされ、それだからこそ、主はこのペトロに「わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」と言われ「天の国の鍵」を授けられました。

そこに主の教会があり、わたしたちの喜びもあります。わたしたちの救いの証しも、この主こそが「わが主、わが神である」という心からの叫びであります。この主に従いつつ、どのような日々であろうと、わたしたち生涯、主の道を踏み外すことなく従ってゆきたいと願います。

 

この今日の課題は、わたしたち関西学院教会だけでなく、多くの教会もまた同じ労苦を負っております。

すべてのものが主の大いなる力強い御手に守られてゆきますように覚えて祈りつつ歩みたいと思います。

主の復活の新しい命を受けて、一日一日がまもられますように。祈りをささげましょう。

 

(説教要旨 廣瀨 規代志)


2020年4月5日 復活前第1主日(棕梠の主日)

 

「ポンテオ・ピラトのもとに」

  聖書

  ヨハネによる福音書 18:28~40

  ヘブライ人への手紙 10:11~25

 

本日の棕梠の主日から受難週に入ります。

ピラトの名前について、わたしたちは毎主日、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白していますので、主の十字架とポンテオ・ピラトは自然に結びついてきます。

当時、ユダヤは、ローマの支配統治下であったので死刑は、この総督の許可が必要であったといわれています。それで、主イエスは最高法院からこのピラトのもとに移され裁かれます。福音書を読む限り、ピラト自身は主イエスに罪を見出すことはできないにも拘わらず、エルサレム指導者達の主張に従い、主イエスを十字架につけることを命じます。

 

使徒信条が、最高法院の大祭司の名ではなく、このピラトの名を挙げている理由を、学生時代、受洗する前に牧師から学んだ記憶があります。

その理由とは、この歴史上に実在した総督の名によって、神の御子、救い主イエスが、わたしたちのこの世界に実際においでになり、主の十字架がわたしたちの歴史の中で起こった真実の出来事であること示してと聞いた覚えがあり、不思議に印象深く残っています。

 

この世界に、わたしたちの「この世界」「この現実」に主はおいでになったことを今思います時、世界中に広がった感染症のこと、多くの人が次々倒れていく今のこの受け入れ難い現実を感じずにはおれません。

そういうわたしたちの只中に主は来られたことを先ず思います。次に御子はこの世界においでになられたのは、すべての人をその罪から救うためであることを思うのです。

主の十字架によって、すべての人の罪が贖われるために、主はこの世界に来られたのであり、わたしたちの救いは、ただこの主イエスによる「罪の赦し」と「永遠の生命(いのち)を信ず」にあると使徒信条は結びます。その主に対してわたしたちは何をなすべきかを聖書から聴いてまいりましょう。

 

ヘブライ人の手紙では、イエスはご自身の垂れ幕(十字架で裂かれた肉と流された血)によって、新しい生きた道を開いてくださったことを教えます。

希望が揺るがされぬよう、互いに愛と善行によって励まし合いましょうと勧めます。思いがけない艱難に見舞われ、自分の力で解決できない状況にあっても、互いに愛し合い、愛のよき業で人に仕えようと私たちがそのように立つ時、主が私たちの前を進みゆかれ、新しい生きた道が開かれ、わたしたちにとっても命の道へと続くように思います。今この時、どうか主と共にあることができますように。  

 

次主日、復活日礼拝を共に迎える予定でありましたが、既にご連絡しましたように現下の情勢で教会の主日礼拝を多数の方と守り続けることは感染拡大への危険性をも否めず、止む無く中断させていただくことにしました。

 

しかし、主の日の礼拝は、私たちの生活の始まりであり喜びでもあります。いま暫くは感染予防に協力をする為に教会の皆さまも各家庭での礼拝を守りつつ、互いに心をあわせてゆきましょう。急な決断、急なご連絡ではありますが、どうぞご理解下さいますようお願い申し上げます。

 

(説教要旨 廣瀨 規代志)


 

2021年11月21日(降誕前第5主日、謝恩日、収穫感謝日礼拝) 

説教「エッサイの子」

聖書 サムエル記上 16:1~13、テモテへの手紙Ⅰ 1:12~17

  

 新約聖書は、アブラハムは信仰の父とし、モーセから律法の教えを、そして本日のダビデは、建国の礎、平和の王としての希望を受けついでおります。

  マタイ福音書冒頭も「アブラハムの子 ダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まっています。

  

現在、水曜日の祈祷会では、士師記を学んでおります。

時代でいえば、王国が成立する前になります。

通常は、王国はダビデによって打ち立てられたと見られています。

もう少し正確にみると、サウルが預言者サムエルによって油注がれて王となっていますので、サウルが初代の王といえます。

しかし、士師記の中で、ギデオンの息子アビメレクはシケムという町限定ではありますが、そこで王となっています.

誰が最初の王なのかは、微妙です。

 

代だけではだめなのか、また油注がれる儀式が重要なのか分かりません.

ただ聖書は明らかに、ダビデを王として輝かせます。

イザヤ書11章にある平和の君の預言にもダビデの姿が感じられます。

 

王国が最も繁栄した時は、ダビデの息子ソロモンの時代です。

彼は国内の制度を整え、外国との交易で豊かな富を蓄え、王宮と神殿を建設します。

ダビデも成しえなかったことを、ソロモンは果たします。

しかし、不思議なことにダビデは、この「ソロモンの父」とは呼ばれません。

「エッサイの子」がその王に相応しい呼称となっています。

  

 神は、サウル王をあきらめて、新たな王に油を注がせに、サムエルをベツレヘムに向かわせます。

村の長たちは動揺します。それほど小さなのどかな村だったように感じます、

エッサイの7人の息子たちがサムエルに次々紹介されてゆきますが、その中にはいません。

まだ他にということで、羊の番をしていた末の子ダビデが連れてこられ、油注がれるところが本日の聖書箇所です。

  

 聖書には、王に対する否定的で預言者的な目があります。

軍事力によって民を支配し、富を自分一人に集中させ、民を苦しめる王の姿です。

それに対して、羊を守り、馬ではなく、ろばにのり、平和の君としての王の姿が人々に希望を届けています。

それはソロモンでも、サウルでもなく、このダビデであり、この「エッサイの子」であります。

 

 マタイ福音書のすべての民を裁く王の譬(終末的な譬え)もあります。

この王の言葉「この最も小さい者一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことなのだ」も、王の言葉をもって民に告げられる神の御心であります。

 

 「エッサイの子」のほかにも「エッサイの根より」という言葉もあります。

レバノンの大木が切り倒された後に、このエッサイの切り株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育つと、ここにもダビデの血筋が、民への救いの希望の灯となっております。

次主日よりアドベントです、ベツレヘムのエッサイの子が私たちを導いてくれます。

 

 (説教要旨 廣瀬規代志)