2024年1月21日 降誕節第4主日

 

説教「道を示し」

聖書 出エジプト記 33:1223 ヨハネ福音書 2:111

 

 ヨハネ福音書2章冒頭には、カナの婚礼の物語です。

婚礼の席で客に振舞うぶどう酒がなくなり、困っているところをイエスさまが来られます。

そして、6つのかめに水を満たさせ、宴会の席に運ばせます。

すると、とても良いぶどう酒に変わっていたという奇跡物語です。

母と主イエスの導入の会話でも、あたかも何かが起こるという含みをもたせています。

「時が来ていない」という言葉や、ヨハネ福音書の最初の「しるし」も特別に記されております。

主イエスの新しい福音宣教の開始が、このぶどう酒に現わされているようにもとれます。

そして人々の驚き、喜びが感じられます。

 

 旧約出エジプトの33章には、モーセと主のやりとりがあります。

その前に臨在の幕屋と小見出しがついている短い個所に続いています。

荒野を導く雲の柱と幕屋の場面です。

ここでは「主は人がその友と語るように、顔と顔をあわせてモーセと語った」とあります。

後には、逆に「神の顔を見ることはできない」とも書かれてあります。

 

 モーセは召命を受ける時(出エジ3章)も、何度も尻込みして、神を苛立だせております。

しかし、神は、そのモーセをファラオのもとに遣わし、民を奴隷の地から贖いだします。

執拗に、神の栄光を示してください。

どうか道を示してください。

神よ、あなたがどうか共に、一緒に行ってください。

そう縋りつくような願いを、モーセは繰り返しています。

 

 カナの婚宴とどう繋がるかは、見方によって微妙に色合いが変化します。

「宣教の開始」という主題のもとでは、ともに始まりとなります。

新たな道を進むなかに、ぶどう酒の祝福もみることができるかもしれません。

 

次にモーセの執拗な願いを中心にみてみます。

ぶどう酒がなくなったように、自分の力の足らずとも、よりすばらしいぶどう酒が与えられる。

パンの奇跡のように、見えない神の確かな恵みを見ることもできます。

 

 さらに先主日、弟子を招く聖書の教えに続いて、答えているようにも思えます、

神の召しと派遣は明白な信仰の根幹といえます。

ただ人の生きている現実において、簡単に運ぶことではありません。

「こんな自分がどうして」というモーセのような思いも否定できない。

従う中にも様々な躓きも生じてきます。

人と人との関係で、全てが順調に問題なく運べないのも現実です。

ただ何度も、神よ、どうか助けてくださいと憐れみを求める。

そんな中で道が示されてくる。

神が共に歩んでくださる。

それは、主イエスの十字架への道が、私たちに目を開かせ、神からの愛と進む道を示してくださることです。

カナの婚宴のぶどう酒は「花婿きませり」の歌のように、御子がこの世界に来られたことを示しています。

御子が十字架と復活の光で道を開き、私たちが互いに愛しあって生きる道を照らしているのです。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年1月14日 降誕節第3主日

 

説教「僕(しもべ)聞きます」

聖書 サムエル記上 3:1~10 ガラテヤの信徒への手紙 1:11~24 ヨハネ福音書 1:36~42

 

  本日の礼拝主題は「最初の弟子たち」です。

この言葉から浮かんでくるのは、ガリラヤ湖畔で弟子となったペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネではないかと思います。

けれど本日のヨハネ福音書には、ガリラヤ湖畔はでてきません。

まずアンデレが主に出会います。

そして兄弟ペトロに「メシアに出会った」と言って、主のもとに連れてくる内容です。

 

 使徒書はガラテヤの信徒への手紙、旧約はサムエル記になります。

ガラテヤ書では、使徒パウロが、自分がどのように使徒とされていったのかを語っています。

またサムエル記は、預言者サムエルの子どもの頃の物語です。

彼がこれから偉大な預言者として、召し出されることが指し示されるような個所です。

このサムエルを特に取り上げ、神の召しに従うことを聞いてゆきたいと思います。

 

 旧約聖書には数多くの人物が描かれていますが、その幼少期の物語は多くはありません。

その一つが、少年ダビデが巨人ゴリアトを倒す物語であり、このサムエルの物語です。

比べてみると、似ているところがあるかもしれません。

このような物語には、人物像から、逆に遡って生まれてきたことも十分考えられます。

そこには背後にある歴史やメッセージも感じ取れます。

 

 サムエルは、王国が成立する前、人々を導いた指導者であり、預言者です。

当時の人々は自分たちにも王が欲しい、そして強い国になりたいと強く望んでいました。

そこでサウルに油を注いで、初めての王が誕生します。

しかし、サウルはその後、神に御心にそぐわず、サムエルはダビデに油を注ぎます。

 

 通常、まだ王がいるなかで、新たな王の油注ぎはありえないように思えます。

私にはずっと謎でした。

ただ、サムエルが偉大な預言者で、彼なしには王の即位もできない力を持っていた。

そのように考えると、理解できるように思います。

それほどの預言者であります。

そして、その預言者の姿がよく分かるのがこの物語であります。

祭司エリではなく、この幼子サムエルに、主の言葉が告げられます。

そして「僕(しもべ)、聞きます、主よ語り給え」と応答します。

これが、預言者として立てられてゆく始まりであり、全てになります。

 

 自分の才覚や、時代を見極める力、力強い説得力ではありません。

ただ「僕(しもべ)、聞く、主よ語り給え」の祈り、これが礼拝の中心である。

かつて神学部で、そのように学び教わりました。

それは弟子の招きに通じています。

あの使徒パウロの召しも、ただ主の召しに依るものであることを聖書は証ししています。

 

 信仰の告白と旅路。

こんな小さな私でも、大きな主のみ恵みによって、今日まで歩ませていただいている。

それこそが、主が私を遣わしておられることでもあります。

この土の器に、福音の宝が注がれ満ちております。        

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年1月7日 降誕節第2主日(新年礼拝)

 

説教「見よ、神の小羊」

聖書 イザヤ書 42;1~9 ヨハネ福音書 1:29~34

   

  降誕日から新年を迎え、与えられる福音書の個所は、ルカでば幼子イエスの宮もうでがあります。

マタイ、マルコでは主イエスの受洗から最初の弟子たちを招く物語になります。

ヨハネ福音書には降誕の物語はなく、光、命、言という用語で、救い主が世に来られたことを告げます。

 

 そしてバプテスマのヨハネの証しに続きます。

アドベントにもこのヨハネは主の道を備える先駆者として聖書から聞いてまいりました。

年が明けて、再び今度は洗礼者(バプテスマ)ヨハネとして、神の御子を指し示します。

 

 旧約のマラキ書は、主の日が来る前に、預言者エリヤを遣わすとあります。

まさにその預言者の務めは「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」ためであります。

 

 聖書の言葉、また物語は改めて結びつけてみると、その輝きが現れるように感じます。

本日の福音書のヨハネの言葉は説教題にもいたしましたが「見よ、神の小羊」とあります。

「見よ」は、ヨハネがそこにいる人々に語った言葉でもあり、今の私たちにも語りかけられています。

そして、そのことが「この心を父に向けさせる」ことにも繋がっているといえます。

 

 主イエスが、人となられ、肉となられて、神の御救いが、私たちの生きている世に訪れた。

そして、私たちがその救いのしるしを見ることができるのは、飼い葉桶の御子です。

多くの病人を癒し、ゴルゴダの丘で血を流された御子です。

そして、このヨハネが指し示す神の小羊であります。

 

 主イエスの呼称には、ほかに人の子もあれば、救い主、羊飼いと呼ばれることがあります。

神の小羊は、ヨハネ黙示録にもでてきます。

そこに込められている意味は、旧約の時代より生贄として捧げられた羊であるといえます。

イザヤ書の苦難のしもべとよばれる個所が、本日共に与えられています。

主イエスの十字架の救いこそが、この「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」であります。

 

 新しい年が明け、この年の歩みに多くの人が幸を望むのが正月の日々です。

救い主降誕の光を受ける歩みは、主イエスの十字架と復活への主の道を辿ることです。

私たちの罪を赦し、救うためにその道を進みゆかれた主イエスの光。

そして、神の深い愛を感じつつ歩むことでもあります。

この年も主への感謝と讃美を捧げつつ、共に進みゆきましょう。    

 前任地の近くに、聖公会の聖アグネス教会という古いレンガ造りの礼拝堂がありました。

アグヌス・デイ(神の小羊)はキリスト教のシンボルにもなっております。

世の罪を取り除く神の小羊として、勝利の旗を持って描かれております。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年12月31日 降誕節第1主日(歳末感謝礼拝)

 

説教「東方の博士たち」

聖書 イザヤ書 11:1~10 マタイによる福音書 2:1~12

   

  降誕日から降誕節に入り、16日が公現日(博士が御子にまみえた日)となります。

一年最後の礼拝で、マタイ福音書の降誕やイザヤ書が朗読されます。

アドベントは世の中の風を受けて、教会も降誕への道を自然に進むことができます。

降誕節からの礼拝は、逆に世の潮が引くなかで、静かに博士たちの物語を聞いてまいります。

世の流れを気にすることなく、ただ聖書に従って世の光なる主を讃え、新しい年を迎えましょう。

 

 博士たちは、新共同訳では占星術の学者たちです。

 口語訳、また新しい共同訳では博士たちに戻っております。

星に導かれ、東の国からやってきて、御子を拝み、黄金、乳香、没薬を捧げます。

 

 本日は、この博士たちと王について考えてみます。

彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探してきました。

ヘロデ王にも会っております(7節)。

王は自分の地位を脅かす者でないかと不安を感じます。

そこで、博士たちに自分も拝みにいくという嘘を言い、密かに力で消し去ろうと目論みます。

  

 博士たちは御子を拝んだ後、ヘロデ王に知らせず「別な道を通って帰ってゆきます」(12節)。

御使いのお告げとありますが、ヘロデ王に危険を感じたのでしょう。

この別な道を通って帰ったことが、御子を守ることに繋がっていきます。

さらに御使いはヨセフに、マリアと幼子を連れてエジプトへ行くようにと告げます。

ヘロデ王の剣から、盾のように幼子を守っております。

  

エジプトの地では、かつて幼子モーセも、王の殺戮の手から隠され守られました。

この降誕の出来事は、イザヤ書にも示されています。

レバノンの大木が倒されます(10章最後)

しかし、絶望の切り株から、生命の息吹ともいえる若枝が萌えいでます。

正義と真実を身に帯びた平和の君が現れ、この世界を照らしてくれる。

そう預言は伝えています。

  

神の約束として、民は待ち続けました。

 幾年もの長い年と星が巡り、その若枝、正義と平和の君たる王が、ついにこの世界に来られた。

そのことを博士たちは喜びに満ちて知らせてくれています。

  

博士たちが、この幼子こそ十字架でその命を捧げられる王だと分かっていたのか。

 それは分かりません。

 ただ申命記17章に勧めています王の姿。

 同胞を見下すことなく、高ぶることない誠の王の姿をこの幼子が教えてくれています。

 神の御子は、病める者、傷ついた者を癒し、人に仕えることを教えます。

希望と慰め、神の愛によって、人に新たな命を吹き入れてくださいました。

その主イエスにより与えられた平和の芽。

それを私たちもまた罪の赦しと神の御恵みを祈りつつ、育て実らせてゆくことができますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年12月24日 待降節第4主日(降誕前第1主日)

 

説教「飼い葉桶の御子」

聖書 イザヤ書 7:10~14 ルカによる福音書 2:1~20

  

 明日25日に降誕日を迎えます。

本日が教会のクリスマス礼拝となり、救い主のご降誕の讃美が捧げられます。

夜にイブの讃美礼拝を守られる教会も多くあるかと思います。

今夕はコロナ禍も続いておりまので、関西学院教会では収録配信での讃美礼拝を行います。

ただ礼拝後には、4年ぶりに軽食を伴う祝会をもつことができます。

また礼拝のなかで洗礼、聖餐も守られます。

ようやく久しく待ちにしの思いではありませんが、喜びをもって礼拝に臨んでおります。

多くの教会でクリスマスの恵みと喜びを共にしつつ、地にある平和が祈られていると思います。

 

 ルカ福音書、マタイ福音書にはそれぞれ降誕の物語があります。

この降誕の物語には、それまでの長い旧約の時代の歴史が根底にあります。

ダビデの町ベツレヘムも、東の国の博士たちの捧げ物も。

ヨセフのお告げで、御子がインマヌエルと呼ばれることも、マリアへのお告げも。

それまでの預言書の言葉や歴史と物語が組み合わされています。

 

 ルカの羊飼いたちへの天使のお告げ、天使のみ歌、飼い葉桶の御子は牧歌的です。

神の愛と光が、あの貧しい飼い葉桶で布にくるまっている乳飲み子の上に輝きます。

ここに、私たちに示された救いのしるしがあると告げられています。

この救い主こそは、十字架で、わたしたちの罪を背負い、贖いの死をとげられた神の御子です。

神がこの主イエスの復活をもって、死を打ち破り、人が互いに助け合い、愛し合って生きる新しい命を与えられました。

神がその御子を、この私たちのために捧げられた。

その恵みがクリスマスであります。

 

 羊飼いたちは、「さあベツレヘムに行こう」と、御子を拝みに行き、喜びに包まれました。

救い主がこの世に与えられたこと。

その御子を礼拝できる喜びは、教会にとって毎主日に、主のよみがえりを祝う礼拝の中にもあります。

神が私たちと共にいまし、私たちの罪を赦し、招き、そして聖霊をもって遣わされてゆく。

それは礼拝の中で今も体験され、私たちもまた羊飼いたちのように、神のみ救いを讃美し、証ししてゆく群れであります。

 

 ベツレヘムで、夜、羊の番をして御使いのお告げを聞く羊飼いたち。

それは、現代の暗き人の世にあって、小さき友と歩む、主の御手にある民の姿のようです。

聖霊が告げるその神のみ言葉に光に照らされ、今日、救いが訪れた。

主の十字架の御救いの喜びをし知らされた民でもあります。

 

 クリスマスに神の愛により、私たちの目が開かれますように。

この世界に働いておられる神の愛の業を見ることができますように。

耳が開かれ、神の御子の恵みのみ言葉に心満たされますように、

そして、主が私たちと共にあることを多くの人と祝いたいと思います。 

 

 今年は大晦日31日が歳末礼拝です。

同時に降誕節第1主日であり「東方の学者たち」が礼拝主題です。  

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年12月17日 待降節第3主日(降誕前第2主日) 

 

説教「荒野の声」

聖書 マラキ書 3:1924 ヨハネ福音書 1:1928

  

  降誕祭礼拝を次主日に迎えます。

本日の礼拝主題は「先駆者」ヨハネです。

主の道を整え、備えるその声としても、このヨハネは重要であります。

巷のクリスマスと教会のクリスマスの違いを考えてみましょう。

木々に明かりが灯され、素敵な飾りがあちこちにみられます。

クリスマスの調べに合わせて、どこか聖なる夜に心いざなわれるのは同じです。

違いは目立たないのですが、教会は25日から降誕節に入り始まってゆきます。

もう一つはこの先駆者のヨハネです。

福音書全てに主イエスに先立ち、その道を整える預言者のような姿で現れます。

 

先主日は旧約の神の言という主題でした。

まさにこのヨハネは旧約の預言者エリヤのようないでたちです。

そして荒野で叫ぶ声は、主イエスの前に先駆けとしてあります。

 

 主イエスという光が世を照らしてくださる夜明けを告げる見張り人の声のようであります。

洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていました。

ヨハネは悔い改めとも係わっております。

アドベントの初めから、悔い改めの時であることを申し上げてきました。

悔い改めの根幹は、神に立ち帰ることであります。

神の愛に、もう一度、私たちの目が覚まされ、その愛を共に生きることでもあります。

 

 飼い葉桶の御子は、私たちの罪を贖うために人の子として十字架に進みゆかれた神の子です。

この神の愛のもと、私たちの傲慢で頑な思いも砕かれていきます。

天使が羊飼いたちに喜びを告げたように、神の愛を多くの人と共に喜ぶ恵みに預かりたいと思います。

 

クリスマスを迎える今は、1年で夜が最も長い時です。

御子の降誕をお迎えして、少しずつ光が闇よりも多くなってきます。

信仰の旅路も、時には長い夜の道と感じられる日々が続くこともあるかもしれません。

ヨハネは、荒野で叫ぶ力強い声でもあります。

時には静かに私たちの心の内にささやきかけてくれる声であるかもしれません。

 

 

 この世界が、神の愛によって在ることを知り、神の愛に立ち帰ってゆきたいと願います。

十字架で全ての人の救いを成し遂げられた御子は、貧しい馬小屋にお産まれになりました。

その愛の主のために、私たちも用いられてゆきますように。

主の愛と平和が、多くの人々の心に光と希望となりますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年12月10日 待降節第2主日(降誕前第3主日)

 

説教「真実の言」

 

聖書  列王記上 22:17 ヨハネ福音書 5:3647

 

 アドベントの第2の礼拝主題は「旧約における神の言」です。

降誕前に入ってから、旧約の神の救済の歴史を辿ってきました。

救い主を迎えるために、それ以前の神の救いの歴史、特に預言者の言葉が重要な柱となるからです。

本日の預言者と次主日の主題である「先駆者」。

それは荒野で叫ぶ声、ヨハネであります。

そのつながりも感じつつ、アドベントの日々を過ごせればと願っております。

それが、私たちに信仰者にとって神の御子を迎えるクリスマスとなってゆきます。

 

 列王記の22章の物語はユニークな個所です。

北イスラエルの王アハブが南ユダの王ヨシャハトを誘い、外敵アラムに対抗しようとします。

どこか純真なヨシャハト王に比べ、アハブ王にはずる賢さがあります。

ヨシャハトは申し出を受けますが、まず神の託宣を求めます。

集められた北王国の預言者たちは、声をそろえて勝利を告げます。

ヨシャハトは、怪しさを感じたのでしょう。

他に預言者はいないかと尋ねます。

そこで、王の批判ばかりをしているミカヤが連れてこられて預言をします。

それは予想に反して、王の勝利でした。

しかし、アハブ王が、ミカヤが真剣に預言をしていないと見抜きます。

正直に言うようにと命じると、ミカヤは敗北を告げるのです。

うわべの言葉と、真実の言葉。

それが隠されたり現わされたりしています。

 

 聖書の信仰は、もともと神の像を造らせず、言葉によっています。

天地創造もそうです。

預言者の言葉に、民は神の御心を求め、自分たちの歩む道を照らす灯としてきました。

ただ、新約の時代になると、その言葉は、膨らんだ律法の中に押し込められるようになりました。

 

 ヨハネ福音書では、主イエスは旧約の言の受肉といわれます。

その命の言が、世の人を照らす光と告げております。

今日の個所は、主イエスが聖書は、ご自身を証しするものであると言われます。

神の言は、主イエスによって、私たちとともにおられます。

主イエスの十字架によって、はっきりと神が愛であることを示されています。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」

主は言われました。

この主イエスに、大河のような旧約の神の言が一点に集められています。

そして新たに命の泉の源泉のように湧き上がってくるように、私には感じられます。

 

 旧約最後の預言書に、預言者エリヤが遣わされ「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」とあります。

アドベントの礼拝で、旧約の言が、私たちに主イエスを救い主と示しています。

主イエスが、旧約の神のみ救いを、私たちにまた教えてくれています。

 

 星に導かれた博士のように、私たちも御言葉に導かれつつ、ベツレヘムの御子のもとへと歩みを進めてゆきたいと思います。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年12月3日 降誕前第4主日

 

説教「神の救いを仰ぐ」

聖書 イザヤ書 52:110 ヨハネ福音書 7:2531 ロマ書11:1324

 

 本日からアドベントに入ります。

聖書日課では「目を覚ましていなさい」の個所がよく読まれますが、今年はヨハネ福音書です。

ヨハネ福音書の冒頭に、主イエスがまことの光、命の言であり世に来たとあります。

そして、世はその言を認めなかったともあります。

 

 本日の個所にも、光を認めない者の姿があります。

しかし主イエスをメシアと感じている者の姿もあります。

「メシアが現れても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」

この思いは、まさに、主イエスに来るべき救い主を感じている告白となっています。

 

 イザヤ書52章は、バビロン捕囚の地において語った第2イザヤの預言とみなされています。

「いかに美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と、帰還と解放の預言を告げます。

民は、遠くに感じていた神を近く知り、その救いの御腕を感じます。

そして「地の果てまで、すべての人が神の救いを仰ぐ」と言われております。

 

 ルカ福音書では、御使いが羊飼いたちに民全体に与えられる救いを告げます。

そこには、自分たちだけの救いはなく、どの民も神の御救いのなかに招かれております。

人を分け隔てせずに、世界の全ての者が招かれている。

このアドベントの礼拝で、み言葉により示されてくる思いがします。

ヨハネ福音書においても、素朴な民衆の心が、主イエスをメシアととらえています。

そこにこの世を照らすまことの光が差し込こんでくる思いがします。

 

 ロマ書はパウロの教えです。

彼は主イエスの福音を、ユダヤ人ではなく、むしろ異邦人に伝えた使徒です。

彼は異邦人にこう言います。

ユダヤ人が躓いた為に、かえって異邦人に救いがもたらされることになったと。

それを野生のオリーブの木が接ぎ木されたようなものと譬えます。

そして、折り取られた枝、即ちユダヤ人に対して、傲慢にならないようにと諭します。

ただ神の慈しみによるものであり、決して思い上がることのないように。

そう語ります。

 

 アドベントの礼拝でのみ言葉を併せて聞いてゆく。

神が全ての人の救いを成し遂げる為に捧げられた御子をお迎えする準備をする。

そこには、私たちが救いに与るに相応しいとの傲慢さがあってはなりません。

他者を信仰によって裁くことのない心が求められてきます。

ただ罪人の私を御赦しください

この祈りに立つ時に、暗闇の世にあっても、主イエスの光が差し込んでくると思えます。

春の主の復活の前に、レントという大切な悔い改めの期間があります。

 

 アドベントを、謙虚に神の静かな招きの御声を聴いてゆく時としたいと思います。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年11月26日 降誕前第5主日

 

説教「正しい若枝」

聖書 エレミヤ書 23:1ヨハネ黙示録 1:46

 

 本日は、日本キリスト教団の教会行事の謝恩日礼拝・収穫感謝礼拝になります。

以前は教会学校の礼拝でも果物などを持ち寄り、自然の実りを神さまに感謝しました。

病院、施設などに届けにいったりもしました。

謝恩日と収穫感謝が同じ日となっています。

神への思いと感謝の思いが結びあい、生涯を主の宣教の御業に捧げられた隠退教師・ご家族に感謝を表す日となっております。

何が一番の感謝になるのでしょう

それは、私たちが教会生活を守ること。主を讃美して歩むことが相応しいように思えます。

 

 アドベントを前にした主日であり、「創造」に始まった主題は「王の職務」です。

ダビデによって王国が建てられ、その子ソロモンの時代に繁栄をします。

同時に既に影も差し込みます。

王国は南北に分裂、やがてバビロンの捕囚、そして神殿再建を経て新約の時代へ向かいます。

周囲の大国の暴風にさらされながらの厳しい時代です。

預言者たちは、この時代に次々、民に神に立ち帰るように勧めます。

そんな民にとって新しい希望は、「ダビデの末」や「エッサイの根」です。

「正しい若枝」といわれる神の教えのもと民を公平に治める王の姿が求めます。

また平和な王として、イザヤ書の「狼が小羊と共に宿す」ように、力によって弱い者を守る。

食い滅ぼすことのない世界が求められています。

 

 今日の聖書箇所は、このような歴史を辿りながら、神の御子を迎える備えとして、私たちの前にあります。

主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問われます。

王国の滅び、その暗い時代から、どのような救い主を待ち望むのかを問われています。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年11月19日 降誕前第6主日

 

説教「水の中から」

聖書 出エジプト記 2:110 ヘブライ人への手紙 3:16

 

  アブラハムを信仰の父と呼ぶなら、モーセは約束の地への解放者といえるかもしれません。

あらゆる救いの原点がモーセに集中しております。

聖書では、出エジプト記から申命記までの歴史に及んでおります。

ナイル河畔でファラオの娘が見つけ、水の中から引き上げたのでモーセと名付けられます。

水の中から引き上げられた。

それは海の奇跡とよばれる出エジプトの出来事と重なっているようにとれます。

 

 この出エジプトの奇跡が、イスラエルの民にどれだけ重要なことは聖書が示しております。

神の御手により贖い出されたという信仰の告白、救いの原点になっています。

またその海の中の道は、その後も約束の地への道と続きます。

時代が過ぎゆくなかで、祖国が滅ぼされ、バビロンの捕囚の民となります。

シオンへの帰還が許された時、山は身を引くし谷は身を起こせ、荒野に広い道を通せと預言者は告げます。

救い主が世に来られる時も、洗礼者ヨハネが、主の道を備えよと人々に告げています。

皆、このモーセの出エジプトからの道でもあります。

救い主イエスは十字架への道を進み、全ての人を罪から贖い出される御救いの御業を成し遂げられます。

その主の示してくださった道を、私たちは信仰の道として、聖書の御言葉を杖として歩み続けております。

 

 アブラハムと同様にモーセを語るのは、あまりにも膨大なスケールで限界も感じます。

律法の始まりであります十戒もモーセに賦与されております。

荒野の天幕の礼拝もモーセと兄弟の祭司アロンによって始まっております。

また雲の柱、火の柱によって導かれた荒野の旅で、民を裁判官のように裁きもしています。

モーセはあらゆることに係っているのです。

しかし、不思議なことに後継者はモーセの子ではなく、モーセに従ってきたヨシュアです。

このことを意味深く感じます。

約束の地に入れずにピスガの頂でその地を眺めつつその生涯を終える。

信仰的な意味をそこに含まれているように感じます。

 

 先主日、族長アブラハムのカルデヤ(バビロン)からの旅立ちと神の祝福を学びました。

このモーセのエジプトからの旅立ちも神の祝福と約束の道を示しているといえます。

エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシアのマケドニア、ローマ。

民たちの歴史は、近隣大国の支配に揺さぶられる小さな神の民の旅の歴史であるといえます。

エジプトからの救いの道は、自分たちを縛り、閉じ込めるこの世の力からの解放でもあります。

それは自由な、人として生きる光への道であり、神の息吹による新しい命の始まりに思えてきます。

キリスト者として生かされる自由。

そこには、神を神として崇め、互いに愛し助けてゆく道を備えられているように思えます。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年11月12日 降誕前第7主日

 

説教「旅立ち」

聖書 創世記 12:19  ローマの信徒への手紙 4:1325

 

 創世記12章から族長アブラハム(初めはアブラム)の物語が始まります。

名前にアバ(父)が含まれており、新約聖書でもユダヤ民族の父祖、信仰の父のように見られています。

ロマ書では、信じて義とされる信仰の模範とされています。

ヤコブ書では、行いによって義とされる模範としても挙げられています。

アブラハムの豊富な物語は、私たちの信仰の旅路の先導者であり同伴者のようです。

 

 その理由の一つは神の祝福の約束を信じ、旅立ちに始まっているからと思えます。

苦難と試練で苦悩する姿も、私たちに近く感じられてきます。

心塞がっている時も、「天を仰いで」の御声に聴き従い、神もそれを彼の義と認める箇所もあります。

愛する息子イサクをモリヤの山で捧げよとの召しに、絶望の思いで進みゆく姿もあります。

最初の祝福の約束とは全く相いれない悲愴な現実の中に落とされております。

しかし、その最後の瞬間に「神の山に備えあり」との言葉が伝えられます。

神の御手によって守られている。

そのことをアブラハムの生涯は示しております。

 

アブラハムに続く族長イサク、ヤコブ、ヨセフの物語も、同様に波乱の旅路が続きます。

神の導きの中で、人が労苦し、運命に翻弄されるような道が描かれております。

しかし、その只中にも、神が大きな御手の守りがあることも語られています。

その深い意味は、重荷を負いつつ歩む人生の中で、神からの恵みとして感じられるのかもしれません。

 

 そう捉えると、祝福の約束とは即効性のある、甘く熟して皿の上に用意された果実のようではありません。

神の指し示す道を自らが進む道と受け止め、その道を唯ひたすら進みゆくことかもしれません。

進むことも叶わず、荒波のしぶきをかぶり、そこに立ち続けてゆくことなのかもしれません。

けれども、神の御子は御自身の為ではなく、この世の罪びとの為に命を捧げてくださいました。

全ての人の救いを成し遂げられたその光を仰ぎ、信仰をもって辿る道が、神の恵みの道に思えます。

 

 もとより道を踏み外しやすく、この世に彷徨う私たちです。

正確な羅針盤も不動の錨もありません。

あるのは招いてくださる神の御声だけです。

その御声に聞き従うことに、祝福の恵みにあるといえます。

信仰の父、アブラハム。

その御声に聴き従った歩みは、神の祝福に包まれていた。

そう聖書は語っております。  

 

 創世記の族長の物語は、周辺の部族との関係と歴史を物語の中に秘めています。

学ぶほど新たな発見があり、様々な繋がりが見いだされてきます。

 

 夏からの幼稚園の北園園舎の耐震補強工事も、ようやく完了の日が近づいてきました。

この年末に、さまざまな職員室机、事務機器等の異動を予定しております。   

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年11月5日 降誕前第8主日(聖徒記念礼拝)

 

説教「人の罪」

聖書 創世記 3:16 ローマの信徒への手紙 7:725

 

 11月の第1主日は日本キリスト教団の行事で聖徒記念礼拝(永眠者記念礼拝)です。

午後に猪名川で墓前礼拝も守られます。

この日を覚えてご出席の方もあれば、所縁の教会に出席されている方もおられます。

親族だけに留まらず、多くの信仰の諸先輩が天におられます。

今日の讃美歌でも歌いますが、その信仰受け継ぎ、礼拝を捧げてゆきたいと思います。

 

 また先主日から降誕前の教会暦に入っております。

造り主なる神の創造と共に、御子主イエスの十字架と復活の御救い。

それによって新しい命に招かれていることも聖書から聞いてまいりました。

本日は、続いて堕罪、人の罪についての聖書の箇所が与えられています。

 

 創世記3章にはアダムと妻エバが禁断の実を、蛇の誘惑により食べた箇所があります。

ここが突出して原罪というふうにも理解されていたりもします。

しかし、神の創造から始まる原初史の人は、ことごとく罪の物語となっています。

カインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔の物語もみな人の罪を語っています。

 

 罪とは何か。

刑法上の犯罪、律法の違反もそうですが、原初史では、実に様々な内在的な罪が語れます。

神に食べたのかと問われて「あの女がよこした」と責任を転嫁する自己保身の罪。

またカインの兄弟への嫉妬から憎しみ、怒りを抑えることができない姿。

バベルの塔の物語には、神の如くなろうという思い上がりがあります。

主イエスの傍にいる弟子たちもそうなのですが、弱さと欠けがみられます。

パウロも人はみな罪びと、正しい人はいないとそう見ています。

創造に続く人の姿は、そのような罪の中にあることがわかります。

 

 けれども、神はそのように人を造られました。

その人の罪に、神の救いの歴史はまた始まっているといえます。

この私たちの罪により、神の憐みと愛、神の御救いに預かれます。

決して、私たちの正しさによるものではありません。

 

 神の「光あれ」の御言葉は、私たちの罪をもって、神の赦しの御救いのなかに招かれます。

新しい命と光を受け、互いに赦し合い、愛し合う人へと聖霊によって遣わされてゆきます。

この福音の喜びは、それはただ神の憐みと恵みによるといえます。

 

 少し飛躍があると思いますが、福音書に、宣教の派遣にあたり何も持っていってはならないとあります。

牧師として、自分の内に何度も問われているような御言葉です。

主の福音宣教が、人の力や正しさではないことを示しています。

ただ神の御恵みによる力、主イエスの罪の赦しによる福音の宣教だと理解しております。

 

この喜びを、私たちはこれまでの天上の聖徒たちから受け継いできました。

 願わくば、次の世代へと伝えてゆきたいと思います。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年10月29日 降誕前第9主日(宗教改革記念日礼拝)

 

説教「御子は教会のかしら」

聖書 創世記 1:1~5 ヨハネ福音書1:1~14 コロサイ書 1:15~20

 

 10月31日は宗教改革金日であります。

讃美歌「栄光は主にあれ」を選んでおります。

また本日より、教会暦が降誕前に入ります。

救い主の降誕に向けて神の救いの歴史を、アドベントまで5つの主日で辿ってまいります。

それは本日の礼拝主題「創造」から始まります。

創世記、使徒書、福音書すべてが1章の聖書箇所になっている珍しい日となりました。

それも節目の初めとして感じられております。

 

 造り主なる神の天地創造からきいてまいります。

それは救い主がまことの光であり、命として世に来られたことに繋がります。

そして今もよみがえりの主が教会のかしらであります。

私たちの祈りの中に、讃美の中に、主が共におられます。

 

 創世記の冒頭「初めに、神は天地を創造された」とあります。

「光あれ」の御言葉は混沌とした世界、そして私たちに神の光と命の息吹を告げています。

暗い夜が明け、朝の光を感じます。

この世界だけでなく、御救いの業である御子の十字架という罪の赦しも、神の創造です。

私たちの罪を贖い、復活の朝の光と共に、新しい命に預からせてくれます。

それがヨハネ福音書の冒頭に込められている主イエスの命の言であります。

 

 聖書は、この神の御救いの光を使徒書に於いても勧めます。

私たちが闇の子ではなく、光の子として歩むことを教えます。

そして御子は教会のかしらであると。

教会とは、私たちが神によって集められたこの礼拝であり、主への讃美であります。

主の教会は地の塩、世の光として建てられています。

礼拝を通して、神がこの罪のなかに呻く弱い私たちに、今も「光あれ」と告げているのです。

 

 私たちの自己中心な目は、移ろいゆく儚いこの世の輝きに光を見てしまいます。

憧れと欲において、輝ける光を望んでしまいます。

そのような羊の群れであります。

聖書の羊の譬と違い、1匹ではなく99匹を選びたくなる。

100匹の羊が、そのような世の光のもとにおかれているかもしれません。

止むを得ないというか、それがこの世の人の姿であります。

 

 しかし、本当に小さな一粒の信仰でも、光が、十字架の主イエスの姿を示してくれます。

神の御子が人に捨てられて苦しみを受け、その命までも捧げられる。

主の十字架が、この世界で「光あれ」という神の御心であります。

私たちの救いも、この主イエスによってのみ与えられる恵みであります。

だからこそ、世界を闇が覆うとも神の愛、命の御言葉が「光あれ」と呼びかけてくれています。

その招きの御声に従い、この降誕前の日々を進んでゆきましょう。  

 

本日は、礼拝後に婦人会の献品セールが行われます。

 

小さくとも、4年振りの会となります。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日

 

説教「数に頼らず」

聖書 士師記 7:1~8 ルカ福音書 19:11~27

 

 主イエスの降誕から十字架、復活そして聖霊降臨に入ります。

使徒と教会の働きを1年のサイクルで辿りつつ、毎礼拝の聖書が与えられてきました。

本日が聖霊降臨節の最後の主日となります。

礼拝主題は「天国に市民権を持つ者」となります。

フィリピ書の「わたしたちの国籍は天にある」とあります。

神の御国を仰ぎつつ、すごろくで言えば「あがり」のような感じもなります。

主にあって歩んできた教会の1年の締めのような主日であります。

 

 士師記のギデオンの物語と主題がどう係わっているのかと疑問をもたれるかもしれません。

ギデオンは、集まった兵士たちを振り分けて、少数を残します。

勝利を導くための精鋭部隊を選別したかのように思えます。

礼拝の主題に即してみると、勝利を与えられたのは神ですので、精鋭よりも力無き者たちでよかったかもしれません。

敵に勝利をしたのは、奇襲攻撃でも、精鋭部隊の働きでも、ギデオンの力でもありません。

ただ神によって賜る勝利であることが記されているように思えます。

 

 続いて、ルカの譬もみてゆきます。

これまた礼拝主題とも無縁のようです。

主人から預かったムナを増やした者が、さらに豊かに与えられます。

増やさなかった者は取り上げられています。

儲け至上主義のような結果に、戸惑いを覚えるかもしれません。

この譬を理解するには、固定観念のような枠を外さなければなりません。

その前にあるザアカイの物語と繋げて考えると、多少分かり易くなります。

彼は喜びに溢れて、これまで蓄え貯め込んできたお金を貧しい人に4倍にして返します。

自分の内に取り込む事に専念するのでなく、人に分け与えて、共に預かってゆく。

 

 全てが神から与えられた、神の恵みである。

その思いが根底になければ、それを現実に為すことは難しく思えます。

それが神に喜ばれることと教えている譬といえます。

ギデオンの勝利も同じであります。

 

 わたしたちの国籍は天にある。

ただ神の恵みによって、与えられた人生と豊かさを隣人と共に受ける。

神の御許に迎えいれられる時、神の御恵みを讃美してゆけるものでありたい。

それが今日の聖書になっております。

 

 豊かな時も、乏しい時も、神の恵みは等しく注がれていたように思えます。

自分の力で成し遂げられたことは、ただ人の欠けと弱さを露呈しただけかもしれません。

朽ちない栄光の実は、主イエスの示された愛が働いていた時と思えます。

1年の教会暦のサイクルは、新たに進みゆきます。

次主日は降誕前に入ります。

ザアカイに主イエスから「あなたの家に泊まりたい」と言われました。

彼があがない主をお迎えするその喜びに溢れる姿。

 

そして、主の備えられた天のすまいで、讃美を捧げている姿が浮かんでまいります。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日(神学校日礼拝)

 

説教「神の国はいつくるのか」

聖書 創世記 6:5~8 ルカ福音書 17:20~37

招詞 詩編 51:12~14

交読詩編 9:1~13

讃美歌:12、24、342 聖歌隊 509、28

 

神学生 日下部 光喜


2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日

 

説教「神を畏れよ」

聖書 レビ記 25:39~46 ルカ福音書 17:1~10

 

 教会暦の日課で礼拝に与えられている聖書箇所が、明瞭に結びつく日もあります。

そして、ジクソーパズルのようにどのように組み合わされるのか熟慮を要する日もあります。

本日は後者のようです。

礼拝の主題は「弱者をいたわる」です。

旧約のレビ記が分かり易く、福音書の「赦し、信仰、奉仕」と小見出しのある箇所が、やや理解の壁になっております。

「赦し、信仰、奉仕」の3つは別々と感じられます。

しかし、繋がりを考えて聞くと、新たな意味が与えられることもあります。

 

 レビ記から聞いてゆきます。

紀元前の古代社会ですので、奴隷についても制度自体を問題視はしておりません。

けれども、同胞が経済的に貧しくなり、生計を維持できなくなった時、奴隷として扱ってならないと記されています。

そして、彼らを過酷に扱ってはならないことを繰り返しています。

その理由として、他の箇所では、あなたがたもエジプトの地で寄留者であったことから、寄留者を助けよと命じております。

しかし、ここでは次の理由です。

 

 神を畏れよと。

神がエジプトから導き出したのであり、皆が神の奴隷であり、誰もあなた個人の奴隷ではないと。

奴隷としてはならないのは、神の民であるとの聖書の教えであり、私たちが共に生きるための教えです。

 

 主イエスも、失われたその一人を、「この人もアブラハムの子なのだから」と言われています。

あなたがたと同じ、アブラハムの子である。

救いの御言葉であります。

 

 この人も同じ神の子だという神の憐みを、今日の福音書に感じます。

「これらの小さい者の一人をつまずかせる」ことの罪の大きさを告げます。

つまずかせるのは、人の裁きかもしれません。

兄弟を勝手に裁かずに赦すことへの勧めであります。

その人も間違いなく神の民であり、アブラハムの子であるからです。

 

 そしてその一人の人を大切にすることは、なによりレビ記の「神を畏れる」ことであります。

信じること、信じて生きることの信仰です。

その隣人への小さな思いが、からし種一粒に見えても、地面に根を降ろす桑の木も海に移すほどのものだといえます。

ともすれば冷たくもなる人の世を、神の愛の国に変える。

それは、私たちが、小さな隣人一人を、神の子と思う信仰であることを教えられているように思います。

 

 そして最後の僕の話では、奴隷が仕事をして当たり前のような厳しい主人の言葉ととれるかもしれません。

ここでも、レビ記の「神を畏れよ」を中心に聞いてゆきます。

恐ろしい主人の前に、黙々と働けといっているのではありません。

畏れの漢字も恐怖ではなく、神を神として信じるということです。

同胞を奴隷としてはならない、皆私の民なのだ。

そのような憐み深い主人の前で、私たちは生かされている。

「とるに足りない僕です」は、それに対する神への応答の言葉です。

 

このただ一つの心が無くては、人は、人に対して偉そうになり、裁き、赦さず、傲慢になります。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日(世界宣教の日・世界聖餐日礼拝)

 

説教「金持ちとラザロ」

聖書 アモス書 6:1~7 ルカ福音書 16:19~31

  

  10月の第1日曜日は、世界聖餐日、世界宣教の日礼拝として守られます。

毎年、申し上げておりますが、今日の福音宣教は「地の果てまでも」を掲げています。

それは、共に課題を担い合い、仕えあうことを内実としています。

そして、聖餐という共に一つのキリストの体に与ることと一体となっております。

それが、宣教と教会の礼拝の根幹でもあります。

私たちの教会も聖餐という大切な礼拝の支柱が少しずつ回復して、今日の礼拝が守れる幸いを覚えます。

 

 ルカ福音書は、先主日の不正な管理人の譬に始まります。

そして、神の御救いの業、永遠の住まいに迎えられているラザロの箇所を聞いてまいります。

驕り高ぶる者は低くされ、低き者が高められるという勧めにも感じられます。

しかし、不正な管理人の譬とその間のファリサイ派のことと併せて読みますと、見え方が違ってきます。

そこには、お金と権威に執着するファイリサイ派の傲慢さへの警告があるように思えます。

そして、神から与えられた財を、貧しい人に為に回してゆくことも含めて、教えているように思えるのです。

 

譬えに出てくる金持ちは、アブラハムに色々と願います。

その言い方にも、ラザロを自分の使用人か道具のように、見下している感もあります。

多くの富を持った者の感覚なのでしょうか。

恐らく、本人の自覚も無い処でしょう。

人々から偉く見られると、つい偉く思え、振舞ってしまうのが、人間なのかもしれません。

しかし、神さまは人を同じように見られるならば、やはりこれもおかしなことです。

 

金持ちはこの黄泉でさいなまれ、家族のことを思い、なんとか伝えたいと思います。

けれども、アブラハムから拒絶されます。

預言者が既にそれを語っているのに、それを聞いていなかったのが理由です。

金持ちをファリサイ派の人々と同定してみましょう。

彼らは神の教えを人々に語りながらも、実は自分たちの権威の維持を優先していた。

そして、自分勝手な解釈をして、預言者の御言葉を悟ってはいなかったとなります。

それがこの物語です。

「神と富とに仕えることはできない」

ここにいたって、この言葉はファリサイ派の人々を指し示しているように響いてきます。

 

私たちは、これをどう聞いてゆけば良いのでしょうか。

神は、この世の富を持っている人が、同じ人を踏みつけ傷つけることをしてはならないと教えます。

そして、その傷ついた人を神は助け出します。

アブラハムの姿が、傷ついた羊を守るよう羊飼いのように感じられます。

神は貧しい者、罪びとと呼ばれている人を招くために御子をこの世界に送られました。

主の十字架によって、最も小さき者も御救いに預からせてくださいます。

この福音こそ、私たち全ての人の救いと光になっております。 

 

 10月は世界宣教日に続き、神学校日礼拝が続きます。

教会では第3週目に日下部光喜神学生が説教をしてくれます。

神学校の働きもどうぞ覚えて、お祈り支え下さい。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日

 

説教「永遠の住まいに」

聖書 ルカ福音書 16:113 テモテへの手紙Ⅰ 6:112

 

 ルカ福音書16章の譬は「不正な管理人の譬」と呼ばれます。

その内容は容易に受け入れ難いかもしれません。

またその一方で、ここには、割よく知られた聖書の言葉も幾つかみられます。

例えば「神と富とに仕えることはできない」や「小さなことに忠実な者は、大きな事にも忠実である」です。

 

 この譬は、主人のお金を預かっている管理人が、不正を主人に知られそうになります。

そこで、主人の負債を抱えている者に、勝手に負債を減らして恩を売ります。

それに対して、主人は叱るどころか、賢いと誉めるのです。

確かに自分が使い込んだ横領ではないかもしれませんが、主人に損害を与えています。

今日の背任の罪に当たると見なされます。

 

 なぜ彼が賢く振舞っていると誉められるのか。やや信仰的に疑問が残る譬であります。

さて、皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 

 見方によればおかしいと思える譬です。

私にとって考える鍵は、今日の説教題にもしましたが「永遠の住まい」です。

内容は何も永遠の住まいに触れてはいません。

むしろ、次主日の聖書になりますが、金持ちとラザロの物語とセットだと思っています。

その間の箇所に、律法学者たちを「金に執着する」と言っているのも、この譬と係っているといえます。

 

 お金と罪については、わたしたちは、資本主義経済社会の枠の中で生きております。

個人所有資産は確たるもので、詐欺や横領、盗み、ごまかしは不正であり罪となります。

ただ、この福音書の譬で問うているのは、貧しい人の救いと思われます。

それが後の物乞いをしていたラザロがアブラハムの懐に抱かれ、金持ちは黄泉で苛まれる結果と繋がります。

金持ちが悪い行為を行ったとは書かれてはありませんが、ラザロとの対極、対比に置かれています。

そして、金に執着して嘲笑っているファリサイ派の姿が、ここに見え隠れしているように思えます。

 

この管理人は、主人のお金をごまかした悪い者か。

或いは、主人のお金を借りている人を助けたのか。

誰がそれを判別するのか。

お金に執着する主人に雇われた裁判官なら、管理人の罪は重くなります。

しかし、貧しい者から委託を受けた裁判官なら、天に宝を積むという情状酌量がなされ、彼の罪は軽いように思えます。

これがこの福音書の譬となっているといえます。

 

 テモテへの手紙は、私たちは何も持たずに産まれ、何も持たずにまた神さまのもとへ帰る。

そう教えます。

人の命は物によらず、幸いも豊かさもこの命によっています。

なにより主イエスからの愛と恵みを満身で感じつつ、生きてゆけたらと思えます。

神さまが迎えてくれる住まいでも、尚感謝して神を讃美してゆけたらと願うのです。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日

 

説教「父の喜び」

聖書  ルカによる福音書 15:11~32 コロサイの信徒への手紙 3:12~17

 

  ルカ福音書15章には、見失った羊の譬、無くした銀貨の譬に続いて、放蕩息子の譬があります。

3の譬に共通するのは、いなくなったということです。

それと、いなくなったものが見いだされる喜びであります。

羊と銀貨、息子と様々に譬えられておりますが、いなくなったものとは、間違いなく人、私たちであります。

集団から、知らずの内に離れてしまう迷子であり、道を踏み外してしまう息子であります。

離れてしまった者に対して、自己責任という言葉で捉えられることもあるかもしれません。

しかし羊は自分では帰る道を見出すことができません。

息子は食べていけなくなって、ぼろぼろの姿で戻ります。

既に父からの財産は使い果たして、返済のかなわないそんな状況であります。

譬の中心にあるのは、そんな子を走りよって迎え、抱きしめる父の姿です。

父なる神の愛の大きさであります。

 

 失われた羊を探し求める羊飼いの姿は、古くエゼキエル書にもあります。

ルカ福音書の放蕩息子の譬では、息子の心情も描きつつ、父がどれだけ心配していたかも記しています。

そして、帰ってきた子のやってしまったことを咎めず、生きていてくれたことを喜び祝います。

神の赦しの愛を人の罪の深さ、またそれよりも深い父の愛を示し、3つの譬えのまとめになっています。

主イエスの十字架における罪の赦しを、神は御救いのなかに成し遂げ、全ての人が愛に生きるようにと教えております。

 

 今の世が、多くの暗い話があり悲惨な出来事があります。

光が見いだせない時であろうとも、この放蕩息子の譬は、神の愛が、私たちのこの世界の根幹にあることを、もう一度、思い返させてくれます。

 

 この譬えには、エピローグのように、兄の言葉があります。

父の元にいて、真面目に仕えてきた兄の目からは、弟は罪を犯した者で、愛情を受けられるような人間はないと見えたと思います。

これは、現代にも通じる世間の批判の目のようでもあります。

正論をもって、人を裁き、救いの門を閉じようとします。

これに対して、父は尚、兄に対してではなく、私たちに語りかけます。

神の憐みと恵みは、強く押し留めることのできないものだと。

死んでいたと思っていた者が、ここに命をもって生きていてくれることを喜ばずにはおれない。

神の愛が働いているのです、

その御子を十字架に捧げてまでも、愛の息吹をもって、全ての人を救い出す。

その神の愛を示してくれています。

どうしてこの神の愛から、再び背いて歩むことができましょうか。

天と地にある喜びに満たされ、感謝して歩んでまいりましょう。 

  

 本日は、敬老祝福の会を持ちます。75歳へとお祝いの年齢が、数年前に引き上げられました。

それでも教会関係者約130名の方々がおられます。

どうぞ、いよいよお健やかであられますように。

教会からささやかなプレゼントが贈られ、教会学校の子どもたちがつくった素敵な作品が披露されます。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日

 

説教「弟子の条件」

聖書  ルカによる福音書 14:25~35 ガラテヤの信徒への手紙 6:11~18

 

 

  共観福音書の中でも特にルカ福音書は、弟子を招く箇所、派遣する箇所が目に留まります。

 

 先ず5章です。

ガリラヤ湖畔で漁師だったペトロ、ヤコブ、ヨハネが招かれます。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。

 

 本日の14章には、「弟子の条件」の小見出しがありますが、9章には「弟子の覚悟」の箇所もあります。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」

従う前に「まず、父を葬りにいかせてください。家族にいとまごいをさせてください」との言葉に対する、主イエスの返答です。

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

そう告げてもおります。

 

 18章では子供のころから律法の教えを守り、永遠の命を求める金持ちの議員に告げます。

「持っている物をすべて売り払い、それからわたしに従いなさい」の言葉もあります。

議員は悲しみの中、断念します。

 

 9章には宣教のために12人を派遣し、10章で72人を同じように遣わす箇所があります。

12人の弟子を派遣する時には「何も持っていってはならない」と命じております。

 

 本日の聖書でも「自分の十字架を背負って」と「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として、わたしの弟子ではありえない」とあります。

 

 このみ教えをどのように聞けばいいのでしょうか。

主イエスに従う道は、このように厳しく、物とお金をすべて捨て去らないと、従うことはできないのでしょうか。

 

 ここで一体、何が求められており、何が問題となっているのか。

これを見誤ると、たとえすべてを捨てても、主イエスの道に尚遠いかもしれません。

パウロがコリントの教会に宛てた手紙には、全財産を貧しい人に使い尽くそうとも、愛がなければとあります。

 

 ルカ福音書12章に「愚かな金持ちの話」があります。

そこでは「命は財産にはよらない」とあります。

これも確かな言葉です。

主イエスに従うこと、その命の道は、持ち物によらないといえます。

それだけ、この世の持ち物は大きな影響力をもって、私たちの目を見えにくくするのかもしれません。

どうすれば見えてくるのか。

執着心を持ちつつ、いくらかを手放しても、恐らくそう変わりはしないでしょう。

 

 ガラテヤ書のパウロの言葉にきいてゆきます。

「すべてを捨てて」は、「主イエスの十字架のほかには、誇るべきものは何もない」

この言葉が、私たちに捨てるということの意味、と主イエスに従う道を示しております。

ただ主の十字架の御救いゆえに今日の私がある。

そう喜びをもって感じられる時、一切は主のもののようであり、主によって新しく創造された人のようであります。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日(振起日礼拝)

 

説教「招かれる者」

聖書  出エジプト記 23:10~13,ロマ書 14:1~12 ルカ福音書 14:1~6

 

 教団の教会行事には入っておりませんが、9月の第1主日を振起日礼拝として守っている教会はあります。

四季の区切りを大切に思う伝統によるのかもしれません。

9月の秋を迎え、気持ちも新たに歩んでゆくこれからの日々です。

 

 本日はルカ福音書14章にあります招待される者の教訓と、箴言25章7節の教えが重なってもいます。

箴言は知恵の書であり、処世訓のようでもあります。

教会暦の礼拝ではあまり読まれないかもしれません。

でも読み易くもあります。

また人々に広く受け入れられていたと思えます。

25章には「あなたを憎む者が飢えていたならパンを与えよ、渇いているなら水を飲ませよ、こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む、そして主があなたに報いられる」とあります。

パウロのロマ書「迫害する者のために祝福を祈りなさい」の勧めにも引用されております。

 

 福音書では、招かれた場合、上席に着かずに末席に着くことを勧めています。

日本の諺にも、さらに謙遜をもって「末席を汚す」という言葉もあります。

どちらかといえば、人の目を気にする国民性です。

目立たない席が好まれているのかもしれません。

また聖書は、奢りと高ぶりを取り上げています。

これらは、席のようにあからさまではなく、心の有り様でもあり、より複雑かもしれません。

このような控えめなことへの教えは、対人関係の振舞い方のように理解しがちです。

しかし、聖書は人の前のことだけではなく、神の前での招きであることを教えています。。

そして人を招くことも、この福音書の後に続いてあります。

主イエスに従ってゆくことと関係しているように思えます。

 

 ルカ福音書の15節からは宴会の譬があります。

この譬の招待は強引で、まるで人を連行してくるかのようでもあります。

それは神さまからの招きは、ただ神の憐みと慈しみよる罪の赦しであります。

その愛の前に、自分の都合や、計画や計算などというものは、一切無関係です。

それらが、神の愛の妨げにはならにことを教えてくれているように思えます。

人の思いが、この神さまの愛の業を変えることはありません。

ただ大きな神の愛によるものであることが、この宴会の根幹にあるといえます。

 

 この神の愛に対して、何をもって従うことができるのか。

ただ「罪びとのわたしを御赦し下さい」という祈りであるように思えます。

主イエスの十字架によって示された神さまの愛の前に、私たちが応える。

それができるとしたら、ただ神の愛に生かされて遣わされてゆく(従ってゆく)ことだけとなります。

 

 この神の愛は、このような罪の私たちも招いて下さっています。

この世界のどのような人をも、その恵みの食卓に招いておられます。

それをこの聖書の箇所が告げています。

「招きなさい」また「幸いがある」。

「この家をいっぱいにしてくれ」という御声が響いてまいります。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年8月27日 聖霊降臨節第14主日

 

説教「隣人のために」

聖書  出エジプト記 23:10~13,ロマ書 14:1~12 ルカ福音書 14:1~6

 

 安息日についての記述が出エジプト記にあり、福音書では安息日の論争があります。

そのまとめの勧めとしてパウロのロマ書の言葉を聞いてゆきたいと思います。

 

 十戒も「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と教えております。

旧約の歴史では、金曜日の日没から安息日が始まります。

神の為に捧げるべき日として、労働をしてはならないとそのように守られてきました。

しばしばイエスさまと律法学者、ファリサイ派の人々は、この安息日について衝突しています。

 

 どうしてこの安息日が厳しい教えとなってしまったか。

モーセの時代以降に国が無くなり、捕囚時代を迎えます。

その過程で信仰を形として守っていく為に、安息日のきまりが厳格化したと考えられています。

エルサレムに帰還がゆるされ、神殿が再建されても、他国の支配や他民族と混在が続きます。

その中で、安息日と割礼によって、自分たちの民族と信仰を保持してゆくことができる。

そのように捉えられてきました。

その結果、安息日の教えがより厳しくなり、特に社会的に小さな者が締め付けられるようにもなりました。

 

主イエスは神の慈しみと憐みの根幹に立ち帰り、安息日のきまりに反しても人を癒しました。

法に縛られることはなく、人の生きる命のなかに神さまからの大切な教えがある。

そのことを弟子たちに教え、パウロもまた、その主イエスの福音を宣べ伝えてゆきました。

 

 本日のロマ書も、安息日の理解の違いに似ております。

教会の中に信仰理解の違いで混乱があることに対してパウロは語ります。

どちらか正しいのではなく、そのことで兄弟を裁くことの誤りを指摘します。

そして自分は「主の為に生き、主の為に死ぬ」と告げます。

この言葉の前に、兄弟を裁く現実は、実は自分の正しさを捨てきれない小さなことに思えます。

理屈では正しくとも、主の愛を活かしてはいません。

主の愛を活かす為には、自分ではなく「隣人」が中心でなければなりません。

そして、これが神さまの求める安息日でもあります。

 

 主の日の礼拝も、主が隣人を愛し、私たちにも互いに愛しあう中で、神を力強く讃美できます。

御名を崇め、誉め歌う時も、隣人と共にあることを忘れてはならないといえます。

それがこの教会というキリストの体であります。

私たちが呼び集めたのではなく、主の愛と憐みによって、呼び集められ、ひとつとされた。

その民が、キリストの体としての教会です。

私たちの罪と弱さの中に、隣人は近くにおり、神の赦しと愛、招きが満ち満ちています。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年8月20日 聖霊降臨節第13主日

 

説教「喜びの叫びをあげよ」 岸元光子牧師

 招詞 ヨハネの手紙Ⅰ 4: 9 

 聖書  詩編 100:1~5

 交読詩編 133

 讃美歌 56、26、7、510、29 


2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日

 

説教「その日は近い」

聖書  エゼキエル書 12:21~28 ルカ福音書 12:35~48

 

夏のお盆の時期に入っております。

この時期、多くの人が帰省したり、旅行に出かけたりします。

大学に近い当教会では、日頃、会堂に集う学生も帰省したり、夏期派遣の奉仕に出向いたりします。

地方の教会では、故郷に戻ってきて礼拝にでられる方もあります。

かつて因島の教会で礼拝に出た時は、墓前礼拝も併せて行われておりました。

 

本日の説教題は「その日は近い」

まるでアドベントのような題になります。

また「目を覚ましていなさい」の聖書の勧めも似ております。

主の日を覚え、備えをすることは、毎主日にとっても、それも相応しいといえます。

 

旧約では、主の日は、エゼキエル書もそうですが、背く民にとっては断罪の宣告でもあります。

他国の支配下にあり、その圧迫する力を取り除き、正しい裁きの到来の日が待ち望まれました。

その救いはまだかという希望が民たちの歴史の中に流れております。

マラキ書には、その日にはエリヤが遣わされるとあります。

続く新約の歴史になり、主イエスは、来たるべきエリヤですかと問われてもいます。

主の十字架と復活の後にも、主の再来はまだかの信仰が手紙の中にもあります。

信仰の歴史には、「いつ」と「まだなのですか」の祈りが、絶えず持ち続けられています。

 

本日の福音書の応えは、帰りの遅い主人(神)の譬です。

奔放に振舞う悪しき僕と、主人がいつ帰られてもよいように備える良き僕が描かれます。

申命記も、祝福と災い、命と死でもって、正しい選択を促しています。

時に備えること、それは主人の帰りを、近くに信じることです。

そして、誠実にその日々の業を成してゆくことを勧めています。

見えない神を信じて待つ。

待つなかに、既に心の中で迎えていることにもなります。

即ち、これが信じて、神と共に歩んでいるといえます。

 

主イエスも、しるしを求めてばかりいる人たちに、そのしるしは与えられないと言います。

また弟子達には、いちじくの木からしるしを教えます。

近づいていること、惑わされないことを教えています。

 

主の日は、終末的な意味をもってはいます。

私たちも惑わされず、大切なことを見極めてゆかねばなりません。

主イエスの十字架と復活の新しい命を受けた今、この世界で命ある全ての者が、神の愛のもと罪赦されて新しい命に生かされてゆくことが根幹となっています。

 

主は「このいと小さき者一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたこと」と仰います。

その愛の中に、主が共におられることを聖書は教えています。

ヨハネ福音書のなかに、目の見えなかった人が見えるようになったとあります。

目の見えるようになった彼は、再び主にあった時に、それが主と気づかず尋ねます。

「その人を信じたいのですが」

主は彼に「あなたはもうその人を見ている」と答えられました。

それが私たちへの御言葉にもなっております。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年8月6日 聖霊降臨節第11主日(平和聖日)

 

説教「わたしは聴く」

聖書 出エジプト記 22:20~26 ロマ書 12:9~21 (ルカ福音書 10:25~42)

 

 8月の第1主日は、教団の教会行事の平和聖日になります。

教会行事の日は幾つかありますが、恐らくこの平和聖日は広く守られていると思います。

聖書は、特に平和聖日で選んだのではありませんが、「隣人」という主題に即した個所です。

ルカ福音書には「よきサマリヤ人の譬」があります。

本日の聖書の箇所が、具体的な平和への歩みを導いてくれるように思っています。

 

 旧約の出エジプト記も、新約聖書のロマ書のパウロの兄弟愛への勧め。

ともに人権の意識や平等の権利など、社会的な制度が整う以前の古代の時代であります。

しかし、今日の福祉にも通じる内容です。

まさに現代でも、そのまま聞くべき御言葉であります。

主イエスが、律法学者、ファリサイ派と厳しく対峙したのも、この小さき隣人への愛を、他の教えよりも重んじたことにあります。

 

 律法学者たちの主張は、神の名を用いても、自分たちの教えと権威が土台となっております。

主イエスは、自分よりも、病人を癒し、貧しい寡婦や孤児を守る道を進んでおられます。

パウロも自分と異なる立場の者への敵意や憎しみから、祝福と祈りへの善を行うように教えています。

 

 これらの教えが、確かに難しくあるかもしれません。

出エジプト記では、理念や言葉だけの上滑りすることのないよう、具体的にも指示しています。

貧しい者の上着を質に取る場合も、日没までには返さなければならないと命じています。

その上着が、彼の唯一の衣服であるからです。

もし戻されなければ、彼は何にくるまって寝ることができようかと言います。

彼の立場と思いに立つことも教えられてきます。

相手の気持ちになって、相手の立場に身を置くことは、想像力が必要です。

それと、彼のことを大切に、自分の家族のように思える優しさが要ります。

これらを併せて、愛といえるのかもしれません。

そのような優しさは、その人がもって生まれた生来のものかどうかは分かりません。

信仰は、それを生涯の教え、自分たちの命に係ることとしています。

神は、その人たちの訴えの声を聞かれる方である。

その神が、この世界を平和のうちに治められていることを、この身に刻むよう教えています。

それが、私たちの歩みを照らす光となっています。

 

 私たちも、いと小さき者の声を聞けているかどうか、分かりません。

けれど、神さまは、その人たちの苦しみの叫びを聞かれるということを知っております。

その神さまの御心に沿うように、隣人となってゆきたいと思います。 

平和聖日によく読まれる「剣を鎌に、槍を鎌に」は、イザヤ書2章(ミカ書4章)の御言葉です。

讃美歌371の2節にも歌われています。

世界の平和も、一人一人の隣人への小さな優しい思い(愛)が、地上でその実をみのらせてくれると信じつつ歩みましょう。

人は互いの弱さと欠点によって、主によって結び合わされ、大きなよき働きがなされると思います

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年7月23日 聖霊降臨節第9主日

  

説教「エリコの町で」

聖書 ヨシュア記 2:1~14 ルカ福音書 8:113

 

 婦人会の例会で、聖書の女性を取り上げてきました。

改めて聖書には多くの女性たちがいることと、またその女性たちの働きを学ぶこともできました。

本日の礼拝主題は「女性の働き」であります。

 

 エリコの町は、旧約ではこの遊女ラハブの物語が有名です。

新約では主イエスがエルサレムに入られる前に、バルティマイや、ザアカイの町としても馴染みがあります。

 

 日本は欧米諸国に比べ、主要な社会のポストや政治家に女性の比率が少ないと言われます。

こと教会においては、女性の働きは、本日の福音書が語るように伝道、奉仕、交わりの要でもあります。

 

 ヨシュア記では、モーセの後継者のヨシュアが民を率い、約束の地を目指し、エリコの町に斥候を忍ばせます。

ラハブは、その斥候を匿い逃がした遊女であり「あなたたちの信じる神こそが、まことの神である」と告白します。

そしてあなたがたを助けた代わりに、今度は自分の家族を守ってくれるように約束を交わします。

判断力と行動力だけでなく、根底にまことの神を神として信じる彼女の思いがあります。

このラハブはヤコブ書、ヘブライ書、そしてマタイ福音書の主イエスの系図にまで名を記しております。

 

 神はその人の職業や身分の高低に何ら拘わらず、その救いを成し遂げてゆく器として用いてくださいます。

主イエスの十字架と復活においても、最初に福音を告げ知らせる働きを担ったのは女性たちでした。

奢る者を低くされて、静かに大胆に、地の果てにまで福音はかく広がってゆくことを示しているように思えます。

 

 主イエスは「幼子を来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と教えます。

旧約の律法も、神の憐みのもと寡婦、孤児を虐げてはならないとそう強く教えています。

預言者たちも、これを神の求めている何よりの捧げ物であり義であること教えています。

 

 女性に限らず、神の福音の光は、私たちの目と心をいつも驚かせてくれます。

人の権威と力は、時に弱い者を圧迫します。

そして神の栄光は、この世の低さと暗さの中に輝きます。

この福音が、私たちの世界を神の平和へと導いてくれるように思えます。 

 

 幼稚園では18日に1学期の保育が終わりました。

そして19日に北園舎の耐震工事のための建設業者のプレハブが建てられました。

しばらくの間、職員室が牧師室と集会室奥の部屋に移動します。

教会の皆さまにもご迷惑とご辛抱をかけますが、ご理解宜しくお願いします。  

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年7月16日 聖霊降臨節第8主日

 

説教「罪と愛」

聖書 サムエル記上 24:818 ルカ福音書 7:3650

  

  「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とあります。

この主イエスの勧めは「多くの罪を赦された者が、多くを愛する」と受け取れます。

罪、赦しと愛は相互に働き、罪びとであるこの身が、神の霊によって新しい器として用いられていきます。

不思議なことでもあり、また信仰の核心的な事柄でもあります。

 

 サムエル記では、追いかけるサウル王と逃げるダビデの立場が、エン・ゲディの洞窟で入れ替わります。

ダビデの家来たちは、今こそチャンスでサウル王を討つべきと進言します。

ダビデはそれを退け、サウルの背後から忍び寄り衣類の一部を切り取り、サウルに告げます。

「王に何ら謀反の心を抱いてはおりません」と。

その証拠に、切り取った衣類を示します。

サウルも一時的ではありますが、ダビデの正しさを認めます。

そして、私が悪意をもって対したのに、お前は善意をもって返したと言います。

数少ないサウル王とダビデの感動的な対面であります。

仕返しでなく、愛の業が新しい芽を生み出すように感じます。

 

 山上の説教でも「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とあります。

唯、このことも現実に可能かというと、問題が深刻で距離が近いほど難しくもなります。

 

 ルカ福音書の罪の女性の物語からきいてまいりましょう。

彼女はファリサイ派の人々からは、汚れた不品行な、一緒にいるのも不愉快な人であったと想像できます。

けれども、主イエスは彼女に「あなたの罪は赦された」と告げます。

人を裁くファリサイ派ではなく、この多くを赦された罪深い人が、神の愛の業をなします。

そして、天の喜びが共にあるとされています。

 

 主イエスはしばしばこの地上で、罪人と人から見なされて、弱り果てた人々に告げます。

「安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。

神に、赦しを求める彼女の信仰が、主イエスにより、いのちの息吹を受けます。

喜びの道へと、生きる道へと連れ戻されています。

 

 嫌悪を感じる人に対して、愛の祈りに導かれるとしたら、煮詰まった関係に心捕らわれては難しいです。

私の罪を私の代わりに背負ってくれた主イエスの御足を、なんとかして拭って差し上げたい。

彼女がなしたような心と行いに戻り、そこから歩み始めをなしたいものです。

こんなに罪深い我が身でも、なんとか主イエスに従い歩みたい。

その思いがあれば神の愛の働きで、自分中心の見方とはまた異なる神のもとにある隣人を見させてくれるように思います。

 

 今回はいつもより要旨が少し短くなりました。

これからもなるべく短めの読み易い要旨にするように、心がけてゆきたいと思っています。

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年7月9日 聖霊降臨節第7主日

 

説教「ナインの町で」

聖書 エレミヤ書 38:113 ルカ福音書 7:1117

  

  礼拝の聖書個所は、繋がりが明瞭な日もあれば、少し分かりにくい日もあるかと思います。

本日は「いのちの回復」という礼拝主題が理解の助けになるかもしれません。

エレミヤ書は、迫り来るバビロンの前に、エレミヤの預言が、人々から恨まれ井戸に放り込まれる箇所です。

ルカ福音書は、やもめの息子が主イエスによって生き返らされる奇跡物語です。

確かに主題からは命との係りも感じられますが、けれどまだ隔たりは残っております。

エレミヤは死にかけてはおりますが生きており、ナインの町では、息子は死んでいます。

 

 ヨハネ福音書に主イエスとニコデモの会話があります。

教師ニコデモは、主イエスの新しい命が全く理解できません。

私たちも、死の現実とその死による命の終わりがあることは分かっております。

しかしまた同時に命と死はそれだけでもないように受け入れています。

身内が不幸な目に遭い、命が奪われる。

そのような経験をなさった方から、年月が流れてもその日から時は止まり、悲しみは消えないときいたこともあります。

ナインの町で、息子を亡くした母の思いに気持ちを寄せてみます。

亡くなったのは息子でありますが、母親も息子と共に生きてきました。

息子の為に生き、その命はひとつのようです。

息子の死は、それ以上に母親にとっても死であるように思えます。

母親は生きても、悲しみの中に死を生きており、その淵をさまようかのように思えてきます。

 

 これまでの礼拝で、聖霊が弟子たちに降り、失われた羊を羊飼いが探し求め、導き贖いだす聖書が与えられてきました。

エチオピアの宦官の物語からも、彼の命が再び与えられ、主イエスの御救いの光の中に旅が続けられる喜びを聞いてきました。

命と死。

それは肉体だけの意味ではなく、主イエスによる罪の赦しと復活の命に、人が活かされることも示しています。

全ての人がその神の愛に招かれている。その命を聖書は語っています。

 

 このナインの町の物語は、主イエスの十字架の死、その贖いにより、人の罪は赦される。

主のよみがえりによって、神の愛によって生きるそのいのちを告げてくれています。

 

 神の憐みと恵み。

どんな悲しみの淵にある人の心にも、主イエスのよみがえりの息吹は吹き入れられると感じます。

主も十字架によって、その暗い黄泉の底にまで下られた方だからであります。

 

 本日礼拝で、その主の招きに応え、洗礼を受けられ兄弟と共に礼拝を守れた幸いを覚えます。

エチオピアの宦官の「何か妨げがあるでしょうか」の言葉もありました。

神の御招きと御救いを妨げるものはないもないことを福音は喜びをもって告げています。

死もまたそうです。

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年7月2日 聖霊降臨節第6主日

 

説教「サマリヤ人の信仰」

聖書 ルツ記 1:1~19 使徒言行録 11:1~18 ルカ福音書 17:11~19

  

  「サマリヤ人の信仰」という題から、先ず思い浮かぶのはルカ福音書10章かもしれません。

今回はその箇所とは違います。

けれども、サマリヤ人の譬が如何に大きな影響を与えているかよくわかります。

「良きサマリヤ人」の言葉の裏には、ユダヤ人からサマリヤ人が良く思われていない現実があります。

聖書は、そのような人々の思いを反転させます。

 

 何故、サマリヤ人が、エルサレムからも遠くないのに、疎遠で口もききたくない関係なのか。

それはそれまでの旧約の歴史に遡ります。

サマリヤのある北王国はアッシリアに滅ぼされます。

当時、南のユダ王国のバビロン捕囚と同じく、サマリヤでも強制移住が行われました、

そして、サマリヤの地には、外国の人々が移住させられたりしました。

当然、距離とは関係なく、別な民族が暮らすような地になります。

バビロンからエルサレムに戻ってきたユダヤ人は、民族的な絆を強固にして再建の道を歩みます。

それによって、サマリヤとの対立関係を新約時代にも残してしまいました。

 

 けれども本日の聖書は、その異邦人ともいえる人々の信仰と神の救済の手を伝えています。

そして思い出してほしいのは、先主日のエチオピアの宦官の物語です。

迷子の1匹の羊が連れ戻される天の喜びは大きい。

そのことが礼拝を通じて示されてきました。

神の愛は民族の壁を超えて広く、その壁を打ち砕いて扉を開くのが、異邦人の純粋で敬虔な信仰であることもあります。

ルツもそうです。モアブの女性であります。

姑ナオミに付き添って仕えるこれは稀有な心優しい嫁の物語です。

同時に、モアブの女性の信仰と神の救済の愛の広さの物語であります。

使徒言行録も分かりやすい物語です。

ペトロが困惑しています。

彼の見た幻はこれまで律法で禁じられてきた食物を、神が「食せよ」と命じられる夢です。

それは、異邦人への福音宣教の始まりを告げている夢です。

神が清いとするものを、どうしてお前が清くないと言うのかとそう教えています。

 

 福音書の主イエス奇跡の物語も、サマリヤ人が出てきていることに注目しています。

他の9人は何処にいったのか、彼だけが主イエスの足もとにひれ伏して感謝しています。

人の見定める基準は、その経験や知識から得られることもあります。

しかし、聖書が教えてくれているのは、天の大きな喜びが何処にあるかです。

自分中心に人を分け隔てる冷たい線引きではありません。

時に型破りで、思いがけない、どうしてこんなことが、その中に神の御心が示されてゆくことがあるといえます。

それが聖霊の働きによる福音の力です。

罪人を救うために御子はこの世界に来られ、十字架という最も悲惨な姿によって、私たちの救いが成就しました。

サマリヤ人の信仰は、私たちにこう告げてきます。

「そこじゃない。ここだと、ここに神の愛があるのだ。ここにわたしはいる」と。

私たちの誇るべきものがたとえ壊されても、新たに神から罪の赦しという泉が湧き、喜びとなって満たされてくる気がいたします。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年6月25日 聖霊降臨節第5主日

 

説教「天にある大きな喜び」

聖書 エゼキエル書 34:16 使徒言行録 8:2640 ルカ福音書 15:110 

 

 

  聖書で、羊飼いと羊の譬とその教えは、最も広く知られている内容の一つかもしれません。

迷子の1匹の羊を探し求める羊飼いの譬の他、ヨハネ福音書では、「わたしは良い羊飼いである」の教えがあります。

「主はわが牧者」で始まる詩編23も多くの人に愛されています。

本日のエゼキエル書にも、神自らが散らされた自分の羊を連れ戻し、養い守り憩わせるとあります。

これらは、神さまと私たちの関係を教えます。

主の愛の強さ、深さを教え、その神への感謝と讃美が「主はわが牧者」の句に込められています。

 

 ルカ福音書では、迷子の羊の後に、失われていたものが見いだされる譬が続き、放蕩息子の物語へと結ばれています。

羊飼いと羊の関係に加えて、人の罪とその罪よりもっと広く深い神の憐みにより迎えいれられることが心に訴えかけられてきます。

 

 本日は羊と羊飼いの関係を、使徒言行録の宦官の物語から聴いてゆきたいと思います。

この物語は、エマオへの弟子たちによみがえりの主があらわられた箇所と似ております。

まず、宦官のこれまで歩んできた人生の苦悩を見てゆきたいと思います。

 

 宦官という職務にあるからかもしれません。

自分の人生の中でどこか暗く、閉じこもっているような面が感じられます。

先主日の長血を患っている女性のようです。

暗闇の道を彷徨いつつ、救いを求めて歩んでいる孤独な羊のように思えます。

この宦官に、ファリポが主の霊によって寄り添い、主イエスの救いを聖書によって解き証します。

彼はその御救いを信じ、時を移さず、水のある処にきて洗礼を受けます。

その進む道はこれまでと異なり、主が共にある恵みの光の中を進みゆきます。

宦官が見いだされた羊、フィリポが、主イエスにより遣わされた小さな羊飼いに見えてきます。

 

神 の愛によって、失われた1匹の羊が、再びその生きる命を取り戻す。

この天にある大きな喜びのもと、地上では聖霊の働きによって、小さな土の器たちが、神の恵みと主イエスの福音により、その神の御業を世に成してゆくように思えます。

主の教会も、ただ天の大きな喜びのために奉仕する信仰共同体です。

それも土の器であってよいと思います。

いと小さきひとりのためにとの神の御心を、地上で追い求め、神の御言葉に従い進む小さな羊飼いたちであります。

何も出来なくても、互いに覚え祈ることも、それも主の御業の働きであります。

主の御手に養われるこの群れは、みな罪の羊たちであり、主イエスの十字架による恵みによって連れ戻された集まりでもあります。

だからこそ、互いに愛し合い、助けあっていける群れとなり、そこに主が共にいてくださるのです。

 

 エチオピアの宦官の後、サウロ(パウロ)の回心へと続きます。

罪赦された羊は、神の大きな愛の羊飼いとして遣わされているように思えます。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日

 

説教「ただ主の恵みにより」

聖書 申命記8:11~20 ルカ福音書 8:40~56

 

 箴言の初めに父の諭し、母の教えをおろそかにしてはならないとあります。

確かに親の言葉は、受ける者にとってありがたいと感じます。

それがありがたいのは、親が子どもを誰よりも大切に愛し、心配もしてくれているからでしょう。

同様のことが、旧約の申命記の言葉にもみられます。

8章は、立派な生活ができるようになっても、主を忘れないよう、心が奢ることのないようにと教えます。

 

自分の力でこれらのものが築けたと思ってはならない。

その力を与えられたのは主であり、主が今日のようにしてくださったのだと教えます。

この教えをしっかりと身に帯びていれば、例え労苦の道や幸いな道でも、主の道を踏み外すことはないように思えます。

 

 申命記の83節には、「人は、主の口から出るすべての言葉によって生きる」とあります。

神の恵みと神の言葉によって、人は生きるいのちが与えられている。

これを、ルカ福音書の病気がいやされる二人の女性の物語と一緒にみてゆきます。

 

 珍しいケースですが、2つの別な物語の間に1つの物語が組み込まれています。

ヤイロの娘の病気の間に、長血を患っている女性の物語があります。

この長血の女性は、12年もの間、医者に診てもらっても治ることなく、全財産を使い果たします。

当時、血は命と係る聖なるものとされましたが、体外に出るとむしろ汚れとして見られていました。

ですから、彼女は罪人にように見られている塞いだ気持ちの暗い日々だったと思われます。

彼女は、後ろから群衆にまぎれて、主イエスの服の房を触ろうとします。

彼女の気持ち、生き様がそのようにしかできないのです。

しかし、主イエスは、彼女を探し求めます。

群衆の中で、人は気にも留めない出来事です。

しかし、彼女だけは、主イエスが自分を探しておられることわかっています。

そして告げます。

私ですと。

主イエスは彼女に言います。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったと」。

生きるいのちが彼女に与えられます。

 

今ひとつのヤイロの娘は12歳とあります。

この二つの物語に共通することといえば、この12年の年月、そしてその命です。

闇と死に直面しております。

ヤイロの娘は死んでおりますが、主イエスは、娘の手を取り、起きなさいと告げます。

申命記の教えで言うならば、「人は主の言葉によっていきる」

それを物語っています。

 

 主の恵みを忘れず、主の教えから離れず、心奢らせることもない。

私たちの日々の歩みで与えられたものは是、唯、主の恵みなり。

その信仰によって、わたしたちは今日あるといえます。

  

 先主日に教会の創立記念礼拝を迎えることができました。

今日まで関西学院教会が宣教の歩みをなしてこれましたのも、唯主の恵みです。

主を讃美しつつ、歩んでゆきたいと願います。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年6月4日 聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)

 

説教  「若者は幻を見、老人は夢を見る」

聖書  出エジプト記 19:1~9 使徒言行録 2:14~21

 

 先主日が聖霊降臨祭礼拝、ペンテコステでした。

聖霊降臨日は、その日だけが特別なのではありません。

主の十字架と復活から聖霊降臨へと続いてきたことを学んできました。

使徒言行録2章の聖霊降臨には、ペトロの聖書(旧約)と解き証しもあります。

神の御言葉とイエス・キリストによる御救いに民が招かれるところまで、一つの出来事です。

 

 もしそうでなければ、聖霊降臨もただ一時の不思議な出来事に留まってしまいます。

聖書の造り主なる神と、御子イエス・キリストの贖い、そして聖霊なる神の働き。

この3つと結ばれるのが、ペンテコステの次主日である本日、三位一体主日の礼拝です。

 

 出エジプト記の荒野を旅する民たちはシナイ山に着き、モーセが十戒を神から受けます。

約束の地までの一つの頂きのようです。

神の民となることは、主の恵みによる選びであります。

その神の教えを守る中で神と民は結ばれてゆきます。

 

 使徒言行録には、人々は弟子たちの言葉を、自身の故郷の言葉で聞いたとあります。

そして、皆が一つになり、宣教と教会の始まりといわれています。

その始まりにあたり、聖書の御言葉によって立つことの大切さも、使徒言行録は記しています。

 

 その聖書の解き証しに、使徒ペトロの説教があります。

この箇所を読んで、矛盾などないように思います。

聖霊が降った後の説教を行うのに、使徒のペトロは最もふさわしい人物です。

誰よりも主イエスを知り、自らの罪の深さを知り、復活の主の証人として立てられます。

 

 しかし、このような疑問を感じないでしょうか。

ガリラヤ湖の漁師であったペトロが、まるで律法の教師のような弁舌です。

旧約の聖書ヨエル書も引用して、長い説教をしています。

まるでパウロのようです。

どちらかが正しいというわけでもありません。

それがまさに人として器なのです。

人の器を通して御言葉が、主イエスの御救いが、宣べ伝えられていく。

ここに聖霊の働きがある。

このことがこのルカ・使徒言行録の証しするところです。

 

 ペトロは告げます「老人は夢を見、若者は幻を見る」と。

この神の霊に満たされて人は生かされています。

その神の御言葉は私たちのうちに今も働いています。

私たちの小さな愛の業が、神の大いなる御救いの種となってゆけますように。

人を思いやる心が、この世界を神の平和の世としてゆけますように。

 

 先主日に聖餐に与りましたが、聖餐も見える神の言ともいわれます。

主の十字架の贖いは今も私の罪を赦し、よみがえりの新しい命は「さあ、行きなさい」と、私たちを遣わしております。

その御声に喜び従ってゆくものでありたいと願います。 

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年5月28日 聖霊降臨節第1主日

 

説教  「一つにされ」

聖書  創世記 11:1~9 使徒言行録 2:1~13

 

 主の受難日・復活日に続く聖霊降臨日を本日迎えております。

そしてこの聖霊降臨日で、これまでの日々が満たされるようにも思えます。

復活の主が弟子たちと共にいると言われた命の息吹により、教会がこの世に立てられてゆきます。

教会は会堂がイメージされることが多いと思いますが、その実態は、礼拝共同体です。

主の御名によって集められた民が、神を礼拝して讃美する。

この礼拝こそが、よみがえりのキリストの身体であり、宣教、伝道でもあります。

 

 聖書は、この日、使徒言行録2章がよく読まれます。

聖霊の自由な働きを感じつつ、私たちがキリスト・イエスの愛のもと互いに助けあって生きている。

主が共にいてくださることを味わってゆきたく、辿ってまいります。

 

 旧約は創世記のバベルの塔の物語であります。

使徒言行録の聖霊降臨に相対する聖書としてよく読まれます。

罪の物語で、神の如くなろうとする人間の傲慢さが砕かれてゆきます。

また様々な民族、異なる言葉が世界にあるという原因譚の物語にもなっています。

その散らされた民が、また長い歴史を経て一つにされることと結び合わされます。

壮大な聖書の解釈のように思えます。

 

 一つになるというこの出来事の理解は、簡単なようで難しくもあります。

特に私たちの風土は、周りを海に囲まれ、比較的一つの言語と民族で歴史を刻んできました。

しかも、鎖国の時代までありました。

語らずとも通じる。

皆が気を遣って、個よりも全体を重んじる文化でもありました。

一つになるというのは皆が同じように考え、同じように行動するように受け取られがちです。

 

 けれども、聖書は異なっています。

聖霊が降り、違う言語で「話す」ことも、自分の国の言葉で「聴く」こともできる。

他者を自分のことのように心から分かることであります。

違いの壁があっても、それが人を隔て妨げる壁とはならない。

通じ合うことができる多様性の豊かさを、この聖霊の働きが示しております。

自分が固く守っていたものよりも、主の愛によって、より大きな大切なものに目が開かれ、自由にされてゆく。

それがこの聖霊によって、一つにされてゆきます。

主の愛とその息吹が、私たちを新たに主の器として用いてゆきます。

 

 それをヨハネ福音書のトマスに見てみましょう。

トマスの物語にも、聖霊の降臨の実をみることができます。

彼は他の弟子と離れて、最初皆の言うことが信じられませんでした。

しかし、復活の主が彼に現れて、その御傷を示します。

トマスは「わが主、わが神よ」と告白します。

彼は離れ、一人でした。

けれどよみがえりの主により、皆と同じ主を信じる者とされ、使徒として生かされます。

このような主の息吹が、一人一人の上に降り、主の愛に生きる者とされていきます。

何の壁もなく、喜びをもって主の福音に生きる者であります。

 

まさに聖霊の働きといえます。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年5月21日 復活節第7主日

 

説教  「聖霊降臨の前」

聖書  マタイ福音書 28:16~20 使徒言行録 1:12~26

 

 よみがえられた主イエスが天に上げられ、そして聖霊が弟子たち降るのが次主日の聖霊降臨日です。

主が天に上げられたことを、教会の用語で昇天と呼んでおります。

ルカ文書の使徒言行録に、復活後40日と記されています。

マルコ福音書では「天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあります。

ヨハネ福音書には、天に上げられたという言葉はなく「信じてイエスの名により命を受けるため」と記しています。

本日のマタイ福音書も、天に上げられたことと弟子たちの派遣、祝福と結びついています。

 

 ルカ福音書は続く第2巻の使徒言行録は、再び主イエスの昇天と聖霊降臨をもって始まります。

イスカリオテのユダが欠けた後に、マティアを補充するのが聖霊降臨の前の出来事です。

その選びはくじによっています。

ヨナ書にも、くじがでてきます。

現代の感覚だと、くじは誰かを選ぶ単なる手段です。

しかし、古代では人の選びを超えた神の選び、神託としての重みがくじにあります。

 

 本日は、キリストの昇天と聖霊降臨の間の主日になります。

40日、50日といった数字よりも、よみがえりの主の昇天と聖霊降臨の意味を考えてまいります。

この連続している二つを、より結び付けて一つのことと考えてもよいように思えます。

それが聖書に即しているようにも思えます。 

 

 マタイ福音書で言えば、よみがえりの主の昇天は、弟子たちの宣教への派遣、祝福であります。

主イエスが告げる

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

この言葉こそが聖霊降臨であり、よみがえりの主イエスの息吹による新しい命でもあります。

 

 救い主の昇天と聖霊降臨、祝福と派遣は、この主日の礼拝に重ねて考えることができます。

礼拝は、前奏から招きの言葉に始まります。

聖書の御言葉による福音書の朗読は、即ち主の十字架と復活を根底に持ちます。

そして聖霊の働きを求めつつ、感謝の讃美、祝福と派遣となっています。

その礼拝から遣わされ、主のみあとに従い歩む民としての私たちがあります。

礼拝生活を軸とする私たちの日々の旅路が、主の昇天と聖霊降臨を告白していることになります。

 

 創世記に土の塵から人を造り、神が命の息吹を吹き入れられて、人は生きるものとなったとあります。

罪の私たちは、神により、よみがえりの主の命の息吹を吹き入れられました。

そして、互いに愛しあう人として新しく生かされた者であります。

 

 聖霊降臨は、まさに主の十字架と復活による神の新しい創造の御業です。

使徒パウロもそれを福音として語っております。

主イエスが天に上げられたことは、主の十字架と復活の喜びが、私たちの中にもう吹き入れられており、私たちが主の名による救いの光を内に備えていると思えます。

 

その喜びの光は、自分を輝かすのではなく、他者のために光を灯す天の輝きのようであります。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年5月14日 復活節第6主日(母の日礼拝)

 

説教  「神の僕」

聖書  ダニエル書 6:10~23 ルカ福音書 7:1~6

 

 礼拝の聖書は教会暦の聖書日課を採用しております.

旧約、福音書、使徒書、交読文の詩編もその日の礼拝主題に即したものです。

また各主日にも繋がりはあります。

先主日のヨハネ福音書に「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」がありました。

それなのに本日説教題は「僕」とつけてしまい、やや反省もあります。

 

 復活節も6主日で、まもなく聖霊降臨日を迎えます。

今週の木曜日は復活日から40日目の昇天日です。

その前後の主日は復活顕現から、昇天と聖霊についての聖書箇所へと移ってきます。

本日はダニエル書の物語と百人隊長の僕が癒される物語になります。

ここには先主日から続く信仰が物語られています。

それが、私たちにとっても復活の主を信じるという内容になります。

信じるとは、どのようなことなのかを教えてくれています。

今日の聖書では奇跡の物語にもなっております。

ヨハネ福音書の言葉でいうならば、これも広く「実を結ぶ」とみることもできます。

信じることや、聖霊の働きを説明しようとすると、どうしても定型的な言葉におさまるように感じます。

しかし言葉を超えて、主の近さ、主の深い恵みを感じさせ、そこに聖霊の働きであるようにも思います。

 

 ダニエル書には、どんな状況にあっても、主はその苦難からお救いくださることが描かれています。

また百人隊長の物語では、ユダヤ人、異邦人の壁を超えて、主は、その一言で救い出してくださいます。

自分だけでなく僕も一体となって信じられることが、私たちに復活の主の御手の働きを感じさせてくれます。

 

 百人隊長は、主を信じることが、自分だけでなく部下も主の御翼の影に守られると告白します。

それに応えるように、主の御業が成し遂げられております。

それは、この百人隊長の信仰でもあります。

そして、それを超えた聖霊の働きであり、神の御業の物語に思えます。 

 

 ダニエル書の場面が異国であり、百人隊長は異邦人です

私たちは、誰しも自分が生きてゆくために組織や社会に属しています。

自分とまた自分たちの壁を造りやすくなっております。

もちろんその壁は見えない壁であります。

 

 復活の主の息吹は、家の中(壁の中)に閉じこもっていた弟子たちに現われました。

その御傷を示し、命の息(聖霊)を吹き入れられました。

私たちを罪から贖いだされた神の御心と愛、それは人の矮小な思い、それが仮に正しくとも、それよりもはるかに大きく命に溢れたものであるといえます。

この喜びが心に満ち溢れ、荒波の世でも忠実な神の僕、友として歩んでゆきたいものです。

 

 

 本日の讃美歌は、462(はてしも知れぬ)は2節の「母のみどりご 眠らす如く み声しずかに あらしをおさめ」とあります。

母の日を覚えて選びました。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年5月7日 復活節第5主日

 

説教  「互いに愛し合いなさい」

聖書  申命記 7:611 ヨハネ福音書 15:1117

 

 復活の主を信じる信仰は、言葉を換えて言うならば、主に従い生きる信仰でもあります。

そして、新しい命に生きる信仰と言えるのではないかと思います。

それは、自分の好き放題に生きることではありません。

徴税人のザアカイが、これからは貧しい人に施しますと応えたように、主と共に生きる喜びに満たされた生き方です。

主イエスが私たちの罪を贖い出してくださったその救いの実が実るような生き方に変えられることです。

 

 申命記7章の箇所は、特に神の選びと愛がここに込められています。

復活の主の息吹が弟子たちに吹き込まれ遣わされたように、まさにこの御言葉が、罪の中にあるイスラエルの民たちを、神の民としてゆきます。

神の選びは、あなた方がどの民よりも数が多かったからではない。

あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

ただあなたに対する主の愛の故に、宝の民とされたとあります。

これが旧新約聖書に連なる変わらない神の憐みと愛であります。

その神の愛故に、私たちも神の民とされています。

それは私たちの正しさでも、清さでも、豊かさでもありません。

ただ神の憐みによって、神の民とされ、教会も主の教会とされています。

神の御子がこの世界にこられ、十字架にかかられ、私たち全てをその罪から贖いだして神の子としてくださった。

ここに神の愛があります。

 

 ヨハネ福音書、また手紙にも、

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、御子を世に遣わされた。

ここに愛があると教えています。

 

主の復活は、その神の愛を示し、私たちをその愛に生かすようにしています。

神の愛から離れずに生きるように、主の復活の息吹が聖書の御言葉をもって、道を照らしてくれています。

神の愛を受け、たがいに愛し合って生きるようにしてくれます。

 

 ヨハネ福音書15章は、ぶどうの木の枝の譬えから始まっています。

いわゆる告別説教と呼ばれる一部でありますが、主の十字架と復活も含みをもっております。

そして弟子たちに語りかけています。

わたしにつながっていなさいと。

主とつながって結ばれる実は、自分だけが手にするこの世的な実ではありません。

隣人と共に生きる天からの祝福に満ちた喜びの実であります。

神に栄光を帰すことのできる実りといえます。

その源にあるのは申命記の記述です。

数の多い民ではなく貧弱な民を選ばれた、その神の愛をを忘れてはなりません。

その神の愛に応えて歩んでゆきたいものです。

 申命記は他民族を滅ぼし尽くせの教えもあります。

ただ、イスラエルの民は、他民族を滅ぼせるような巨大で強い民ではありませんでした。

 

むしろ弱小の民故に、他民族の文化、宗教に吸収され、消滅しない為の拒絶の言葉と理解しております。 

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年4月30日 復活節第4主日

 

説教  「天の糧」

聖書  出エジプト記 16:416 ヨハネ福音書 6:3440

 

 復活節は7主日あり、既に後半に入っております。

イースターの喜びは、ペンテコステへ続きます。

その喜びの灯は、徐々に大きなうねりとなって宣教への派遣に繋がるように思えます。

 

 福音書は、主イエスの降誕、受洗から十字架と復活への道のりを記しております。

復活節の礼拝の中、よみがえりの主イエスからの御言葉として、福音書を聞く。

すると、さらに新たな光と招きをもって輝いてくるような箇所が幾つもあります。

もちろん全ては主イエスの復活より福音書も書き残されております。

「網を捨てて主イエスに従った」

この1句は、まさに主の十字架と復活を信じ、宣べ伝えてゆく使徒のスタートに思えます。

 

 ヨハネ福音書には、主イエスの「わたしは~である」という表現がよくでてきます。

本日も「わたしが命のパンである」もそうです。

 

出エジプトの荒野の旅で飢えと渇きの中に、与えられた不思議な食べ物マナを、イスラエルの民は、天からのパンと呼んでいます。

神が、私たちを守り導く、そのしるしがこのパンにあります。

それは今も、これから先の教会の宣教の道にも、神の愛と恵みのしるしとして預かっていくことのできるのが主の食卓、主のからだとしてパンに受け継がれております。

私たちは「主イエスの命のパン」といわれるこの一言に、言葉を超えて働いてくださる神の御業に与かる者とされてゆきます。

このパンにより、私たちは、主の十字架と復活に与ってゆく者とされてゆきます。

それは私たちの資質、働き、その持てる物一切と関係がありません。

神が私たちを招き、神の恵みと憐みによってなされるからであります。

このパンはまた、わたしたちの鈍い目を開かせてもくれます。

 

 よみがえりの主のその御恵みは、いまも教会の洗礼と聖餐により、そしてこの主の日の礼拝によって証されてゆきます。

そして主のからだに連なる私たち一人一人の信仰者のいのちの灯が、主イエスの救いがここにあることを讃美と感謝で語っていると思います。

 旧約の民も天からマナで、多く集めた者も少なく集めた者も、余りも足りもせず皆が必要を満たされます。

エリヤの時も、壺の油は尽きず、瓶の油もなくならず、主の弟子たちも、パンの奇跡で、12籠に溢れています。

私たちもまた神の溢れる恵みが味わえますように。

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年4月23日 復活節第3主日

 

説教  「まん中に立ち」

聖書  イザヤ書 51:16 ルカ福音書 24:3643

 

 主の復活顕現物語で、本日はエマオの道の物語に続く箇所となります。

33節に「エルサレムに戻り11人の弟子とその仲間」とあります。

彼らによみがえりの主は現れます。

 

 ここで弟子たちには「亡霊を見ている」ように、恐れとおののきがあります。

マタイ福音書でも、主が湖の上を歩いておられるのを見て、弟子たちは「幽霊だと恐れて」しまいました。

その時に、主は「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」とおっしゃいます。

ペトロが湖で溺れそうになる時には「信仰薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。

信じることと、どこか信じられないことが入り混じっています。

 

 主のよみがえりの時も、弟子たちの驚きとまだ信じられないという思いがあります。

主はその彼らと焼いた魚を食します。

復活のリアリティを語っており、エマオへの道と同じく、彼らの心の目を開いていきます。

そして、主がこの生活の場に共におられる現実を、私たちに伝えております。

 

 本日の説教題は「まんなかに立ち」と聖書の言葉から選びました。

ヨハネ福音書にあるトマスの物語。

そこでの二度に渡る主の顕現にも、この「まんなかに立ち」があります。

主の復活の命とこのまんなかに立つという言葉が一緒にある特別な意味を考えてみたいと思います。

 

 まんなかは通常は位置を示し、弟子たちも10人、11人と輪になっていたかもしれません。

ただ主の復活には、聖霊の息吹のように、固定的な場所に限定されないと思います。

ではこのまんなかは、どのように捉えたらいいのでしょう。

場所を指す言葉として、上座、下座もあります。

イエス様は仕える者になることを教え、上座に座ることを戒めます。

私たちの民族性で考えると、むしろ目立たない後ろの席が好まれます。

端か後方、それこそまんなかあたりも好まれそうです。

謙遜と、責任を負う正面に立つのを厭うような、保身的な賢さもあるのかもしれません。

 

主が、私に射られる罪の矢を私の前で受けられ、私のいのちを助け、贖い出してくださった。

そのような位置を、このまんなかという言葉にみます。

主の身代わりによって守られた私たちのいのちです。

イザヤ書の裁きは、罰を定める裁きではなく、正しい裁きは即ち救いでもあります。

その主の救いが、すべての人の光として輝く。

これが復活の主が、私たちのただなかに、まんなかに立たれていることのように思えます。

世の光として、主はこの世界に来られました。

その神の愛を、私たちが世にまた灯してゆきます。

キリスト・イエスの十字架を知った者として、神の愛が、私たちのいのちそのものとなっております。

    

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年4月16日 復活節第2主日

 

説教  「目が開け」

聖書  列王記下 7:116 ルカ福音書 24:1335

 

 イースターからの復活節前半には、主の顕現物語と呼ばれる聖書箇所が与えられます。

このルカのエマオ途上の物語はその1つです。

木立のなかを歩く3人の後ろ姿の絵も見たことがある人も多いかと思います。

 

 エマオの物語と列王記の預言者エリシャ物語の繋がりは「目が開かれる」です。

列王記下6章でもアラム軍が攻めてきます。

不思議なことに目がくらまされたり、目が開かれたりして翻弄されます。

同じく7章ではアラム軍が町を包囲して危機に瀕します。

そこでは、逆に軍馬や大軍が迫ってきているような音が起こり、アラム軍が退きます。

 

 エマオの物語にも、独特な不思議さがあります。

よみがえりの主と一緒に話しながら、歩いていても主と気づきません。

主が食卓で讃美の祈りを唱え、パンを割き渡されると目が開け、主であるとわかります。

そして、主の姿が見えなくなります。

主の復活の命と主を信じる心がこの不思議な物語に込められています。

 

 浜口庫之助のバラが咲いたという歌があります。

「バラが咲いた。真っ赤なバラが。淋しかったぼくの庭にバラが咲いた」の歌詞です。

その後「バラが散った。・・・散ってしまったけれど、淋しかった僕の心にバラが咲いた」と続きます。

「目が開け」の目は、視覚による目より心の目です。

 

 ヨハネ福音書にも、目の見えない人を主イエスが癒す箇所があります。

その後にファリサイ派の人々との論争になります。

主は彼らに「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」

そして「見えると言い張るところに罪がある」と告げます。

彼らには、癒された人の救いが見えてはいません。

 

主の十字架による罪の赦しと、主のよみがえりの新しい命が私たちに与えられております。

エマオの物語でも弟子たちの目が開かれたのは、夕べの主の食卓の時です。

あの過越の食事で主イエスが言われた

「これはあなたがたのためにわたしのからだである。

この杯は、あなたがたのために流される私の契約の血」が思い出されます。

罪の赦しに目覚めた者が、主の復活の御姿を見て、主の息吹によって遣わされてゆきます。

 

使徒言行録の宦官の物語も、このエマオの弟子の物語と似ております。

聖書のときあかしを受け、主を信じ洗礼を受けた時に、その姿は見えなくなっています。

しかし、主の御救いの命を確かに生きる者とされております。

 

私たちの人生の旅路は、このエマオ途上の道のようです。

時に、様々な事で目が遮られ主の御恵みが見えない時もあるでしょう。

けれど主は聖霊の助けをもって、わたしたちの目を開かせてくださいます。

主が共にある感謝と喜びに溢れさせてくださいます。

其々の歩みのなかに招きの御声があり、御言葉のときあかしがありますように。

目が開かれ、主の恵みが感じられますように。

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年4月9日 復活節第1主日(復活祭礼拝)

 

説教  「主の復活の朝」

聖書  エレミヤ書 31:16 ヨハネ福音書 20:118

 

 今年は2月22日の灰の水曜日から受難節に入りました。

6主日を過ごして、本日、主の復活日を迎えております。

イースター礼拝です。

 

教会にとって、このイースターの礼拝が最も重要です。

受難日の金曜日から3日目の朝、御子のよみがえりの朝を記念してキリスト教の礼拝が始まったからです。

主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの贖いとよみがえりの命の息吹をもって、これまでの金曜日日没からの安息日が、日曜日の主の日の礼拝としてスタートしました。

神の愛に新しく呼び集められた私たちは、主の御名を讃美して、聖霊によってこの主の日の礼拝から遣わされてゆきます。

そして再び主のよみがえりの朝を覚えて礼拝に集められております。

キリスト者としての歩みは、この主イエスのよみがえりの朝に神の御言葉に立ち帰り、主の復活の命に生かされてゆくことでもあります。

 

 ヨハネ福音書も、その主イエスのおさめられたお墓に、夜が明け朝の光を受けて、マグダラのマリアがゆきます。

他の福音書も復活の最初の証人たちは、マグダラのマリアをはじめとする女性たちです。

救い主のご降誕、その良き知らせが初めに告げられたのはルカ福音書では羊を守る小さな羊飼いでした。

主の復活の喜びも、夜明けの光がやがてすべての全地を明るく照らすように、まず小さな女性たちに、そして次に弟子たちに知らせられてゆきます。

御使いは彼女たちに言います。

死という葬りの場、ここにはおられないと。

新しい命は、聖霊の息吹のように、風のように、女性から弟子たちに、

そして主を信じる人々に吹き入れられてゆきます。

主イエスが宣教の初めに告げた言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じない」

ここに私たちを引き戻してくれる感じがします。

 

主の復活は福音書の結びに記されてあります。

しかし、その内実、主イエスの死から命へのその福音は福音書の根幹として既に福音宣教の冒頭より始まっております。

ルカでいうならばその福音は使徒言行録に続き、ローマに向かって、地の果てにまで告げ知らされてゆきます。

 

エレミヤ書の神の御救いと新しい契約は、主のもとにすべての民を呼び集めております。

8節にも「地の果てから」の言葉もあり、人々を連れ戻し、目の見えない人も、歩けない人も呼び集められております。

まさにこの喜びが、今もこれからも主が共におられる喜びです。

 

春の木々は、神を讃美し、自然の新しい命の芽生えも主のよみがえりを私たちにそっと教えてくれています。

主イエスの十字架によりあなたの罪は赦されたと。

その主はよみがえられ「私に従ってきなさい」と聖霊の息吹をもって招いておられます。

あのガリラヤ湖の湖畔で、朝の光の中、招かれた弟子たちのように、私たちもよみがえりの主イエスと共に歩んでまいりましょう。

「すべてを捨てて従った」とあるのは、この私たちの命の源の主に招かれていることと感じます。

ヨハネ福音書の冒頭に「まことのひかりが世に来た」「命は人間を照らす光」とあります。

主の復活は、闇を退け、死を退け、神の愛と命をもたらしてくれます。

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年4月2日 復活前第1主日(受難節第5主日)棕梠の主日

 

説教  「わたしを思い出してください」

聖書 イザヤ書 56:18 ルカによる福音書 23:2643

 

 受難週に入る主日は、エルサレム入城の箇所に併せて棕梠の主日と呼ばれています。

次主日に復活日を迎えます。

今は教会にとって、主の十字架と復活の最も重要な時となります。

 

 本日はルカ福音書23章の主の十字架の箇所から聞いてまいります。

シモンというキレネ人が主の十字架を背負わされてゆきます。

彼も異邦人であり、イザヤ書の「異邦人の救い」も併せて聞くと新たな意味が加わって感じられます。

彼も偶然その場に居合わせた人で、無理やりに他人の十字架を背負わされることになります。

厄介なことに巻き込まれたようですが、しかし主の十字架と共にその名が残る人となります。

 

またルカ福音書には、主の十字架の両脇の二人の人の言葉があります。

二人は異邦人ではありませんが、救いということに関しては光と闇を映し出しています。

一人は主イエスを罵ります。

もう一人は、その人を諫めます。

自分たちはやったことの報いをうけているが、この方は何も悪いことはしていないと。

そして、イエスよ、あなたの御国においでになるときは、私を思い出してくださいと願います。

 

 弟子のヤコブとヨハネの兄弟も、主イエスが偉くなった時に、一人を右にもう一人を左にと願います。

しかし、この十字架の右と左に彼らはいません。

 

 罪人の一人が、主イエスを信じ、告白し、主の御国で、どうかわたしを思い出してくださいと願います。

「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」

その最後の願いは、主によって救いの御手に包まれて叶えられております。

 

 この主イエスの傍のこの人の救いは、今、私たちにも語り掛けてきます。

人は罪の中にあっても、その最後で小さな一筋の願いをもって主に立ち帰れば、その人は必ず救われる。

これが地上に生きている人の姿です。

また、人の悔い改めを神は待っておられ、御救いに受け入れてくださる。

そのことが喜びをもって感じられてきます。

 

 救いが、ただこの神の憐みによるものであること。

ただ主に、どうか私を思い出してください。

人は自分ではどうすることもできない罪の中で、そう願うしかないことが教えられます。

 

 十字架は、御子の贖いの死であります。

その死は、罪の中にある私たちにとって、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。

神と共にある命を、主の復活により与えられております。

この十字架の傍にいる人は、死とその永遠の命を教えてくれています。

神に憐れみを求める祈りこそが、その神からの愛を人に捧げてゆけるように思えます。

主の愛を噛みしめつつ、受難週を歩み、次主日には主の復活を共にお祝いしましょう。

 

 棕梠の主日は英語ではパームサンデーです。

ヨハネ福音書の「なつめやしの枝」からそう呼ばれております。

受難週の木曜日は、主の晩餐を記念し、聖餐礼拝がもたれたりします。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年3月26日 復活前第2主日(受難節第5主日)

 

説教  「旅立つ」 劉 加貝

聖   書 創世記 12:1~4

招   詞 詩編 33:20~22

交読詩編 54
讃美歌  132、324、288


2023年3月19日 復活前第3主日(受難節第4主日)

 

説教  「栄光に輝く」

聖書 出エジプト記 34:2935 ルカ福音書 9:2836

 

 

 復活前節も既に後半に入っており、山上の「変貌」の箇所が与えられております。

十字架への道、その途上の山の上で、突如、主イエスの姿が真っ白に輝きます。

モーセとエリヤと語り合い、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声が聞こえます。

マタイとマルコでは「これはわたしの愛する子」になっており、主イエスの受洗時の天からの声と同じです。

いずれにしても通常の出来事ではなく天の栄光の姿が、3人の弟子たちの前に一瞬現れます。

受難予告と受難予告に挟まれていて、十字架と復活の光が射してくるように感じられます。

 

 聖書で、ヨハネ黙示録やエゼキエル書、ダニエル書など、一部に黙示的な処があります。

理解し難いとも言われますが、主イエスと弟子たちの時代、黙示的な表現は広く受け入れられていたようです。

そこでは、世の終わりの審判よりも、暗い現実の世に差し込む光、希望に目が向いているように思われます。

この山上の変貌にも、十字架と復活の御救いを垣間見ることができます。

 

 山の上で、主はモーセとエリヤと語り合っています。

旧約の最も偉大な人物でもありますが、モーセは十戒の授与から律法を象徴しています。

エリヤは預言者の初めとして、律法と預言の成就と理解されることもあります。

山の上と麓の出来事を併せて見つつ、民の姿と隠された御業としてのモーセとエリヤを理解してみたいと思います。

 

 モーセは十戒を受けた時、民を麓に残し、ヨシュアとだけ山に登りました。

モーセがなかなか帰ってこないので、民たちは金の子牛の像を造り、拝んでしまいました。

エリヤは、多くのバアルの預言者たちと一人で戦ったあと、ホレブの山で身を潜めます。

その中で、静かに囁きかける神の御声を聞き、もう一度預言者として遣わされていきます。

この主イエスの時も、山の麓では、弟子たちが悪霊に取り憑かれた子を癒すことができずにいます。

 

 弱さと罪の描写の中で、山にあって神の栄光の姿に一瞬輝く。

私たちの深い罪の影と、主イエスの光が合わさって見えてくるようです。 

 

 道を外れ、逸れてしまう民のために主は十字架にかかられました。

人の罪を一人背負われ、神の御救いが成し遂げられてゆきます。

栄光に輝く姿とは何か。

この主の御苦しみの十字架こそが、私たちの光です。

主の十字架の贖いこそが、私たちに新しい命をもたらしてくれます。

 

山上の変貌の場に、ペトロ、ヤコブとヨハネの弟子にもう一人。

私たちもまた、聖書を通してその場にいるように思えます。 

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年3月12日 復活前第4主日(受難節第3主日)

 

説教  「神からのメシア」

聖書 イザヤ書 63:7~14 ルカによる福音書 9:18~27

 

 復活前の礼拝の中で、主イエスの受難予告の箇所が与えられております。

共観福音書には3度、この受難予告が出てまいります。

マルコ、マタイが比較的続けて出ているのに対し、ルカは2回目までが9章に、3 回目は18章に出てきます。

これだけ離れていると、3回続いていることも気づきにくくなってしまいます。

 

 またこの受難予告は、隣り合わせた聖書の内容とも結びついているように感じられます。

主イエスが「あなたはわたしを何者だというのか」に対して、ペトロは「神からのメシアです」と告白します。

これと主イエスの受難予告とは、やはり呼応していると思えます。

次主日の山上の変貌と呼ばれる内容にも、主イエスの十字架と復活の光がみられます。

 

 先ず、ルカ福音書がどうして3回目の受難予告を18章においているのかを考えます。

それから、この9章の主イエスの受難予告を聞いてゆきたいと思います。

18章にはエリコの町の物語があり、目の見えない人の癒しと、19章にザアカイの物語があり、エルサレム入城となります。

ルカ福音書の特徴を「旅空を歩むイエス」と捉えた人もおります。

9章の弟子の派遣、10章の72人の派遣と、エルサレム入城前に罪人と呼ばれる人を癒し招くことと受難予告が共にあります。

弟子の派遣も、また主の御受難、十字架への道です。

その十字架の罪の贖いが、神の救いの御業であることを告げ知らせているように感じます。

それがペトロの「神からのメシア」という言葉でもあり、私たちの信仰の告白にもなります。

 

 ペトロをはじめとする弟子たちは、主の告白をなし、またマタイでは天の国の鍵を授けられています。

しかし、まだ十字架の前では罪の中、主イエスを見失う人としての弟子の姿があります。

ここにも、自分を捨てることのできない人としての弱さが表れているようです。

ただ主をメシア、救い主ですと告白する。

その中で、神の罪の御赦しの御翼の蔭に留まらせていただいている。

罪の赦しの中で、人は、主イエスの弟子とされます。

その罪の赦しのもと、19章にあるザアカイや目の見えなかった人が癒され、主に喜び従う。

それが主イエスの福音を証しすることに繋がっていきます。

これがルカ福音書で、主の十字架が3度示されている意味ではないでしょうか。

そして同じく私たちも3度、主をメシアと心の中に受け入れて、主に従う道を備えられているように思えます。

 

 3月を迎え、卒業や異動を迎える時期となりました。

それぞれの進みゆかれる道が、主の罪の赦しの大きな愛で祝されていますように。

主に遣わされていく者がパンの奇跡を味わったように、溢れる神の恵みに包まれますようお祈りいたします。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年3月5日 復活前第5主日(受難節第2主日)

 

説教  「見分ける」

聖書 ルカによる福音書 11:14~26  ヨハネの手紙Ⅰ 4:1~6

 

 先主日の悪魔の誘惑に続き、復活前の2番目の主日は「悪と戦うキリスト」という礼拝主題です。

主イエスが対峙するのは、誘惑する者、悪しき霊だけではありません。

立場の異なる律法学者、ファリサイ派の人々がいます。

このベルゼブル論争では、群衆の一部が立ちはだかります。

 

 主イエスの奇跡に対して、群衆の中のある者たちは、、その力が神からではなく、悪霊によるものだと主張します。

人は都合のよい口実を設け、自分の主張を打ち立てることは珍しくありません。

侵略の戦争でも、正義の旗のもとと言うこともできます。

見極めること、見分ける事は難しくもありますが、それは求められています。

信じることも、やはりそれが必要でもあります。

本日のヨハネの手紙では「確かめなさい」と勧めています。

真理の霊と、人を惑わす霊とを見分けることができると教えます。

 

 その鍵は、ヨハネの手紙では「イエス・キリストが肉となってこられたことを言い表すこと」とあります。

神の子が、人の子として歩まれ、十字架の死において、全ての人の罪の贖いとなられました。

その十字架のイエスを救い主と告白し、兄弟、隣人を愛していくことが、真実の霊によると手紙は教えます。

主イエスの十字架を軸に、神の愛をこの身に受け、その愛を自分だけでなく、兄弟を愛することに向けてゆく。

これがヨハネの手紙の異なる誤った教えに振り回されない教えです。

 

 主の十字架への道は、自分のために神の愛を語るのではありません。

罪人と見なされていた多くの病人たちを招き、罪の赦しの福音を宣べ伝えられました。

神の御業をなし、ただ御自身は十字架ですべてを捧げられました。

このお方こそ神の御子、私たちの救い主であります。

それを告白することによって、私たちも神の民とされてゆきます。

大きな波にもまれ、流されそうになることもあります。

しかし、神の愛によって集められた教会は、この世に錨を下して立ち続け、福音の光を灯し続けます。

 

 これまでのコロナ禍の中、教会はほとんど、人の力になれなかったかもしれません。

今、世界のこの状況の中で、教会ができることは、本当に一滴のようなものかもしれません。

歴史を振り返ると、誤った権力に抵抗できす、追随するような動きもあったかもしれません。

しかし、教会は聖書によって、主イエスの十字架への道を絶えず示されています。

神がこの世界の中にあって、小さき者のためにその命と愛を吹き入れておられる。

そのことを思い起こしつつ、歩んでおります。

 

 そして、私たちも神の広い大きな愛の内に、自分の命が確かにそこにあることを見出してゆきたいと願います。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年2月26日 復活前第6主日(受難節第1主日)

 

説教  「主にのみ仕え」

聖書 申命記 6:10~19 ルカ福音書 4:1~13

 

 春も少しずつ近づき、教会の暦もイースターに向かっての新たな日々となっています。

復活前(受難節)の最初の礼拝では、福音書の箇所は荒野の試みの箇所が与えられます。

そして、これから約40日に亘って主の十字架への道を辿ることとなります。

旧約の申命記6章4節の「聞け、イスラエルよ」で始まる箇所は、最も重要な教えと言われます。

続く13節の「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えてゆく」を福音書の荒野の試みに併せて聞いてゆきます。

 

 福音書の中で、悪魔とのやり取りがあるのは、ルカとマタイになります。

質問の順序の入れ替わりはありますが、その内容は似ております。

「人はパンのみに生きるにあらず」

「主を試してはならない」

「ただ主に仕えよ」

イエスが短く力強く答えられた言葉は、多くの方の記憶に残っているのでないかと思います。

 

 悪魔の誘惑は、神から引き離すことでもあります。

力と繁栄、天使の守りなど、人の心が持つ弱みを捕らえております。

また言葉も巧に、聖書の言葉を引用して誘います。

それに対して、主イエスは神の子として力をお使いになりません。

私たちと同じく御言葉に聞き、御言葉に従い生きる道をもってサタンを退けます。

罪の赦しの洗礼を受け、人の子として歩まれる御子の道。

そして、救いが主の十字架によってなされる神の御業であることが、ここからも感じられてきます。

 

 私たちの信仰の道、教会の宣教にも誘惑があるかもしれません。

申命記に、自らが満たしたのではない財、畑などで食べて満足する時、あなたを導き出した神を忘れてはならないとあります。

豊かさを得ることのできた時こそ注意して、神を忘れることのないようにと教えています。

そしてただ主に仕えてゆくこと。

これがあなたがたの祝福であり命でもあることを申命記全体は今も語っております。

 

 貧しく、力足りない困難な時でなく、むしろ身に余る物を得た時、誘惑の虜となり、道を誤るのかもしれません。

現代で言えば、まさに高度に進化した便利な機器が、生活を様々に助けてくれています。

それに頼っています。

その便利で豊かな物が溢れる今日、私たちを贖いだしてくださった神を見失ってはいけません。

便利さの一方で、確かに暴力や詐欺、人を傷つけ、強奪する事件もまた増えてきているように思えます。

誘惑の物語と申命記の教えは、私たちに「聞け、主の民たちよ」と告げます。

豊かさを自分の手に享受していく時、主なる神を忘れてはなりません、

主イエスが十字架でその命を捧げ、私たちが互いに助けあって生きるようになさったことを胸に刻みたいと思います。

申命記は、寝ている時も起きている時も、この神の教えから離れないように教えます。

 

 弱い私たちが悪魔を退けられる力は、主を思う心。これだけなのです。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年2月19日 降誕節第9主日

 

説教  こんな人里はなれた所で」

聖書 イザヤ書 41:8~164 ルカ福音書 9:10~17

 

 降誕節の最後の主日になります。

先主日の主イエスの御業に続き、本日のパンの奇跡も福音書にあります。

自然に対する主イエスの奇跡も、わたしたちの信仰にとって意味深く感じられます。

嵐に揺られる舟で溺れそうになっている弟子たち。

その姿は、世の様々な事に動揺して悩む私たちに通じているように思います。

「落ち着いて静かにしていなさい。信じなければ確かにされない」

イザヤ書のの言葉も思い起こされます。

 

 パンの奇跡は、とりわけ重要な主イエスの御業です。

4つの福音書全てに出てきて、福音そのものに思えます。

マルコとマタイでは4千人と5千人に、同じように繰り返されております。

弟子たちと初代教会の宣教で、この御恵みが度々体験されたことが感じられます。

 

 ルカ福音書では9章冒頭に12人の弟子を派遣する物語があります。

その後に短い話があり、そしてこのパンの奇跡があります。

物語が間に挟まれているのは、弟子の派遣と帰還の間と関係があるように感じられます。

弟子の派遣とパンの奇跡はどのように繋がっているのか。

繫げて読むと、新たにこの奇跡物語の意味が語られてきます。

本日は、「こんな人里離れた」という言葉を説教題にしました。

弟子たちの派遣も、神の国を宣べ伝えるのも、荒野の果てにも、地の果てまでも、

それらを思い描くと、不思議な繋がりが見えてきます。

パンの奇跡も、ただ人々の飢えに対する奇跡だけではないのは明らかです。

主イエスは、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と敢えて言われます。まさに、弟子たちの働きの場がこのパンの奇跡にあります。

弟子たちは「絶対無理」とそう感じています。

 

 ルカ福音書には、10章に72人の弟子の派遣もあります。

「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように」ともあります。

福音宣教の場、御言葉が告げられてゆく時、そのために働き手が遣わされる時、

わずかなパンしかなくとも、皆が食べて満腹し、残りのパン屑が籠に溢れる。

常に、神の御業が成し遂げられることを聖書は告げています。

それは、宣教が人の業ではなく、神の御業によるからです。

 

 主イエスは弟子たちに「何も持っていくな」と命じます。

伝道が神の御業によることを教えるためです、

それを忘れると、人は恐らく自分の力で成し得たと思ってしまうのでしょう。

教会の礼拝も、私たちの信仰も、主イエスの十字架による罪の赦し。

神の愛と恵みによるものです。

 

 私たちは、なんの功も無いままに、神の恵みを受けています。

そのことが、パン屑が12の籠に溢れると現わされております。

詩編の讃美の言葉を借りるなら「わたしの杯を溢れさせてくださる」となります。

教会とは、まさにこのような処であると思えます。

世の中で見れば「たったこれだけの」「人里離れた淋しい所」に見えるかもしれません。

 

 しかし、全ての教会に神の恵みが溢れております。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年2月12日 降誕節第8主日

 

説教  「神の御心と御業」

聖書 ルカによる福音書 5:12~26 使徒言行録 3:1~10

 

 先主日の主イエスの御教えに続き、本日は主イエスの御業になります。

御業は奇跡やしるしとも呼ばれております。

聖書には、たくさんの奇跡物語があります。

福音書にも主イエスが癒す奇跡もあれば、嵐を静める奇跡、パンの奇跡もあります。

いずれも御教えと併せて福音となり、人々が神を讃美してゆくことで1本の木のように思えます。

 

 信仰もよく言われることですが、喜びと感謝があって、神の恵みの豊かさを生きられる。

そしてその喜びと感謝で、新たに見えてくる世界と光があります。

このことも聖書の御教えと御業に依っていると思えます。

奇跡も、自分の願いが叶えられるかどうかではありません。

自分を超えた神の恵みと罪の赦しが、私たちを新たな命に導いてくれるのです。

 

 使徒言行録は有名な「美しの門」の物語です。

ペトロとヨハネが、足の不自由な人を立ち上がらせます。

主イエスのもとにいる時は、何一つ軌跡をなすことはできなかった弟子たち。

彼らが主の復活の後、「主イエスの名によって」と告げ、その人を立ち上がらせます。

主イエスとの時と同じく、人々の驚きと癒された人の神への讃美も描かれています。

ペトロは言います。

「私達には金、銀はない」と。

持っているのは、唯、主イエスの名による御救いです。

十字架の罪の赦しによる神の招きへと、その人を導いております。

 

 福音書では、重い皮膚病の人の癒しと中風の人の癒しです。

中風の人の物語は、ユニークです。

家に入れないために、友人たちが屋根にのぼり、天井を破り、病人を主イエスのもとに降ろします。

主イエスも、驚かれたでしょう。

主は「彼らの信仰を見て」とあります。

この友人を思う気持ちと、主に癒してもらえるという確信が信仰といえるのでしょう。

主はその病人に「人よ、あなたの罪は赦された」と告げられます。

 

 物語の後半は、律法学者、ファリサイ派の人々との神の権威についての論争になっています。

奇跡と共に安息日論争も出てきます。

癒しの御業が、ファリサイ派の律法と対峙しているのです。

その重い石を払いのけるように、主イエスの御教えと御業は、罪人を贖いだします。

何が神の御心なのか、何が神の御教えなのか。

何がこの人への救いとなるのか。全てその人の命に係わっています。

この人も神の前に生き、神を讃美してゆけると。

 

 失われた羊が、大切な1匹であると教えるのは難しくはないでしょう。

しかし、その1匹の羊を愛し、探し、救い出すことは簡単ではないかもしれません。

この友人たちの姿は、主イエスまでの道を開き、整えてくれた人たちであります。

その道ができ、主イエスの愛が、この人に溢れております。

「天井を破り」は、まさに律法の壁と鎖を解き放つ感じもいたします。

 

 奇跡は、現代の社会の中で消えていったわけではありません。

魔術師や呪術師、特殊な力を有する人がなすのでもありません。

ただ兄弟を思い、彼も神の大切な子である。

その心が、主イエスの名による愛の御業を生み出してゆきます。

障壁は幾つかあるかもしれません。

けれども、主イエスへの道を繋いでゆける友として歩みたいと思います。

 力をあわせて。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代


2023年2月5日 降誕節第7主日

 

説教  「忍耐して実を結ぶ」

聖書 箴言 3:1~6 ルカ福音書 8:4~15

 

    降誕節の終盤には、主イエスの御言葉に続いて、御業が礼拝主題となります。

本日は「教えるキリスト」という主題で種まきの譬と、箴言が与えられております。

 

 かつて神学部の授業で「知恵と預言と黙示」が、課題として与えられた思い出があります。

一般的には預言は、神から民へという方向でいえば上から下。

そして、知恵は普遍的な教え下から上の逆方向のように言われています。

しかし、本日の箴言など、預言者の言葉のようでもあり、混乱したまま発表した苦い記憶があります。

割り切れるほど単純ではない、聖書が持つ歴史や奥深さを実感した経験だったようにも思います。

 

 福音書の種まきの譬えは、共観福音書でほぼ同じです。

しかも、解説まで加わっておりますので、ある意味で分かり切った内容に感じられます。

種は、神の国の御言葉です。

4つの異なる土地は、それぞれの人の状態と説明され、「聞く」ことが勧められております。

 

 4分の3となる地は実を結ばないとの言葉もあります。

種が蒔かれても、幾つかもの障害があり、なかなか実を結ぶに至らないことも示されます。

誘惑も多く、様々な心配や悩みも、現実は抱え込んでいます。

実を結ぶ時は、他のからし種の譬でも、大きく成長して実を結ぶともいわれます。

当たりは少ないが、当たれば大きいのか。

そんな偶発的なものではありません。

 

 見方を変え考えてみたいと思います。

先ず、私たちは蒔かれたものであることであることです。

自分の内にある才能のようなもので生まれたのではありません。

次に「聞く」ことですが、これも簡単なようで難しいです。

自分中心な思いがあると、自分が聞きたいように受け取ることにもなります。

良い地とは、栄養豊かな地というよりも、自分の傲慢な思いが砕かれた心かもしれません。

福音書にも、敬虔さを自慢げに祈るより、罪人の私をお赦し下さいの祈りを神は聞かれるとあります。

 

 更に「忍耐して実を結ぶ」です。

冬の寒さも夏の日照りにも耐える忍耐かもしれません。

神を信じて待つ、ひたすら信じて揺るがない心のように思えます。

神さまが芽を出し、育てて下さることを、喜びを胸に抱きつつ待ち続ける。

きっとこの地上で貧相な地に見られても、神の目からは大きな実を結ぶ地になっているでしょう。

 

 旧約のその初めから、神さまに命の息を吹き入れられ、人は土を耕し、生きるように創られました。

良い地とは、この神さまの守りと恵みの中に、その命を生かされて歩む日々であるように思えます。

この主イエスの御教えのもと、主イエスの御業が、その地に花を咲かせて、実を結ばせてくれますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志 


2023年1月29日 降誕節第6主日(教区交換礼拝)

 

説教  「大丈夫、おいしいよ」

聖書 使徒言行録 10:1~16

   

   屋上で、日差しもポカポカと気持ちよくて、つい我を忘れたような境地に達するというのは、ありそうなことです。

そんな時に、心の中の葛藤が幻となって現れ、それを通して神様の語りかけを聞くということも、ありそうなことです。

 

 ペトロの葛藤はこうでした。

差別はいけない。

神は人を分け隔てなさらない。

異邦人もイエスを信じて仲間に加えられることは、あっていいはず。

でも、それがおなかの底から喜べない。

相変わらず異邦人に嫌悪感を抱いてしまう自分がいる。

 

 幻に見たのは、汚れたものとされた様々な動物たちが、籠に乗せられて目の前に降りてくるというものでした。

異邦人に対する差別意識は、さながら食べ物のタブーのように、こころの奥深くにまで刷り込まれたものだったのです。

旧約聖書の食物規定では、ブタもウナギも食べられないのです。

 

 私たちにとっては、それがおいしい食べ物である以上、そこには合理的な理由などありません。

理屈でなく受けつけないというほどに、それは深い刷り込みです。

私たちの文化にも、暗黙のタブーはあります。

犬やクモをおいしく食べる文化もありますが、目の前に出されたら、ペトロと同じように、勘弁してくださいと思ってしまうかもしれません。

でも、神は言われるのです。

大丈夫、おいしいから、とって食べなさいと。

 

 神様は、心の深いところまで刷り込まれた差別意識を、癒してくださるのです。

私の中にも、ずっと異邦人が住んでいました。

男の子として生まれた私の中に、小さなころからずっと女の子の自分がいました。

彼女は、私にとっても、異邦人でした。

差別される当事者もまた、差別意識を自分の中に取り込んで、自分を受け入れられなかったりするのです。

理屈でなく、私は彼女を忌避し、心の奥に閉じ込めて生きてきました。

私自身が、自分に対する差別意識を打ち破られて今の私があります。

でも、それは簡単ではありませんでした。

でも今は、胸を張って言うことができます。

彼女は私です。差別からの解放は、される側にもする側にも、大きな喜びとなります。

 

加古川東教会 牧師 森なお


2023年1月22日 降誕節第5主日

 

説教 「十字架のキリストを宣べ伝え」

聖書 民数記 9:1523 コリント書Ⅰ 1:19 ルカ福音書4:1630

  

 本日は主イエスの宣教の開始が礼拝主題です。

ルカ福音書では4章になります。

安息日にイザヤ書が主イエスによって朗読されます。

そして、この御言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現したと告げられます。

この主イエスの福音と宣教のはじまりを、コリント書と民数記からも聞いてゆきます。

 

 パウロのコリント書は、主イエスの福音がよくわかる手紙です。

1章の冒頭の挨拶を見てみましょう。

コリントの教会がこの世的な問題を抱えていても「神の教会」であり、キリスト・イエスに結ばれていると書かれています。

パウロの勧めの根幹は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることです。

ユダヤ人が求めるしるし、ギリシア人が求める知恵。

それに対して、パウロは徹底して、十字架につけられたキリストの福音に立ち続けます。

その主イエスからの愛が、民族の壁や律法の壁を超え、兄弟への愛へと結び付けられてゆきます。

 

 民数記の幕屋と雲の物語も見ていきましょう。

幕屋とは神殿の原型のようなものです。

至聖所には神の箱がおかれ、前庭には祭壇があります。

犠牲の捧げ物が焼かれて、煙が天に昇り、雲のようにも見えることも関係しているのでしょう。

荒野の旅の時代、雲はこの民と共にいつもありました。

その雲は神の守りであり、民の神への祈りでもあると思います。

神の臨在としての雲と共に、民は旅立ったとあります。

旅立ったことと宣教の開始に、不思議な繋がりを感じます。

 

 もう一度パウロに戻ります。

彼が告げる福音は、十字架につけられたキリストです。

神の御子が、人の罪を背負って命を捧げられた贖いが、イザヤ書の預言の救いにも重なります。

捕らわれている人が解放され、目の見えない人が見え、圧迫されている人が自由にされる。

この主の恵みを宣べ伝えております。

パウロ自身も、律法からも自由にされたひとりです。

これまで習得してきた有利であったもの一切空しく、塵のように思えた。

それはキリスト・イエスを知る、あまりの素晴らしさゆえだと述べています。

これが福音であります。

 

 私たちも信仰をもって歩んでおります。

それでも、この世、この社会にあって、得ることの豊かさが身に沁みつき、執着の重しを引き摺っています。

福音の前に、ようやく少しずつ、与えられる豊かさに、心の目が開かれてきたかもしれません。

もっと自由に、もっと大胆に、主イエスの恵みに生きてゆくことができますように。

十字架の言葉と福音に立ち続け、主イエスのあとに従ってゆきたいと願っています。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年1月15日 降誕節第4主日

 

説教 「沖へ漕ぎ出し」

聖書 出エジプト記 18:1317 ルカによる福音書 5:111

 

 主イエスの公生涯で、本日は弟子を招く物語が与えられました。

12人の弟子について、共観福音書の中でも微妙に違いはみられます。

最初の弟子たちは、ガリラヤ湖畔の漁師であった4人に焦点があてられています。

12人の弟子の中でも、このペトロ、そしてヤコブとヨハネの兄弟はよく出て来ます。

ヨハネ福音書では、彼らはガリラヤ湖畔の漁師として登場してきません。

ただ、最後の復活顕現の場面では、ガリラヤ湖畔で漁をしています。

主イエスと漁師であった弟子たちとは深い結びつきを感じます。

 

 もう一箇所、与えられた出エジプト記は、招かれ従う場面ではありません。

モーセはひとりで、民の様々な問題を裁く重荷を背負います。

しゅうとのエトロは、役割を分担できる人を選ぶように助言をします。

弟子たちは、主の復活の後、御言葉を宣べ伝えていきます。

使徒言行録では、更に異邦人のために、新たに使徒パウロが遣わされます。

主の福音宣教と。出エジプトの箇所が結び合わされているように感じられます。

 

 ガリラヤ湖畔で主イエスに招かれた弟子たちは、すぐ網を捨てて従ってゆきます。

突然で唐突な行動です。

主にあって救われた者の生き方と言う以外、言い表せないように思います。

クリスチャンになるために、全てを捧げなければならないのではありません。

この私の罪のために全てを捨てられたのは、主イエスです。

十字架にかかられた主イエスを知る。

そして、そのよみがえりが、私たちに新しい命を吹き入れたことを知る。

それが、この弟子の招きの物語だと思います。

 

 弟子は、網を捨てて、主に従います。

主イエスと弟子たちの間には、舟が何度も出てきます。

よみがえりの顕現の場面もそうです。

舟は教会という信仰共同体にもよく例えられます。

5つのパンの奇跡もそうです。

皆が食べて満腹となり、12の籠に溢れました。

今、舟から降ろす網には、破れそうなほどのおびただしい魚が満ちています。

主が共におられることの意味と、その恵みの中で生きる世界、その力を教えてくれています。

 

 「沖へ漕ぎ出し」は、主イエスからの派遣の言葉のように聞こえてきます。

「収穫は多いが働き人は少ない」と聖書にあります。

風を叱り、波を静められる主イエスの御手。

それに守られて、弟子たちは、いつもこの主の招きと派遣の中におります。

「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」

「わたしに従ってきなさい」

主が命の息を吹き入れて招かれる御言葉です。

 

溢れるばかりの恵みの前に、自らの罪におののきつつ、主の赦しの愛を感じます。

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年1月3日 降誕節第3主日

 

説教 「川を越えて」

聖書 ヨシュア記3:1~17 ルカ福音書 3:15~22 

  

  1月6日は、教会暦では公現日であり、博士たちが御子を拝んだ日とされます。

降誕節も3主日目となり、本日の礼拝主題は「主イエスの受洗」です。

主イエスの宣教の始まりとして、全ての福音書が、この洗礼者ヨハネからの受洗を記しています。

礼拝の日課として、詩編、旧約書、使徒書、福音書の4つの書が読まれることが勧められております。

夫々の聖書の箇所は繋がりを持っています。

本日は主イエスの受洗の主題のもと、ヨシュアのヨルダン川の物語も新たに聴いてゆきたいと思います。

 

先程歌いました讃美歌2編の「深い川を越えて」は、黒人霊歌といわれる讃美歌です。

民族差別の社会の中で、信仰の慰めや希望をもって歌われてきました。

歌詞に「深い川を越えて、さあ、行こうよ」とあるように、川は古来、道を閉ざす境となってきました。

その境や壁を乗り越えて、進み行こうよと響いてきます。

 

 ヨシュア記で川の水が分かれるのは、モーセがイスラエルの民を贖い出した出エジプトの海の奇跡に基づいています。

聖書の歴史で、度々、神の救いの出来事は現在化され、繰り返されて描かれてゆきます。

このヨシュアの時もそうです。

そして、預言者エリヤからエリシャに引き継がれてゆく時もそうです。

神の守りの力と共に、新たな道が与えられてゆく。

そのような出来事として、聖書は語りかけます。

 

 主イエスの受洗に戻りますと、これから宣教の始まりでもあります。

それは神の御子が、人の子として歩みゆかれることを告げております。

その始まりに、天が開け(分かれ)、聖霊が降ってきます。

モーセの時、そしてヨシュアのヨルダン川の水が分かたれた時。

それは民にとって新しい道が開かれてゆく始まりの時でもありました。

 

 ヨシュア記を見ますと、神の箱が民の前に在り、民が皆渡り終えるその最後の時まで、そこに在ります。

私たちの信仰の旅路、主がその前を先立ち進まれます。

主は私たちと共におられます。

そして、私たちが渡り終えるその最後の時まで、主は守り続けて下さるのです。

 

 進路を塞ぎ、立ちはだかる川を見ると絶望し、気力も喪失、判断力も萎えることもあるかもしれません。

聖書が示すのは、その川の壁ではなく、主が歩まれた道です。

神の恵みによって、私たちに与えられている進むべき道であります。

その道は細く、その門も狭いかもしれません。

しかし、この道こそが命に通じる道といえます。

主御自身の身体で壁となり、道を生み出してくれているのが、主の十字架による罪の赦しです。

私たちにとっても、まさにこの道が、洗礼によって主に従いゆく道となります。

讃美歌にも「主の救いと平和を、友よ、さあ受けようと」とあります。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2023年1月1日 降誕節第2主日(元旦礼拝)

 

説教 「主にゆだねます」

聖書 サムエル記上 1:20~28 ルカ福音書 2:21~40 

 

 2023年の新しい年が明け、主日の礼拝からこの年の歩みが始まります。

毎年、降誕の主の光のもとに、新しい年を迎えます。

どうしても年が改まると、クリスマスは去り、お正月がやって来るのが日本の社会です。

けれど、降誕日が主日の年は、明けて元旦も主日です。

礼拝によって、御子の降誕から新しい道が続いているように感じられてきます。

 

 主イエスの生涯について、マタイとルカ福音書に降誕の物語があります。

そして直ぐに、主イエスの受洗、宣教になります。

少年期の記述は少なく、ルカにかろうじて12歳の物語があります。

本日はその前の出来事となるマリアとヨセフが幼子イエスを抱き、神殿を訪れる場面です。

シメオンとアンナが、幼子について祝福と預言をいたします。

 

このルカ福音書と共に、旧約のサムエル記も与えられております。

ルカはこのサムエル記の綴る歴史を、どこか土台としているように思えます。

預言者サムエルの生まれる前、ハンナが神殿で祈り、子を宿します。

そのハンナの歌は、マリアの讃歌へと再現されています。

幼きサムエルは、神殿で祭司のもとに預けられて、預言者へと成長します。

幼子イエスの神殿での物語では、律法学者を教える知恵が既に輝いております。

 

 年が明けて多くの方が初詣をする時、教会の礼拝では、幼子イエスの神殿の箇所が与えられます。

似ている点もありますが、違いも感じます。

初詣では年の初めに、厳かな思いを持ちつつ、自分の願い事を祈るために集います。

元旦礼拝では、神を神として、聖書の御言葉に聞き、讃美しています。

ここには、やはり大きな違いがあると感じるのです。

 

ただ、自分たちの信仰が正しく、その他の行為は信仰でないとすることを、神は望まれません。

それは、自分本位で裁くことであり、誤った道に繋がっています。

 

 サムエルの母ハンナの祈りも、ある意味では自らの願いを主に求めました。

主が願いをかなえてくださると信じ、そしてこの子を主にゆだねます。

そのように祈り、主はハンナの願いをきかれました。

私たちもまた、純粋に他の人の為だけの祈ることはできません。

人はそれほど献身的でもないように思います。

常に自分の思い、気持ちに求めているものもあり、それをやはり神さまに願ってもおります。

 

神を信じていることで何が一体、違ってくるのでしょうか。

それは、こんな罪の中にある私たちを、神は憐み見捨てることなく、道を備えて下さっている。

その神の恵みの中に、自分を見ていることではないでしょうか。

そして、その神に私たちは感謝し、ゆだねて歩むことができる。

ここに大きな違いがあると思います。

ゆだねることは、精一杯自分を捧げてゆくことにもなります。

 

聖書に僅ですが、少年イエスの物語があり、そしてハンナの祈りがある。

これは、私たちの信仰にとって幸いです。

自分の願いよりも、遥かに深い神の御心があり、自分が知らない祈りがある。

その祈りにより生かされていることを知らせてくれます。

 

新しい年が、主の恵みを十分に味わうことのできる歩みとなりますように。

1年1年の齢を重ねてゆく私たちですが、次の世代の人に、この神の愛の豊かさ、

そして、信じて歩むこの人生の日々が、如何に幸いであったかを伝えてゆきたいと思います

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年12月25日 降誕節第1主日(降誕祭礼拝)

 

説教 「羊飼いの喜び」

聖書 ミカ書 5:1~3 ルカ福音書 2:1~20 

 

 2022年の最後の礼拝になります。

また降誕日であり、降誕祭礼拝を捧げて、今日から新たに降誕節に入ってまいります。

昨晩の収録礼拝でも、聖歌隊の讃美が今年加わりました。

聖歌隊が礼拝で奉仕してくださるのは実に久しぶりのことです。

この一つでもクリスマスの喜びを感じます。

私的なことですが、コロナの中で作りましたポストカード数枚があります。

その中で詩編102

「後の世代のためにも、このことは書き記されねばならない。主を讃美するために民は創造された」

このみ言葉は、心に強く感じて選んだ聖句であります。

聖書の歴史でイスラエルの民たちも、また主イエスの弟子たちも散らされた時があります。

そして、集められる時があって、主の民となり、主の証人とされてゆくように思えております。

 

 本日はルカ福音書のベツレヘムの羊飼いの箇所であります。

御使いが羊飼いたちに「民全体に与えられる大きな喜びをつげる」の知らせを伝えます。

羊飼いは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけます。

礼拝して天使が告げた喜びに溢れます。

 

クリスマスは、神の御子の降誕の光に照らされ、御子にまみえ喜びに満たされる。

それが何よりふさわしいことであるといえます。

羊飼いだけではなく、星に導かれた博士たちも御子を拝み、宝物を捧げて、喜びに満たされます。

羊飼いには、捧げる宝物はありません。

ただ、御子を拝み喜びに満たされていること。

「自分の体を神に喜ばれるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

ロマ書12章の教えが、羊飼いたちの姿と重なって感じられます。

神の御子の御前に、自らを捧げる喜びが、この羊飼いや博士たちから伝わってきます。

静かな、しかし、力強い自分歩みと全てをもって、この飼い葉桶の御子を讃える喜びです。

 

 ルカ福音書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれてあります。

この世界には神の御子をお迎えする場所もない、

そんな世界に御子はまことの光として世にこられました。

全ての民をその罪から救うために。

その救いとはただ神の憐みによる赦し、御子の命の犠牲によるものです。

この神の愛によって、私たちは自分の生きてゆく居場所が喜びと共に与えられております。

 

 羊飼いも、天使のお告げに最初驚きがあり戸惑いもありました。

「天には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」

この讃美と共に、彼らへのしるしが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」と知らされます。

その不思議なお告げに「さあ、ベツレヘムに行こう」と応えて歩んでおります。

ガリラヤ湖畔の弟子たちも、主の招きに、直ぐに網を捨てて、さあ行こうと従いました。

私たちも、御使いは、救いのしるしを示しております。

あのゴルゴタの墓で、十字架につけられているおかただと。

そして、あの空の墓で、よみがえりの主は告げています。「さあ行きなさい」と。

  

 救い主のご降誕の喜びを心に満たし、私たちも主イエスと共に歩んでゆきましょう。

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年12月25日 降誕節第1主日(降誕祭礼拝)

 

説教 「羊飼いの喜び」

聖書 ミカ書 5:1~3 ルカ福音書 2:1~20 

 

 2022年の最後の礼拝になります。

また降誕日であり、降誕祭礼拝を捧げて、今日から新たに降誕節に入ってまいります。

昨晩の収録礼拝でも、聖歌隊の讃美が今年加わりました。

聖歌隊が礼拝で奉仕してくださるのは実に久しぶりのことです。

この一つでもクリスマスの喜びを感じます。

私的なことですが、コロナの中で作りましたポストカード数枚があります。

その中で詩編102

「後の世代のためにも、このことは書き記されねばならない。主を讃美するために民は創造された」

このみ言葉は、心に強く感じて選んだ聖句であります。

聖書の歴史でイスラエルの民たちも、また主イエスの弟子たちも散らされた時があります。

そして、集められる時があって、主の民となり、主の証人とされてゆくように思えております。

 

 本日はルカ福音書のベツレヘムの羊飼いの箇所であります。

御使いが羊飼いたちに「民全体に与えられる大きな喜びをつげる」の知らせを伝えます。

羊飼いは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけます。

礼拝して天使が告げた喜びに溢れます。

 

クリスマスは、神の御子の降誕の光に照らされ、御子にまみえ喜びに満たされる。

それが何よりふさわしいことであるといえます。

羊飼いだけではなく、星に導かれた博士たちも御子を拝み、宝物を捧げて、喜びに満たされます。

羊飼いには、捧げる宝物はありません。

ただ、御子を拝み喜びに満たされていること。

「自分の体を神に喜ばれるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

ロマ書12章の教えが、羊飼いたちの姿と重なって感じられます。

神の御子の御前に、自らを捧げる喜びが、この羊飼いや博士たちから伝わってきます。

静かな、しかし、力強い自分歩みと全てをもって、この飼い葉桶の御子を讃える喜びです。

 

 ルカ福音書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれてあります。

この世界には神の御子をお迎えする場所もない、

そんな世界に御子はまことの光として世にこられました。

全ての民をその罪から救うために。

その救いとはただ神の憐みによる赦し、御子の命の犠牲によるものです。

この神の愛によって、私たちは自分の生きてゆく居場所が喜びと共に与えられております。

 

 羊飼いも、天使のお告げに最初驚きがあり戸惑いもありました。

「天には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」

この讃美と共に、彼らへのしるしが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」と知らされます。

その不思議なお告げに「さあ、ベツレヘムに行こう」と応えて歩んでおります。

ガリラヤ湖畔の弟子たちも、主の招きに、直ぐに網を捨てて、さあ行こうと従いました。

私たちも、御使いは、救いのしるしを示しております。

あのゴルゴタの墓で、十字架につけられているおかただと。

そして、あの空の墓で、よみがえりの主は告げています。「さあ行きなさい」と。

 

 

救い主のご降誕の喜びを心に満たし、私たちも主イエスと共に歩んでゆきましょう。

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年12月18日 降誕前第1主日(待降節第4主日)

 

説教 「エッサイの株から」

聖書 イザヤ書 11:1~10 ルカ福音書 1:26~38

 

 待降節第4主日(降誕前第1主日)は通常、その週に降誕日(25日)を迎える主日です。

降誕祭礼拝として守られていますが、今年は25日が主日で降誕祭礼拝と同時に、歳末礼拝ともなります。

何年かに1度巡ってきます。

 

 アドベントの第4の礼拝では、御使いがマリアへ現れ、主イエスの降誕が知らされるルカ福音書が与えられています。

どうしてこの箇所ばかりなのかという気もします。

その理由は25日の降誕日を前に守る最も近い主日に相応しい聖書の御言葉にあります。

御使いのお告げがあり、救い主の降誕がまもなくやって来る。

教会暦の深い教えがあることがここにあります。

 

 本日は、旧約のイザヤ書から説教題をとりました。

「エサイの根より」というクリスマスの讃美歌に、馴染み親しんできた方も多いかと思います。

54年版だと96番、讃美歌21だと248です。

「エサイ」は「エッサイ」と変わり、「くすしき花はさきそめけり」は「バラは咲きぬ静かに寒き冬の夜に」

歌詞は少し変わりましたが、イザヤの告げた救い主がお生まれになることが歌われていることには、変わりはありません。

新しい歌詞の「バラは咲きぬ」も、2編の「シャロンの花イエス君よ」の調べも併せて思い浮かんできます。

 

ダビデの父であるエッサイの株はダビデの血筋を意味しています。

長い年月を経ても人々の祈りの中で待ち続けられた救い主がお生まれになる。

まことの神にして、人であるこの救い主が、闇を追い払ってくださる。

私たちの光となることを静かに心に響かせてくれています。

 

 教会の最も大切な祝日は、主イエスの十字架からよみがえりのイースターといわれます。

しかし、イースター、ペンテコステに比べて、クリスマスに圧倒的に沢山の讃美歌が歌われているのは確かであります。

聖書の御言葉によって綴られているものが多く、神の御子の降誕の喜び、光を届けてくれます。

「エッサイの根より」

この1曲からは、イザヤ書の御言葉、ひとつの若枝の芽生えが思い起こされます。

そして、知恵と識別の霊、正義と真実の救いを告げられた喜びが伝わってきます。

平和の君の到来、それは力の支配ではなく、狼も小羊と共にやどる平和であります。

人に仕えることをもって、神の栄光をこの世界にもたらしてくださる。

その御子の降誕を讃美しております。

 

 この小さき御子イエスをお迎えする喜びを失うなら、世界は人の傲慢さの闇が覆われるでしょう。

エッサイの株からのひとつの若枝、その希望が示す先は、ベツレヘムの御子です。

その御子は、あのゴルゴダの丘で人の罪をその身に負い、神の救いを成し遂げられた方です。

そして、私たちは、その神の愛によって生かされている一人であります。

 

 神はその独り子をたまうほどに、この世を愛されました。

その恵みで世界が包まれてゆきますように。 

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年12月11日 降誕前第2主日(待降節第3主日)

 

説教 「ヨハネと名付けなさい」

聖書 ゼファニヤ書 3:14~18 ルカ福音書 1:5~25

 

 御使いがマリアに「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子といわれる」と告げます。

本日はこの主イエスの前に先立つ、洗礼者ヨハネ誕生予告の箇所です。

 

 少し前に教会学校の説教があり、ヨハネの手紙から話をしました。

その冒頭に新約聖書にヨハネと呼ばれる人と、その名による書を説明しました。

12弟子のヤコブの兄弟ヨハネがいて、洗礼者ヨハネがいます。

ヨハネの福音書があり、ヨハネの手紙が3通、そしてヨハネ黙示録。

所謂ヨハネ文書は5つもあり、聖書にはたくさんヨハネが登場します。

 

 本日は洗礼者ヨハネというよりも、先駆者としてのヨハネが主題になります。

マルコ書では、駱駝の毛衣を着て、蝗と野蜜を食し、荒野で叫ぶ人物であります。

少々荒々しい姿です。

外見だけは、墓場で裸になって叫んでいるゲラサの人と、そう大きな差はないかもしれません。

このヨハネをクリスマスに欠かせない存在として、教会は受け継ぎ、大事な道標としています。

全ての福音書は主イエスの宣教の前に、ヨハネを語ります。

ルカ書では、マリアへのお告げの前を同じように先行して語られています。

ヨハネは神の御子の救い主へ導く、悔い改めの預言者です。

道案内であり確かなガイドであることを聖書は教えています。

 

 「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」

山上の説教で主イエスのお言葉もありますが、まさにヨハネは狭き門の扉、命に通じる道であります。

駱駝の毛衣や蝗、野蜜も、ただ常軌を逸する奇異な姿ではなく、あの預言者エリヤの姿が重ねられています。

そしてマラキ書の「彼は父の心を子に、この心を父に向けさせる」の言葉にも、ヨハネの姿があります。

マラキ書は、旧約聖書の最後に収められています。

これまでの長い神の救いの歴史の光りの束を一点に集め、御子イエスの降誕の一筋の光としているようです。

 

 クリスマスに何が相応しいのか。

神の恵みと愛が何処に輝き、どのように働くのか。

それをわたしたちは、驚きをもって受け取るのかもしれません。

その驚きが失望でなく、大きな喜びとなって神への讃美となる時、クリスマスを迎えられているように思えます。

 

 ヨハネは主イエスの前を先駆け、先駆者でありました。

 私たちは、その主の恵みにより命を受けた者であり、そのみあとに続く者です。 

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年12月4日 降誕前第3主日(待降節第2主日)

 

説教 「主を尋ね求めよ」

聖書 イザヤ書 55:1~11 ルカ福音書 4:14~21

 

  アドベントの4つの礼拝の主題は「再臨」、「旧約の神の言」、「先駆者」、「告知」となります。

それぞれ単独にも思えますが、告知以外は「悔い改め」という一本の串でしっかり貫かれているようにも思えます。

それは、一見分かりにくいかもしれません。

後悔や悔悛の字から連想して、悔い改めに、自分を責めて落ち込むような感じを受けるかもしれません。

アドベントの悔い改めは、それとは違いもあるように思います。

打ち沈み、道が閉ざされるような感じは、ここにはありません。

逆に、「主を尋ね求め」また「主に立ち帰る」道が開かれ、その道を進みゆくことになります。

 

 本日の福音書は、主イエスの宣教の始まりの箇所でもあります。

イザヤの預言が安息日に朗読されるなかで、預言者は故郷では歓迎されないとも言われています。

「ヨセフの子ではないか」と。

たかが大工の息子という偏見、自分本位の考えによって、聴くこと、受け入れることが困難になります。

このことに気づかされるのもアドベントの悔い改めのひとつと言えます。

 

 本日のイザヤ書には、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」

「聞き従って魂に命を得よ」とあります。

また神の思いは、人の思いと異なり、それは高く超えていること、そして深いことを示してくれています。

また更に力強く「主の語られる言葉は、必ずその使命を果たす」と、むなしく戻り、消えてしまうことはないと。

 

 「わたしを尋ね求めよ。」、「呼び求めよ。」「神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」

御子を迎えるアドベントのなかで、神様が私たちに告げてくださっています。

 

 ただ、生涯の歩みのなかで、それが神からの真実な慈しみなのか、魂の豊かさを持ったものなのか、なかなか分かり難いです。

そもそも、自分の道すらも見えてこないと感じる時もあります。

神を信じると言いながら、実は、自分を助けてくれる神を信じているにすぎないこともあります。

そんな私たちでありますので、私たちの思いを超えて、神が人を救われるその御業は、測り知れない神の恵みであるといえます。

それが、クリスマスの御子の降誕であり、主イエスの十字架の贖いであります。

 

 私たちにできるのは、主を尋ね求めること、そして、その御言葉に聞き従ってゆくことを望むことです。

そのとき主がその御手で導き助け給う主であることを知ります。

 

 本日の礼拝の主題は、旧約の神の御言です。

私たちは、多くの預言者が命をかけて、主を尋ね求めよ、と教えてくれます。

主が憐み深い神であることを教えてくれています。

心を傾けて聞きたいと思います。

そして、自分の矮小な義が砕かれ、深く大きな神の憐みが、私たちを罪から救い出して下さることを喜びたいと思います。

その恵みを受け入れるなかで、救い主に続く確かな道を進んでゆきたいと願います。

    

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年11月27日 降誕前第4主日(待降節第1主日)

 

説教 「徴」

聖書 エレミヤ書 33:14~16 ルカ福音書 23:25~36

 

 

  アドベントに入り、多くの教会でクリスマスのリースやクランツが本日から飾られます。

喜びの時かもしれませんが、主に立ち帰る悔い改めの期間といえます。

「いつも目を覚まして祈りなさい」

この勧めが、アドベント第1の礼拝に相応しい御言葉となります。

 

 ルカ福音書23章の小見出しは「終末の徴」です。

平行箇所のマルコでは小黙示録とも呼ばれています。

ここには終末の世界を感じさせられる様相がでてきます。

聖書の終末という言葉も理解が難しいかもしれません。

 

現実の世界が滅びる事を、ただ強調しているのではありません。

28節には「頭をあげなさい。解放の時は近い」や「人の子がくる」とあります。

また「神の国が近づいている」とも書かれてあります。

 

 信じない者が滅び、自分たち信じる者だけが救われる。

そのように、自己中心に捉えることは文意ではありません。

イエス様をお迎えすること、そして神様が何を求めておられるのか。

信仰の告白や決断が促されております。

旧約の預言者達が、何度も、御心から離れてしまう民に繰り返し教えている道でもあります。

マタイ福音書25章に「この最も小さき者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」とあります。

これが主イエスを迎えることであり、人の子がくるという意味になります。

 

 エレミヤ書は、その約束の日を解放と希望の言葉で告げています。

「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。

公平と正義、憐れみと慈しみは、主がこの私たちに求めておられるものです。

また神は、それを私たちに捧げてほしいと願っておられます。

それを預言者の言葉で言うならば、孤児や寡婦、寄留者を虐げないで、手を差し伸べて助けることとなります。

 

 アドベントを迎えるにあたり、目を覚まして祈りつつ、救い主をお迎えする。

大切なお客様を迎えるように、心の中を綺麗に整えていくことも間違ってはいないかもしれません。

しかし、主は十字架の救いを成し遂げられた救い主です。

罪人を招くために、最も低くなられた方であることを忘れてはなりません。

公平と正義は、貧しき小さき者が共に豊かに生きられることです。

そのことを、神は求めておられます。

この神の愛を外してしまうと、敬虔さや正しさが、葉だけのいちじくの木の譬のようになることも聖書は教えています。

 

 主イエスの愛が、私たちを罪から贖い、そして互いに赦し合って、生きてゆくことができますように。

この地上にある者が、敵として傷つけあうのではなく、主の平和が成し遂げられてゆきますように。 

 今年の降誕日は12月25日の主日です。

そして今年の最後の主日でもあります。

この降誕日が主日の年度は、翌年(2023年)の元旦もまた8日目の主日となります。   

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年11月20日 降誕前第5主日(謝恩日礼拝)

 

説教 「ユダヤ人の王」

聖書 サムエル記下5:1~5 ルカ福音書 23:32~43

 

 11月の第3主日は、収穫感謝日また謝恩日礼拝として守られております。

今月は第1主日の聖徒記念礼拝もそうですが、いろんな意味で感謝の月と感じます。

自然の美に果実も熟し、稲穂も実りをもたらします。

恵み下さる神に先ず感謝し、また人にも感謝してゆくなかに、本日の謝恩日礼拝があります。

親孝行が子育てに直接よい影響を与えるかどうか分かりません。

ただ、お世話になった方へ感謝と尊敬の思いを抱くことは、これからの人を育てることに繋がっているように思えます。

 

 本日の礼拝の主題は「王の職務」であります。

旧約の歴史で、族長からカナン定着、ダビデ、ソロモンの時代までは、割とすんなり辿れます。

その後の王国時代、捕囚時代、帰還後の神殿再建の時代、そして更に新約までの時代。

流れを把握することも難しく、預言者の有名な言葉だけが、時代背景と関係なく知られているように思えます。

けれども聖書の文書が記述され残ったのは、この霧のかかったような王国時代以降です。

実際の歴史の中でも大きな範囲を占めております。

そういう意味で本日の「王の職務」という主題も、イスラエルの歴史の一つの柱として取り上げられております。

 

 サムエル記では、サウル王がペリシテとの戦いで戦死した後、ダビデがヘブロンで即位します。

しばらく残されたサウル王家と対峙しますが、ダビデが北と南の統一の王となります。

そしてエルサレムに都を定めます。

その後、長い時が経ても、理想の王としての姿が「ダビデの子」や「エッサイの根より」という言葉となり、民の希望と結び付けられてゆきます。

そのイメージには巨人ゴリアトを倒す時にも力によらず、主の名によって勝利を賜るように、主の御守りと祝福が込められております。

イスラエルの民は、長く暗い闇の時代でも、このメシアへの願いを抱きつつ待ち望みます。

それがこの降誕前に与えられている聖書となっております。

 

 救い主がお生まれになった時、東の国からの博士たちも「ユダヤ人の王」を求めて旅をしてきます。

その王は、この世界の最も貧しい姿でお生まれになりました。

その最後は、悔い改める罪びとを「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と迎える王です。

人々に互いに愛し合い、赦し合うことを教え、自らの十字架の死をもって、全ての人の救いを成し遂げられた王です。

この世の中で、権威や武力、数の多さなどで人々を支配のもとにおこうとします。

聖書が示すまことの王は、いばらの冠をかぶせられ、十字架の姿で、罪の私たちを神の子としてくれました。

この御救いは、私たちを分け隔てず、結びあわせ共に仕え、生きる者としてくれます。

 

今年も、アドベントを迎える時となりました。

本日の主の十字架の隣にいる二人の対照的な姿から、私たちも砕かれた心をもって、主をお迎えしたいと思います。

    

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年11月13日 降誕前第6主日

 

説教 「さあ、行きなさい」

聖書 出エジプト記 3:1~15 ルカ福音書 20:27~40

 

 創世記は族長物語の後、ヨセフの物語となります。

ヤコブと兄弟たちが、エジプトの地で大臣となったヨセフを頼って移住するところまで描いています。

その後の出エジプト記にモーセが現れます。

エジプトの地で苦役に苦しむ同胞イスラエルの民を引き連れ、約束の地カナンに向かう荒野の旅と幕屋の説明が書かれています。

 

 モーセはエジプト脱出だけでなく、荒野の旅、幕屋の礼拝、十戒の授与と実におおくの重要な役割を担っています。

主イエスの受難前の山上の変貌の箇所でも、モーセとエリヤの姿が現れております。

このモーセが神の救済の歴史の頂きの一つであるといえます。

 

 そのモーセの物語のなかで、出エジプト記3章は、神がモーセを遣わされる箇所になります。

預言者として立てられてゆく召命の箇所であり、遣わされてゆく大事な場面です。

ただ、モーセは、ここで勇ましくその神の召しに応えてはいません。

その逆のように見えます。

尻込みをして、「どうして」と問うて、人々は自分の言う事など聞き従わないだろうと悪い予想というか、心配をしています。

よく言えば慎重、悪く言えば臆病となるかもしれません。

モーセとのやりとりで、神も最後にはやや苛立ちも込めているように感じられます。

 

 このモーセと、聖書が描くあのモーセの姿。

それは様々な課題を負い、難局と困難の中を進みゆく姿とは別人のようでもあります。

しかし、その相反するような姿に、真実もまた見ることができます。

尻込みをするモーセによっても、わたしたちはどこか励まされてゆきます。

いろんな理解も可能でしょう。

小心者のモーセが神の力によって、大胆な指導者に生まれ変わったと見ることができるかもしれません。

けれども、その理解も人間としての資質の向上の評価のようであります。

もっと素朴に、弱く悩み疲れ果てるモーセの姿を聖書から感じ取っていいかと思います。

そんなモーセに神は「さあ、行きなさい」という御言葉で遣わされます。

それは、全ての人に向かっての神の招きであるように思えます。

 

 「行きなさい」と遣わされる場と道。

それは、私たちにとっては、主イエスの「わたしに従ってきなさい」と招かれるその場その時であり、その道でもあります。

神はアブラハムを選び、その信仰の旅路を導かれました。

そして、モーセを通して、その御救いを私たちに示しています。

憐み深いその神は、荒野では雲の柱、火の柱、天からのパンでその民の道を守ります。

決して民を見捨てることのない神であります。

独り子を捧げてまでも、このわたしたちを深い罪から贖い出して下さる神であります。

 

 神によって造れられた人の幸いも、このまことの神が愛の神であることを、自らの命で感じとることであります。

そして、その恵みが人を活かしてゆく力となります。

モーセは「どうして」と尋ねましたが、聖書全体がそれに応えています。

 神の愛と選びが、ゆるぎなく貫かれていくのだと。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年11月6日 降誕前第7主日(聖徒記念礼拝) 

 

説教 「マムレの樫の木の下で」

聖書 創世記 18:1~15 ロマ書 9:6~12 ルカ福音書 3:7~14

 

 カトリックには1年を通して聖人の日があります。

11月初めの日を全ての諸聖人の日としたのが、本日の聖徒記念日の元になっております。

日本の風土に併せて、9月彼岸の日の近くに永眠者記念礼拝をもつている教会もあります。

帰省が多い夏のお盆の時期に併せて、記念礼拝を守っている教会もあります。

 

 この1年に召された方々と、これまでの天上にある多くの聖徒の群れを覚えて、本日礼拝を守ります。

また午後には、猪名川での墓前礼拝を行い、教会員ご夫妻の御納骨もさせていただきます。

 

 讃美歌394番に「信仰うけつぎ」という曲があります。

各節の繰り返しは「信仰うけつぎ今日も進みゆこう」です。

私たちの信仰も受け継がれてきたといえるかと思います。

聖書もまた、語り伝えられてきた神の御救いの業と福音であるといえます。

 

 本日は教会暦の箇所によって、アブラハムを通して「神の選び」という主題となります。

信仰の父と呼ばれるアブラハムの物語を聖書から聞き、信仰の旅路を歩んでこられた多くの聖徒たちを思い起こしたいと思います。

 

 アブラハムは、信じて義とされたことで取り上げられる箇所もあれば、行いの模範として取り上げられている箇所もあります。

まさにアブラハムが始まりと見られているのでしょう。

今日の創世記のマムレの樫の木では、そのアブラハムと妻サラに、イサクが生まれることを御使いが告げます。

サラが笑った、笑わないというやりとりがありますが、これはイサクの名前(笑い)と重ねられております。

別な箇所(17章)では、アブラハムも笑っております。

イサクの名の意味(笑い)が、不思議に強調されているように思います。

ここに注目せずにはおれません。

アブラハムからイサクへ、またヤコブへというアブラハムの信仰の旅路とその係りにも思えてきます。

信仰の旅路は、約束と祝福であります。

同時に現実には困難と労苦の山と谷、光と影の道でもあります。

そこでは笑いが、神の見えにくい御手から離れないで歩むことのできる力であるようです。

アブラハムからイサク、ヤコブへと繋がるその道は、この笑い(イサク)が連結の困難な役目を担っているようにも思えます。

そして、神の祝福という約束が、何世代にも渡り、この人の世と人の歴史の中で根を降ろし、実を結んでゆけるように感じます。

 

 信仰は、時にゆき過ぎて偽善や他者への裁きも生まれます。

ルカ福音書、洗礼者ヨハネの言葉はそれを教えています。

謙遜に神の前に歩むこと。

人の世で欠けや失敗があっても、互いに助けあって結び合わされてゆくことをアブラハムの旅から学べます。

私たちに神の愛を示して下さった信仰の先輩たちは、キリストの招きに従い歩みました。

その旅路が神の恵みであったことをこの礼拝で感じたいと思います。

そして、神の栄光の為、私たちも尚、その道に続きたいと思います。

それが後の人たちに福音を伝えていくことに繋がることを信じて。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年10月30日 降誕前第8主日

 

説教 「契約のしるし」

聖書 創世記 9:817 ローマの信徒への手紙 5:1221

 

 先主日より降誕前の教会暦に入りました。

本日は創世記のノアの物語を中心にきいてまいります。

創世記12章までには幾つかの物語が続きます。

アダムとエバ、そしてカインとアベル。

系図もまじえながら、ノアの物語が比較的長くあり、最後はバベルの塔の物語です。

いずれも人の罪を中心に描いているといえます。

その罪とともに、またその人を造られた神の思いも記されています。

 

新約聖書では創世記の物語を解釈し、パウロも引用して教えたりします。

基本は罪の起源や神に背いたことを強調し、主イエスの恵みを教えているように思えます。

その影響も私たちは受けております。

創世記は、人について実存、そのありのままの姿を描いていることを、かつての神学部で学びました。

それは今も私の中で変わらず、聖書の理解の土台にもなっております。

そういうなかでこの創世記の物語から気づかされることがあります。

人の罪と人と土との関係、人と人との不和、その混乱の中に彷徨います。

しかし、ヨセフと兄弟との和解のように共に生きることもできる希望も与えられています。

 

 ノアの物語も、これは洪水のさばきと共に、箱舟という神の救いの二つが合わさっています。

契約のしるしである虹も、天と地を結ぶ象徴としてでてきます。

それは、地にある人の罪と、天の神との懸け橋のようであります。

人の罪と土の関係が、まだこの物語にも続いているように思えます。

変わった理解かもしれませんが、洪水とは耕地が水に飲み込まれてしまう状況でもあります。

土に生きる人が、そこで生きられなくなった状況です。

神につくられた人の罪であり、その罪の姿に神は創造を悔い、滅びを決められ全てを一掃しようとされます。

しかし、そこにも、なんとか人を救う道を残されます。

神は憐みの箱舟を、その人のためにおかれることがこの物語には記されています。

 

 福音書にも、主イエスと舟の乗り込む弟子たちの姿がよく描かれます。

教会も舟に譬えられますが、主イエスを見失うと、嵐と風に流されてゆく舟であります。

箱舟も洪水のなかで、40日という期間が彷徨います。

人は自分自身で進む方向が決められない時もあります。

でもそのような時にこそ、心が何をみて、どこに向いているかは大切です。

実際に進むことはできなくても、それは静かな推進力となります。

信じて待つという力です。

 

 やがていつか嵐がおさまり、鳩がオリーブの葉を運んで希望を告げる。

その時がやって来ることを、待つことが信仰になっていくといえます。

信仰は揺ぎ無い信頼と捉えられるかもしれません。

別な言い方をするならば、この私の罪の中に、神は豊かな憐みでもって御赦しの救いをもたらしてくださる。

これが私たちに信じられることとなります。

それが主イエスの救いにもつながっております。

 

 私のこの罪の中、この私の罪ゆえに、神の憐みで御救いの手が差し伸べられる。

この罪の思い無しには、神の御救いも希望もないことが示されてきます。 

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代


2022年10月23日 降誕前第9主日

 

説教 「嵐の中から」

聖書 ヨブ記 38:1~18 ルカ福音書 12:13~34

  

  教会暦は、本日より降誕前節に入ります。

教会暦は1年のサイクルですが、聖書においては、始まりはこの降誕前第9の主日です。

そして、聖霊降臨節の最後の主日の週で終わると考えられます。

最後の礼拝主題も天の国籍でありますので、まさに1年の礼拝のまとめのようにも思えます。

本日の礼拝は、特に大きな節目を感じる日ではないかもしれません。

しかし、礼拝を守り与えられる聖書において、まぎれもなく始まりであり、主題は創造になります。

 

 創世記1章の天地創造、2章の土から人の創造もありますが、神の新しい招きにより生きる命は、常に何処でも新しい創造の箇所になります。

主イエスに弟子が招かれる箇所や、また罪赦され喜びに満たされる箇所も、みな新しい命を語っています。

 

 本日、旧約のヨブ記は知恵文学であり、独特の書です。

義人といわれるヨブが苦しみを受けます。

その苦しみを神に訴え、ヨブを諭そうとする友人たちとの知恵の応酬です。

ヨブは彼らの言葉に納得せず論駁し、神は沈黙しています。

しかしヨブ記の結び、嵐の中から神の答えがあります。

人の知識も理解も限りがあり、神の創られたこの世界の全てを人は知っているわけではない。

多くの不思議の前に、自らの存在を神によって知らされることになります。

苦悩や訴えを通して、この世界は神のものであることを改めて知ります。

そこに神がおられ、また自らの命をヨブは神から再び与えられることになります。

 

神の創造の業について、人の命についてルカ福音書も教えています。

マタイの山上の説教も一部平行箇所になりますが、ルカでは愚かな金持ちの譬に続きます。

どちらも命についての教えであり、愚かな金持ちの譬では、人の命はその所有によらないと警告しています。

持つことにおいて人は安心してしまいます。

その安心は永遠のものでも確実でもないと忠告し、私たちの目を大切なことに向けさせてくれます。

何が、確かなことなのか。

主イエスは、やさしく烏や野原の花を見なさい。

種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持っていない。

野の花もまた働きも紡ぎもしていないけれど、神はこのように守り育てる。

あなたがたにはなおさらではないか

この神の守りと恵みこそが、造られた人との命そのものでもある。

 

 人は賢く考え、物を沢山持つことにおいて、命から遠ざかることがあります。

大切なことを見失ってしまいそうにもなります。

世界には分からないことがあることを知り、超えざる壁や限界を感じて、分かってくることもあります。

失うことによって、逆に与えられることもあります。

自分の誇るべき力が砕かれて、神の豊かな恵みと愛の大きさを知れるかもしれません。

 

十字架の主イエスによって罪赦された、それが私たちのいのちであることを感謝しつつ、主を讃美して信仰の旅を続けてゆきましょう。

今後の礼拝主題は、保存の契約(ノア)、神の選び(アブラハム)、救いの約束(モーセ)です。   

   

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日

 

説教 「ヤコブからイスラエル」

聖書 創世記 32:23~33 コロサイの信徒への手紙 1:21~29

 

 創世記の族長物語に出てくる人物の名前は変わっていきます。

アブラムはアブラハムに、その妻サライもサラに。

イサクは例外的にそのままですが、その子ヤコブはイスラエルと名が変わります。

 

 ヤコブには、双子のお兄さんエサウがいました。

本来は兄のエサウが、長子の祝福を父イサクから受けるはずでした。

しかし、母リベカがヤコブを偏愛したために、エサウから奪い取ってしまいます。

 

 長子の祝福を得た後のヤコブの人生は、順風満帆ではありません。

エサウの怒りを買い、家を捨てて逃避の旅を強いられます。

避難先のラバンの家で愛するラケルを妻にします。

しかし、姉のレアも妻として迎え入れねばならなくなります。

どこか成功と喜びの時が、転じて労苦と忍耐に繋がっています。

 

 このペニエルの渡しの物語は、ヤコブが御使いと格闘(すもう)する珍しい箇所です。

ヤコブの人生、心の内面や葛藤が感じさせられる箇所でもあります。

 

 兄エサウとは、祝福を騙し取って以来、離れて暮らしていました。

このペニエルの物語の後に再会と和解があります。

不思議なことですが、ヤコブの息子ヨセフも、兄弟から憎まれて、後に劇的な和解を迎えます。

創世記では、近い関係にある者同士が憎しみ、別離のモチーフが、繰り返し描かれています。

アブラハムと甥ロトもそうです。

イシマエルと異母兄弟イサクもそうです。

兄弟が助け合うのではなく、争いと不協和音の連続です。

創世記がそのように語るのは、人とその罪を教えているからです。

 

 ヤコブと御使いとの格闘の物語は、内面にある兄弟との葛藤や、自らが生きてゆくことを見つめる深層を語っているように思えます。

そしてヤコブが逃げずに、御使いと顔と顔を合わせて組み合う様子に、必死で神の祝福を求める姿を感じます。

神はヤコブをイスラエルとして祝します。

朝の光が差し込み、足をひきずる傷を負いながらも、どこか清々しい思いで立ち上がり、歩んでいく姿に見えてきます。

 

 コロサイ書では、キリストを宣べ伝える時に労苦と喜びが記されています。

わたしの内に力強く働くキリストの力によって闘っているとあります。

 

 愛を諭し、教えてゆくその道は、確かに労苦の道です。

キリストの力で闘うとは、相手を傷つけたり攻撃したりする闘いではありません。

祝福して下さるまでは離しませんというヤコブのように「求め、祈り、訴える」

自らの内なる戦いであります。

私たちも壊れやすく破綻しやすい人の世の中に、神の僕として遣わされています。

ヤコブは力を尽くして疲れた中で、夜の明ける朝の光を身に受けました。

私たちもキリストのよみがえりの光と命を受けて、今日一日を、そして新しい日々を歩んでまいりましょう。 

 

 10月第2主日は神学校日礼拝です。今年は次主日に神学校日礼拝として守ります。   

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日(世界宣教の日礼拝、世界聖餐日礼拝)

 

説教 「過越の犠牲」

聖書 出エジプト記 12:2127 ヘブライ人への手紙 9:2328 マルコ福音書 14:1026

 

  10月、11月は教団の教会行事が集中しております。

本日は世界聖餐日礼拝、世界宣教の日礼拝であります。

宣教と聖餐が結び合わされているのは意義深いことです。

福音の宣教は、互いにキリストのからだの一つとされること、重荷を負い合い喜びを共にするなかで宣教の豊かさに与ってゆきます。

私たちの教会でも、本日から礼拝の中で讃美を捧げることができる喜びに感謝しています。

長い忍耐の日もあり、期待や時に残念な思いも持たれかと思います。

主が共にいてくださることを信じつつ、この世の風に揺られながらも、宣教の旗を掲げて航海を続けてゆきたいと願っております。

 

 本日は、そのようなこれまでの日々を少し重ねながら、過越の歴史、意味をきいてゆきます。

言葉としては聞いており、意味もなんとなく分かっている方が多いかもしれません。

けれど近くもあり、どこか遠くでもあるような感覚かと思います。

毎主日礼拝の原点は、主の復活日、イースターであり、その復活日は、概ね旧約の過越の祭の時期を踏襲しています。

またペンテコステはその過越の祭りから7週目、50日目の7週の祭りとやはり時期を同じくしております。

今の礼拝の上流をさかのぼっていくと過越の祭が、湧き出る清水のように存在しています。

 

 主の十字架の贖いが、私たちの罪の赦しであります。

主の贖いの死と復活により、私たちに新しい命が吹き入れられています。

その主の十字架の贖いは、遠い昔、エジプトの地での過越と係わっております。

ファラオの支配のもとにあるエジプトで神が災いを下されます。

鴨居に血が塗られたイスラエルの民の家だけは、その災いが通り過ぎてゆきます。

これが過越の名前の由来となっています。

その塗られた血は、ペンキの塗料でもなければ簡単に貼れるシールでもありません。

動物の犠牲の血であり、命となります。

その捧げられた命と、神の救いにより、約束の地へ向かうことができた。

その経験を自分たちのアイデンティティとして、子どもたちに感謝と共に伝えてゆく。

それが旧約の信仰の大きな柱となっています。

 

新約聖書のヘブライ人への手紙もヨハネ黙示録でも、キリスト・イエスがご自身を捧げられた贖い主として教え、聖なる神の小羊として描かれております。

十字架の恵みを、今も教会は、礼拝の中で、特に聖餐のなかで受け継いでおります。

コロナ禍で中断はしていますが、信仰共同体にとって、欠くことのできない主の恵みです。

聖餐に預かっていくことが私たちの信仰の告白でもあります。

教会の礼拝の生命的な根源であることは確かです。

私たちは、主の復活の新しい招きの御声に従い、その大きな愛の御手で導かれています。

それは過越の犠牲、主が私たちの為に命を捨てられ、血を流されたことに基づいています。

その神の愛によって生かされている者は、自分の罪の中に、大きな神の赦しの愛に満たされて、互いに愛し合うようにと遣わされてゆきます。

贖いの主を信じて。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日

 

説教 「愛の共同体」

聖書 申命記 15:1~11 コリント書Ⅱ 9:6~15 マルコ福音書 14:1~9

 

 先主日の捧げ物に繋がりますが、福音書の香油の物語、申命記は隣人への負債の免除、コリント書もパウロが捧げる時の心構えを教えています。

どの箇所にも、共通する事柄は「惜しまず」です。

申命記も「与える時に、心に未練があってはならない」とまで書かれてあります。

 

香油の物語では、捧げた女性に対し、何人かが、なぜ無駄使いをするのかと彼女を責めています。

売ってお金に換えると貧しい人に施すことができたと言います。

主イエスは、彼女をかばい、福音が宣べ伝えられる所では、彼女の行いも記念として語り伝えられるだろうと言います。

 

 貧しい人に施すことは、律法でも教えておりますが、時に、責めた人の言葉にあるように他の人を非難するような偽善と絡んできます。

言葉の奥にある真意は何か。いったい神さまは、何を願われ、よろこばれるのか、それが大事なことです。

 

 ただ香油を売って貧しい人に施しをすべきだという人もまた、同じく神の名のもとに正しいことと主張とします。

ここでの分岐は、正しいか誤っているかではありません。

神が望んでおられることと、自分が信じて歩む生き方が分離してないか問われているように思えます。

 

 申命記15章は、負債の免除(借金の帳消し)を7年ごとに命じています。

安息日の7日目に休まれたことと関係しているかもしれません。

目的は、負債を抱える貧しい者の救済です。

ただそれは逆の貸している方には、踏み倒されることとなります。

悪用して、もともと返す気もないのに借りたなら、今日の詐欺罪にも近いかもしれません。

現実的には、ヨベルの年といわれる7の7倍の年がその負債免除の年で、この7年は教えに留まった可能性も十分あります。

何より、時代や社会が変化しても、隣人、特に貧しい者への思いやりを、神は私たちに求めておられることはしっかり伝わってきます。

「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」の御言葉は、紀元前のこの時から、2022年の現代になって、より鮮明になってきているように思えます。

この世界から貧しい者はいなくなってはいない現実は、神さまの前で言い訳のできない事実です。

そのような社会にある私たち、人の罪の根深さを感じますし、聖書の言葉の近さを思います。

 

 申命記も「それゆえ、わたしはあなたに命じる・・・生活に苦しむ貧しい者に、手を大きく開きなさい」と教えます。

手を開くことは、自らの手を握りしめて自分の物にするという思いの転換です。

その手を開くことは、同時に、心の業でもありますから、心もまた開くことになります。

難しい事かもしれませんが、単純な事と思えます。

自分の物だというその思いが、人に厳しく冷たくなっているといえます。

香油の物語で、女性を裁いた人には、その高価な香油が自分の物のように思えていたかもしれません。

 

わたしたちの豊かさが、手を開くなかに見出されるなら、それは確実に神からの祝福に与っている時であると思えます。

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日

 

説教 「捧げ物」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1:1~10 マルコ福音書 12:38~44

  

 神さまへの捧げ物は、旧約の古い幕屋の時代から、礼拝の始まりでもあります。

王国時代、その捧げ物が形骸化してしまった罪への預言者の言葉があります。

そして、本日の福音書には、「やもめの献金」の場面での主イエスの教えがあります。

また、使徒書に、献金の具体的な勧めもみられ、聖書随所で捧げ物に関して語っております。それらを纏めて、ロマ書の「あなたがた自身を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げない。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝です」の御言葉をきくことができるかもしれません。

 

 人の目を気にしての捧げものや、自己満足的な捧げものへの注意も、本日のガラテヤ書から感じられます。

福音書では、律法学者とやもめの対比を通じて、人からどのように思われるかではなく、まごころをもって捧げられたものを、神は求めておられると教えています。

同じような内容で、ファリサイ派と徴税人の祈りがルカ18章にあります。

徴税人が神の前に悔い改めの「罪人のわたしを憐れんで下さい」と捧げた祈りを神は聴かれたと主イエスは教えています。

 

 これらの聖書の教えは、わたしたちにとって、どこか自明のことのように理解されていると思います。

ただ、捧げ物は各々の自由であって強制されるべきでなく、心を込めていれば十分と結論づけてはいけません。

神が本当に求めておられるものに即しているかを、常に問わねばならないと思います。

 

 旧約も、神への捧げ物と隣人と共に生きることとはつながっております。

捧げ物が、神の恵みに対しての応答であり、神の愛を共に生きてことの実践でもあります。

行為において、人は義とされてゆくのではありません。

捧げ物が、神の義を、人が助け合い、支え合うことを通して、その根をしっかりとおろし、実を結ばせてゆくように思えています。

 

 捧げ物に関して、意外と知られていないのが、パウロの献金ではないかと思います。

実は彼は、アカイア、マケドニア地方からの献金を集め、エルサレムへ届けにいっております。

現代の感覚だと、都エルサレムから、地方の貧しい教会への応援として献金が届けられるのが自然に思えます。

しかし、初代教会の時代、地中海の豊かな都市からの献金がエルサレムへと、パウロによって捧げられていたのです。

そして、有難いはずの献金は、異邦人からの献金ということで拒否や抵抗にあい、パウロは捕えられます。

 

 捧げ物によって、感謝されるどころか、命の危険にさらされています。

理解しがたい現実です。

そこまでしてなぜ献金を捧げるのか。

ここにも神への捧げ物が姿をもってみえてきます。

パウロが危険を覚悟して、それでも捧げているのは、パウロの信仰の生き様でもあります。

この身にこの捧げものが、主イエス・キリストの愛に生きていることと切り離せないのです。

それがわたしたちの捧げ物であるようにも思えます。

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日

 

説教 「憐みに胸を焼かれる」

聖書 ホセア書 11:1~9 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:27~13:13

 

 キリスト教では、基本的に「神は愛」と標榜しております。

ヨハネの福音書やヨハネ書簡のように、それを言葉で告げている箇所もあります。

福音書の迷子の羊の譬のように羊飼いの姿や、帰ってきた放蕩息子を抱きしめる父親の姿に、神の愛が物語られているところもあります。

そういう意味では、聖書はあらゆる場面で、私たちが尋ね求めさえすれば、神の愛を語り掛けてくれているように思えます。

 

 それはわたしたちの親と子の関係にも似ているかもしれません。

普段の生活で、あまりに近すぎて、親からの愛を感じることは稀かもしれません。

なかなか見えてはこないけれど、しかし親と子は、どれだけ大きな愛の中にいるか、言葉では言い表せないものがあると思います。

そのような大きく深い神の愛を聖書は語っております。

 

 ホセア書の11章も、神の愛の深さを語っております。

その大半は、神に背く民の罪に対する断罪の厳しい言葉であります。

しかし、その言葉の奥に在るのが、民を思う胸を焼かれるほどの愛であることがはっきりとわかります。

自分のことのように感じ、自分でもどうしようもないほどに、神が心を裂かれています。

民の罪を思い、民を見捨てることのできない神の御苦しみを、この預言書はあからさまにそれを告げています。

 

 新約聖書に「共に苦しみ、共に喜ぶ」という教えもあります。

まさに神がその罪深い民と共にあることがわかります。

愛は、教理的な一面ももっています。

だだ、上から教えるだけではないことは、この神の共に悩まれる言葉からも感じられます。

感情的ともとれます。

ただ感情的といっても移ろい、変わりやすいのではありません。

痛みを共に感じるそのような揺れる心でもあります。

そのように愛の神は、どうしようもない人の罪に自分の心を重ね、共鳴します。

そしてそのような神だからこそ、わたしたち罪びとが新たに造りかえられてゆきます。

 

 ゴルゴダの丘の主イエスの十字架の暗い打ち捨てられた姿に、神の御救いあります。

人の罪が赦されて、主の復活と共に、愛に生きる者とされてゆきます。

私たちの命の源は、まさにこの神の愛と赦しであります。

 

 コリントの信徒への手紙のⅠの13章は、愛の讃歌と呼ばれています。

しかし、そこに並んでいるのは、「しない」という自らを制する否定的な言葉です。

自分が高められていくことを、愛は目指していないからです。

人と共に生かされてゆくなかに、愛は、それを最高の道として私たちに示します。

その前の12章もみてゆきますと、身体の譬があります。

私たちは、キリストを頭として互いに結び合わされている身体の部分であります。

そして、むしろ弱い部分が必要であることを教えております。

それが教会での働きであります。

全ては神の栄光のために用いられております。

その先に愛の讃歌があります。

神は、そのように私たちの罪に胸を焼かれ、見捨てることができない方です。

即ちこの世の全ての人が、皆この神の愛にある兄弟姉妹、家族なのです。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日(振起日礼拝)

 

説教 「隅の親石」 

聖書 イザヤ書 5:17、使徒言行録 13:4252,マルコ福音書 12:112

 

  9月の最初の主日を振起日礼拝として守っております。

これからの秋の日々を迎えて、心を新たにしつつ、共に主の御手に養われる群れとして歩んでゆきたいと思います。

 

 本日の説教題は「隅の親石」としましたが、隅のかしら石とも呼ばれたりします。

私たちも多分聞きなれている言葉だと思います。

創世記の「モリヤの山」もそうです。

一つの場所、地名であるだけでなく、アブラハムの息子イサク奉献の物語が併せて感じられる言葉です。

 

隅の親石も、通常は建物の礎石か、もしくは最後におさめられる重要な石として説明されます。

イザヤ書28章に、主なる神の「ひとつの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の尊い隅の石だ」という預言があります。

これは、神がシオン(エルサレム)に救いをもたらす約束であり、信仰的な意味が加わっております。

さらに新約では、「家を建てる者の捨てた」という言葉が結び合わされ、主の受難と御救を現わす言葉として、ペトロの手紙や使徒言行録にも出てきています。

 

 主イエスの御受難を含めて使われていく時、本日の使徒言行録の箇所はどのように読むことができるでしょうか。

ユダヤ人たちが福音に耳を貸さずに心を閉ざし、使徒パウロたちによって異邦人への福音が延べ伝えられるようになった経緯も、この言葉に重ねることができます。

 

 人は、救いを自分の考えと思いの中、またその延長に求めてしまいます。

主イエスの御救いは、その私たちの思いを超えて働いていくことを、聖書とこの言葉から受けてゆきたいと思います。

驚きと喜び、それが神の恵みが働く大きなしるしでもあります。

 

 福音書のぶどう園の農夫のたとえでは、主人(神)の心を知らず、農夫たちは、主人から遣わされた僕(旧約の預言者たち)を袋だたきにします。

最後には主人の愛する息子まで殺してしまいます。

その農夫たちの行動は、自分たちの正しさが絶対だと頑なに思い込んでいたからだと思えます。

 

イザヤ書5章7節の、主は「裁きを待っておられたのに流血、正義を待っておられたのに叫喚」は、言葉の音は似ていながら、全く逆の意味となっています。

ぶどう園の農夫の思いもまさにそのようであろうかと思えます。

彼らの判断は正しくはなく、それは主人の心を悲しませる以外のなにものでもありません。

 

信仰は、時にこのような誤った結果に陥ってしまうことがあるかもしれません。

人が持つ自分の正しさというのは、神の前でも本当に正しいのでしょうか。

むしろ、自分の罪を思い、悔い改めて素直に神の前に低くされる時にこそ、正しさは見えてくるのかもしれません。

この世的な輝きはないかもしれませんが、愛の芽を育くみ、神の光の中で与えられる正しさを見出せるのかもしれません。

「わたしたちの目には不思議に見える」と聖書も教えてくれています。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日

 

説教 「バルティマイの信仰」 

聖書 ミカ書6:1~8 エフェソ書:4:17~24 マルコ書10:46~52

 

 マルコ福音書でも、主イエスのエルサレム入城の前にエリコの町での物語があります。

ここにバルティマイという人が登場します。

ルカでは徴税人ザアカイもエリコの町の人です。

不思議なつながりですが、彼らが主の十字架という扉の前にあって、主イエスに従う道をわたしたちに示してくれているように思えます。

 

 「何をもって、わたしたちは主の御前にいで、いと高き神にぬかずくべきか」とミカ書にもあります。

まさにその答えが捧げ物ではなく、生き方という人の姿で証しされております。

十字架に進みゆかれる主に罪赦されて、そのまことの主に従う喜びが、このバルティマイによっても語られています。

彼は目が見えず、道端で物乞いをしておりました.

人々のざわめきからか、ナザレのイエスが近くにいることを感じます。

そして大声で「わたしを憐れんでください」と叫びます。

彼の叫びは、神が憐れみ深い主であることを既に告白しているようです。

 

 彼は自分の足でイエスの元に行くことができません。

彼にできる唯一の手段は、大きな声で叫び、主イエスに自分の存在を知らせることでした。

彼の声は、恐らく人々の迷惑となったことでしょう。

静けさをかき消すものであり、秩序も乱したでしょう。

そのため人々は彼を叱り、黙らせようとします。

 

 彼は目が見えないという理由で、罪人ともみられていました。

その罪人がさらに迷惑をかけていると判断して、人々は彼を黙らせようとしたのでしょう。

 

 バルティマイはあきらめず叫び、ついにイエスさまに呼ばれます。

彼は喜びのあまりか上着を脱いで、主の前に連れていかれます。

主は「何をしてほしいのか」と尋ねます。

彼は「目が見えるように」と答えます。

そして、主イエスから「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。

目が開かれた彼は、道を進まれるイエスに従ったと物語は結んでいます。

 

 しかし、聴く私たちには道は開かれて、続いてゆく思いがします。

主の十字架への道で、私たちが神に捧げるべきものは、一体何があるのでしょうか。

ただ罪人の私を赦し、憐れんでくださいという祈りだけかもしれません。

 そういう私たちに

「安心しなさい」「立ちなさい」

「そして行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」

と主は言われます

その御言葉は、主に従う全ての者にとっての励ましであり慰めの言葉です。

そして宣教への派遣の言葉でもあります。

 

 わたしたちの信仰の旅路は、この進みゆかれる主に従うことです。

御子の招きの御救いの喜びにあずかること、これが神さまから賜る恵みです。

その神への礼拝こそが、わたしたちの生きている命の証しでもあります。

どうか主を信じ歩むお一人一人の上に、主の豊かな慈しみ、憐れみがありますように。 

 

 次主日9月の第1の主日は、慣例的に振起日礼拝として守られています。

教団の教会行事ではありませんが、共に心を新たにして、秋の日々を迎えてまいりましょう。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


 

2022年8月21日 聖霊降臨節第12主日

説教 「愛の衣に包まれて」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3: 26~29

 

 皆様の関西学院教会の礼拝の講壇に立たせていただくのは、本日が三度目です。

この3月に50年の牧師生活を終えて隠退し、しばらく説教をする機会がありませんでした。

廣瀬先生から説教の依頼をされました時、「歌を忘れたかなりや」という歌を思い出しました。

説教を忘れた牧師なので少し不安ですが、それでもよろしければと、引き受けさせていただきました。

西条八十作詞の「かなりや」では「歌を忘れたカナリヤは、お山にすてましょか いえいえ それはなりませぬ」と続きます。

本日ここに用いていただき感謝です。

さて前置きはそのくらいにして、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 

 私たちの人生には転機というものがあります。

それまでの状況から新しい状況に大きく変化する時、転換する時があります。

人生は大小さまざまな転機の連続です。

入学、卒業、就職、結婚という転機があり、やがて定年退職という転機があります。

しかもそのような人生の途上で、思いがけない転機を経験することがあります。

最初の人アダムと女にも大きな転機がありました。

アダムと女は神様の戒めを破ったために、楽園・エデンの園を追放されることになったのです。

祝福の世界であるエデンの園から追放されて、厳しい人生のスタートをきることになるのです。

遠藤周作は人間の誕生は母の胎内、安らぎの世界から追放されるような経験である。

そして、産声は、この世に生まれた喜びの声ではなく、悲鳴なのだと言いました。

そのような悲鳴を秘めながら、私たちは生きていく、というのです。

ところが、招詞で読んでいただいたように、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記3章21節)というのです。

 

 私たちも平穏な生活から厳しい生活に突き落とされるようなことがあります。

事故に遭って大怪我をすること、重い病を患うことがあります。

職を失うこともあれば、会社が倒産することがあります。

人間関係が破綻することがあります。

愛する者を失うことがあります。

目の前が真っ暗になるような経験をすることがあります。

その時、神様は私を見捨てられたのではないかと思います。

 

 ところがそのような時、神様は救いの手を差し伸べられるのです。

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とのです。

「皮の衣」は第一に立派な高級な衣を意味しています。

第二に「皮」は人間の皮膚とも解されます。

人の肌にぴったりのということ、皮膚感覚に合って着心地がよいということでしょう。

アダムと女のそれぞれの体格にぴったりと合った衣です。

しかも「作って」とあります。

神ご自身がみずから作ってくださったのです。

既製品や規格品でもなく、神の手作りの衣です。

心を込め、愛を込め、祈りを込めるようにして、ひと針ひと針縫われたと想像してもいいでしょう。

 

 神はこれからアダムと女を楽園から追放されます。

アダムと女は神ご自身に対して罪を犯したのですから、仕方がないことです。

人間は自分の行為と言葉に対して責任を問われる存在です。

それほどに重い存在であるということです。

問われるほどに愛されている大切な存在なのです。

罪は罪として、責任を負わねばならないのです。

そこでエデンの東、厳しい現実の世界に追放されるほかないのです。

 

 しかし神は慈しみの神として、そのままでは放ってはおかれないのです。

神は荒野に出て行く二人のことが、気が気でならず、心配でならないのです。

そこで立派な皮の衣、愛と慈しみの衣を作って着せられたのです。

衣・衣服は人間を身体的に保護・守護するものです。

昼の日照りや夜の寒さから守るもの、またサソリのような毒虫、時には野獣の危険から守ってくれるものです。

 

 さらに衣服を着るということはもっと深い意味があります。

衣服は身を飾るものであり、人間のステータス・身分や立場や地位を表わすものです。

普段は粗末な服を着ていても礼装すると自分が立派になったように思えることもあります。

よく牧師はガウンを着ます。

ガウンには中世ラテン語では「皮の衣」という意味があったと言われています。

ガウンはひとつのステータス・立場、地位、資格を示すものでしょう。

一般の社会でも裁判官はガウンを着ますが、権威を象徴するものでしょう。

医師は白衣を着、看護師も看護服を着ますが、それもひとつのステータスを示しています。

その意味で衣服というのは社会性を示すものです。

立場や身分を示すものです。

それだけではありません。

人間は衣服をまといます。

それは人間であることのステータスです。

動物は衣服を着ません。

人間は裸で生まれますが、衣服を着ることの中に人間の尊厳や品格が示されるのです。

 

 創世記9章18~27節に、年老いたノアが酔っ払って、裸をさらけ出していたという物語があります。

ハムが父ノアの裸、醜態を直視したのに対して、セムとヤフェトは後ろ向きに歩いて行って、父の裸を覆ったとあります。

そこでノアは自分の醜態を直視したハムを呪ったというのです。

箴言10章12節に「愛はすべての罪を覆う」という素晴らしい言葉があります。

愛は罪や欠点をカバーします。

この言葉はペトロの手紙一4章8節に引用され、主イエスの十字架の光のもとで深められ、徹底化されています。

 

 この世の中で「高級腕時計は男のステータス」などと言われます。

また高級外車を乗り回すことも社会的なステータスとして大きな誇りともなります。

しかし、それは外面的なうわべのステータス、偽りのステータスです。

ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節に、人間の真のステータスが示されています。

26~27節に「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」とあります。

私たちは「キリストを着ている」というのです。

信仰において、バプテスマにおいて、私たちはキリストを着る者とされます。

「神の子」というステータス、立場・身分を与えられたのです。

むしろ本来、すべての人間は神によって造られ生かされている尊厳ある存在です。

しかし、それを見失い、実際に神に背を向けているのです。

罪を犯して怒りの子、滅びの子です。

そのような人間が、キリストにおいて神の子という最高のステータスを回復していただいたのです。

神はご自身に背いた罪深い人間にキリストという愛の衣、命の衣を着せてくださいました。

私たちはこの世の冷酷な罪と死の不条理の中に生きつつも、キリストを着ているのです。

だから罪と欠点だらけのお互いの中にキリストを見ることができます。

見なければならないのです。

 

 カトリックの作家である高橋たか子の『怒りの子』という小説があります。

この小説は京都での殺人事件のストーリーです。

誰の中にも心の奥には怒りの子が潜み、それが何かのことで、うっと出てくると殺してしまう。

人間はそのような怒りの子であるというのです。

美央子という女性がふとしたことで、同じアパートの女性を殺してしまいます。

美央子が下宿していた初子という人の家を訪ねた時、初子は自分の黒いオーバーを貸してくれました。

初子は日曜日に川の向こうに行く時だけオーバーを着ていました。

教会に行く時に着るオーバーであることを暗示しています。

二人の会話の中で、初子が「愛する」という言葉を発します。

美央子は後になってこの「愛する」という言葉を思い出し、「自分一人でないみたいだ」と感じます。

こうして、罪を犯した今も愛の衣・オーバーに包まれている自分を発見します。

怒りの子ではなく、愛されている者としてのステータスを発見するのです。

 

 人はみなどんなに多くのものを持っていても結局、裸で死ぬことになります。

しかし「キリストを着ている」のです。

「着ている」は原文では過去形で、バプテスマ・洗礼において、すでに着ていることを示しています。

神は罪深い者に愛のオーバー、永遠の命のガウンを着せてくださったのです。

そこに神の子、神に創造された者という最高のステータスがあるのです。

それが洗礼の中に含まれている深い意味で、「神の子」という最高のステータスが明確にされているのです。

ただ洗礼は受ければ救われるという、救いの条件ではありません。

洗礼の中に含まれている意味が大切です。

洗礼を受けて教会につながることで「神の子」である命のステータスに気づき、救いの喜びを経験、確信していくことが大切なのです。

 

 最後の転機は生から死への決定的な転機です。

その時こそ、神の永遠の命の衣、愛の衣に包まれる時なのです。

最初の「皮の衣」は羊の皮と考えられます。

主なる神は羊を犠牲とし、その皮でアダムと女のために手作りの衣を着せられたと言ってもよいと思います。

ところが今や「神の小羊」であるキリストが犠牲となって十字架にかかり、肉を裂き、血を流し、その尊い命と血をもって私たちの罪を赦し、愛と救いの衣で包んでくださいました。

私たちは裸で死んでいきます。

 

しかし神の小羊の衣、永遠の命と愛の衣を着せてくださり、神の子というステータスを与え、永遠の命の「相続人」、永遠の愛と命を受け継ぐ者とされているのです。

 

牧師 山崎英穂


2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日

 

説教 「主につき従いなさい」

聖書 申命記 10:12~22 マルコ福音書 9:42~50

 

  律法学者にどの掟が最も大切なのかと聞かれた時、イエスさまは神を愛すること、これが一番大切な教えとはっきりと答えられています。

加えて二番目としては、隣人を愛することと続けられました。

そして、この二つの掟が共にあって一つであり、この二つにまさる掟はなく、全ての掟がここに集約されていることも教えられました。

この二つは、申命記とレビ記からの教えになります。

 

 申命記には、現代に不適合な言葉もなかにはあります。

しかし神さまを求めて生きること、それがわたしたちの信じて生きる道であり、命でもある。

それをしっかりと選び、告白するように教えています。

 

 申命記はモーセの時代を描いています。

それが実際に描かれたのは、王国時代が終わったバビロンの捕囚時代です。

自分たちの国や神殿を喪失して、異教の地で信仰を守り、生きることを求められた時代です。

同じような困難な時を生きる者へ、直接的に語りかけてくれる御言葉として、神の御手の守りと希望の光が申命記にあります。

 

 その教えの柱は、神を愛することであります。

その土台には、神がその愛と憐みのゆえに、ご自分の民として下ったことがあります。

それ故に、あなたがたも孤児や寡婦の権利を守り、寄留者を愛することを教えます。

それが、神を愛することであり、主につき従うことであると告げています。

このことが、イエス・キリストの福音を信じる教会の泉の源となります。

 

 この8月は平和聖日をもって歩んでおります。

聖書の根幹にある神への愛は、自分たちもかつて寄留者であったことにあるともいえます。

だからこそ、寄留者を保護し守り共に生きることを前提として、信仰の課題としております。

現代的な言葉としては、難民や避難民ま、た海外からの就労、留学、寄留の人々かもしれません。

法制度の壁もあるでしょうが、信仰的には同じ社会の隣人であります。

 

 人を偏りみないことや、つまずかせることのないようにと、今日の福音書でも教えています。

厳しい警告の言葉も見られます。

それは小さな者一人をつまずかせることのないよう、この小さき一人の大きさを表わしているように思えます。

彼と共におられ、彼の叫び声を聞き、その助けの手を伸ばされる。

それが私たちの信じる神であり、その愛故に神の御子は私たちの世に来られ、十字架にかかり、神の愛を全ての人に明らかにされました。

 

 神が求めておられること、それは私たちの輝かしい栄誉でもなければ、神に足りないものを補う捧げ物でもありません。

ただ人が互いに愛しあって、いと小さき者の命と尊厳を踏みにじることのない世を捧げてゆくことといえます。

それは実践されてこそ、意味をなしてゆきます。

 

 利己的な私たちであり、日頃から注意と小さな努力を要するかもしれません。

それが福音書でいう塩味の意味のように思えます。

そして、地の塩でありたいという祈りと願いが、主の愛にもとにある平和であると思います

  

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日(平和聖日)

 

説教 「共に苦しみ共に喜ぶ」

聖書 民数記 11:24~29 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:12~26 

 

 本日8月の第1日曜日は平和聖日として守られています。

広島、長崎の原爆投下の日や終戦記念日を迎える月であります。

コロナ禍の中でありますが、各地で平和聖日の集会がもたれ、メッセージが出されています。

ウクライナへの軍事侵攻と、それに起因するロシアへの経済制裁の影響が世界中に及んでいます。

東アジアにおいても、軍事力による支配の強化や拡張が危惧されています。

 

 不安な空気が世界を包んでいます。

3年前に始まったコロナの感染のように、次々と国の壁を越えて、緊迫と緊張の波が押し寄せる感があります。

 

 国際社会では、互いの立場、主張の違いがあり、何事も解決は簡単ではありません。

時には宗教が、国家の戦争に加担してゆく動きもみられます。

その一方で、個人の信仰が平和を模索し、小さな灯を掲げて広がっていくこともあります。

その歩み教会の中にも受け継がれているように思えます。

 

 本日与えられた聖書個所は、この平和聖日に相応しい思いがいたします。

民数記は、モーセのカリスマについてです。

モーセは偉大な指導者であったようにみられますが、また多くの批判にも晒されています。

民たちの山のような問題の解決、トラブルの仲裁という職務も負っていました。

出エジプト記18章では、このままではその重さに疲れ切ってしまうとの助言も受けています。

民数記11章にも民の不満がみられます。

主は、モーセのその霊の一部を70人の長老たちにも分け与えます。

彼らと異なる2人に霊が留まるのを、モーセの側近であったヨシュアは見ます。

モーセを中心にする結束力、モーセの統率力が弱まると感じ、心配して進言します。

それに対し、モーセは自分ではなく、神が民を治められるので、それでよいと答えます。

自分ではなく、民全体の益を望んでいます。

 

 新約のパウロもからだのたとえで教えます。

コリントの教会も内部での争いが絶えなかったようです。

それも教会の姿といえます。

パウロは、その教会に対して、からだのたとえで説明します。

それぞれの異なる働きがどれも大切であり、むしろ弱い部分がかえって必要であると言います。

それは自分達が栄誉を受け、安定していくことではありません。

他者と自分は繋がり、キリストのための一つの身体としてある。

それが確信できた時に、全体がうまく働いてゆく。

そこに愛はまた働いていると教えます。

 

 誰しも自分は大切であり、考える中心に自分を置いてしまいます。

人と比べて、自分が優位にあることが、命の輝きではありません。

共に生かされている共同体の中で、命は本当の力を、愛をもって豊かに発揮してゆくと思えます。

教会も、社会も、世界もまたそうです。

そこにはいろんな異なる人がいます。

その中で共に、心を通い合わせて、生かされていることを感じる。

そのことが平和を結ばせ、困難を乗り越える知恵と力を創造し、神の国の幸いを賜るように思えます。

 

 ただキリストの御赦しを思い、主の平和がこの世界に満ちますように。 

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日

 

説教 「手には剣もなかった」

聖書 サムエル記上 17:41~50 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6:1~10 

 

 ダビデの名前は、旧約のみならず広く新約にも登場します。

サムエル記上は、そのダビデが王となっていく物語です。

ダビデは王位につきエルサレムを都としますが、晩年は実の息子との権力争いな、ど影の部分もあります。

ただ前半は、サウル王に追われながらも、その命を助ける忠誠心や、この巨人ゴリアトを倒す物語など、雄々しく勇敢な姿が輝かしく描かれております。

 

 巨人ゴリアトと少年ダビデの戦いは、神を信じ「主の名によって戦う」と宣言した信仰的な一面だけでなく、当時のペリシテとイスラエルの関係をも現わしています。

 

サウルが、同胞の危機より立ち上がり、初めて王国がイスラエルに誕生します。

その生まれたばかりの小国に脅威となるのは、地中海側の浜辺の都市国家を既に形成しているペリシテという国です。

士師の時代から、ペリシテに攻めてこられては、好き放題に略奪される状況が続いていました。

イスラエルの民は戦うすべを知らず、なにより武器を持っていませんでした。

サウルの王国ができても、剣と槍を手にしているのは、サウルとその王子であるヨナタンだけであった(サム上13章)とあります。

それはペリシテの支配のもと、鍛冶屋がイスラエルにはいなかったからでした。

武器を所有する国と、持っていない民との戦いが、この巨人ゴリアトと少年ダビデの戦いでもあったといえます。

ダビデは羊を守る投石で戦っております。

(ちなみに士師サムソンは驢馬の顎の骨、士師シャムガルは牛追いの棒を武器としています)。

これが歴史の現実であり、立ち向かうことのできないような相手にダビデは挑み、勝利をします。

そして聖書は、その手には剣もなかったと語ります。

 

 コリントの手紙では、左右に義の武器を手にしています。

地上での武器ではありません。

これらは、非現実的な内容であるかもしれません。

しかし武器によって勝利がもたらされるのでしょうか。

人の命を奪い、破壊をもたらすことを今、私たちは知らされています。

 

 ペリシテとの戦いでのイスラエルの勝利は、逃げ隠れて守る勝利であったかもしれません。

しかし、このダビデからより広く示されてくることがあると思います。

臆せずに立ち向かう事、それは神によって怯まずに立つことができることを現しています。

また倒れても立ち上がることのできる力。

忍耐して苦難の中にあっても流されることなく、何が真実であるかを見抜く力。

これらがまさに、主の名によって賜る勝利であると思えます。

 

私たちに与えられている神からの勝利、それは主イエスの十字架でもあります。

死という苦しみのなかで、そこに神の罪の赦しと全ての人の救いが成し遂げられてゆきます。

神の勝利と祝福は、この世界の中で、いとちいさき者を通して、力強く働いてゆくことを、私たちは驚きと喜びでもって受けとめております。

神の平和が、この世界を治められてゆくことをしっかりと見つめてゆきましょう。  

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日

 

説教 「教会と生きる」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:22~24 ヨハネ福音書 14:1~3

 

【1】私と教会

 

 今日は皆様と礼拝を共にすることを大変光栄に存じます。

広瀨先生から大変ご丁寧なお手紙をいただき感謝しました。

私は19歳の時にキリスト教に出会い、クリスチャンになリました。

私の教会は小さな教会で普通の民家を教会にしたもので、畳の部屋を二つ繋げて礼拝できるようにしたところでした。

教会に来る方は経済的に豊かな人は少なく、むしろ貧しくその日の生活をやっと生きているという人たちでした。

小さくても非常に熱心な教会で日曜日には朝の礼拝があり、夕方は、伝道集会があり外に出て路傍伝道をしていました。

夏には天幕を張って伝道するという教会でした。

よく祈りよく伝道し、互いに助け合う愛に満ちた(霊的)教会でした。

 

 私はそんな教会で育ちましたので、教会が好きな人間です。

いろいろの人がいました。

貧しさや病気の人がいたり、人生の痛みや苦しみを抱えながらもみなさん強く生きおられました。

いろいろ痛みや苦しみを持ちながらも教会で慰められ、癒やされ、励まされ、教会を柱にしながら生きている人たちでした。

教会が生きる支えであり、力になっていました。

そんな教会で育ちましたから、今でも教会に私の心が惹かれています。

 

 私の心の中にはいつも問いがあります。

教会とは何なのか。

教会はこの地上でどんな使命を与えられているのか。

教会が成長するには何が必要なのか。

さらに、私たちは何をすればよいのか。

私たち一人一人の使命(役割、責任)は何かと考えさせられています。

神様は私たちに何を期待しているのかと考えています。

 

【2】享楽的都市コリント(国際都市、商業都市)

 

 今朝の聖書箇所は、パウロがコリントの教会に送った手紙です。

教会とは何かを考えさせてくれます。

当時、コリントは国際都市で、商業の盛んな都市で、経済的に豊な都市でした。

各地から人が集まり競いあって活発な活動がなされていました。

商業も文化、学問の栄えた都市でした。

特に、人間の能力や肉体美を賛美し、優れた学問や芸術が生まれました。

 

 このように経済的豊かさと文化的高さをもつ非常に魅力的都市でした。

ただ、経済的に豊かさや文化的高さの陰に、貧しい人や社会から取り残された人がいました。

弱い人、恵まれない人、病人、盲人は排除されていました。

コリントは享楽の都市ともいわれていました。

 

【3】コリントの教会

 

 このコリントにパウロによって教会が建てられました。

AD50年頃の出来事です。

その教会にパウロは手紙を書き、教会のあるべき姿を伝えています。

今朝、私たちが注目したいのは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」という言葉です。

ここには三種類の人が書かれています。

ユダヤ人、ギリシャ人、そしてパウロです。

ユダヤ人はどんな人たちだったかというと、「ユダヤ人はしるしを求める」とあります。

ここでのユダヤ人とはユダヤ教を信ずる人たちのことです。

ユダヤ人は創造の神を信じている民です。

創造の神、絶対者なる神を信じています。

誰も彼も自分は創造の神、絶対者なる神を信じていると言って、自分がユダヤ人であることを誇りにしました。

しかし、言葉だけは言うけれども行いが伴わない人もいたのです。

だから、言うならその「しるし」を見せてほしい。

神様を信じている証拠を見せて欲しいとユダヤ人は考えました。

パウロも「神の国は言葉ではなく力である」(Iコリント4:20)と述べています。

この論理は間違いではないでしょう。

「しるし」の伴わない言葉は意味がないからです。

「しるし」が伴う信仰、つまり神様を信じていることを証する行動が伴う信仰こそ本当の信仰だと考えたことは間違いないことです。

この言葉は私たちの心にも響きます。

 

 ではギリシャ人はどう生きたのでしょう。

「ギリシャ人は知恵を探します」とあります。

彼らは知恵を求めました。

ここでの知恵は、知恵や知識を含む言葉ですが、知識が多いこと、深いこと、誰も知らないことを知っていることに価値を置き、知恵や知識をもつ人を偉いと考えたようです。

ギリシャの文化、芸術、哲学はこの考え方から出たものです。

この考え方は現代人にも通じます。

そして、現代文化がここまで栄えたのは、基本に知恵や知識に価値を置いて新しい知識を求め続けてきたからです。

科学や芸術が発展したのは、ギリシャの文化の影響が大きいことでわかります。

ユダヤ人の宗教的価値観もギリシャ人の学問的価値観も非常に大切なことです。

パウロ自身はこの二つの考え方、価値観、生き方の大切さをよく知っていたことでしょう。

彼はユダヤ人として生まれ、ユダヤ教の教育を受けていたからです。

同時にギリシャ文化も知っている教養人です。

 

 にもかかわらず、パウロは「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」と述べています。

何故でしょうか。

ユダヤ人のように自分は神を知っていると言っても、ギリシャ人のように学問や芸術に優れっていると言っても、尚欠けるものがあるといいます。

コリントの町にも教会にも貧しさ、病い、偏見に苦しむ人がいたのです。

また、誰からも相手にされず見捨てられた人たちです。

その人たちは生きる目的を失い孤独感に苦しむ人です。

その人たちは、年老いて誰からの顧みられずに死を迎えたでしょう。

国際的都市であり、高度の文化を持つコリントの栄光の陰に、苦しみと痛みを抱えた人が見捨てられていたのです。

自分の宗教的立場や科学文化的栄光を誇り満足させても、魂が飢え乾き、今を生きる力に欠け、将来に不安があれば意味がないでしょう。

その宗教も文化も問題があるとパウロは言っています。

 

【4】パウロの宣教の中心

 

 パウロは、別の生き方をすると言います。

「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」

十字架で殺されたキリストを伝えるのだと言うのです。

パウロは十字架につけられたキリストを非常に強調しています。

2:2「イエスキリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と書いています。

「イエスキリスト」ではなく、「十字架に付けられたキリスト」と十字架が強調されています。

 

【5】パウロの教えに対するユダヤ人、ギリシャ人の反応

 

 このようなパウロの教えが他の人にどのように映ったかが描かれています。

V23b「すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」とあります。

ユダヤ人には「つまずかせるもの」とあり、自分たちが聞かされたユダヤ教の教え(律法を重んじる特別の民)とあまりにも違うものでした。

混乱させるものでした。

 

 そして、異邦人たち、ギリシャ人には「愚かなもの」、馬鹿げたものと映りました。

学問、芸術、哲学を重んじる人たちでしたから、十字架にかかったイエスは悪者であり、罪人としか見えなかったのです。

そのイエスを救い主と述べ伝えているパウロは頭がおかしいとしか思えなかったでしょう。

ユダヤ人やギリシャ人にパウロは受け入れられませんでした。

彼らには相手にされず、馬鹿にされたと書かれています。。

 

 パウロが「十字架のキリストを宣べ伝えると言った」のは何故でしょう。

コリントの人々が富を作り、学問や芸術を磨いて築くことは素晴らしい。

しかし、それが人々を幸福にする保証にならないと言いたかったのでしょう。

貧しい人、病人、悲しみにある人がそこに居て見捨てられていることに、パウロの心を痛めていたのです。

富の多い人は富を誇るでしょう。

知恵の多い人は、知恵の多いことを誇るでしょう。

富や知恵を積むために努力もするでしょう。

しかし、その根底には自己中心で自分の能力を誇り、自分のプライドで生きようとする姿勢があります。

自分にしがみつく限り、人間は自分から解放されないのです。

それは「自分という罠」から離れられないのです。

「自分という罠」が私たちから自由を奪い、欲望の虜にしてしまいます。

 

【6】パウロのメッセージ

 

 パウロはローマの信徒への手紙3:25に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために、罪を償う供物となさいました」と述べています。

罪は償われるものです。

キリストは十字架上で私たちの身代わりになって罪を償ってくださったのだと言います。

つまり、イエスキリストは十字架で「私たち」の身代わりとなって死んでくださり救いを成し遂げてくださったのです。

罪あるものの身代わりとなったキリストこそ、救い主だと言ったのです。

 

 今日、ここで礼拝できるのは、イエス様が私たちの罪を赦して「選びの民」としてくださったからです。

キリスト教はイエス様の十字架を信じることで、罪赦されて神の子とされたと信じるのです。

人間は自己中心ですし、欲望に囚われている罪人です。

そうでありながら神の子とされる「選びの民」として受け入れられたのは何故でしょうか。

イエス様の十字架の死という犠牲があり、それが私たちの救いの保証、担保になっているからです。

この救いはユダヤ人、ギリシャ人の区別もなく、知恵があるとか、無学だとか、家柄がいいことと関係がないのです。

 

 パウロが私たちに伝えたいことは、イエス様の十字架の死という犠牲によって、私たちは「神様の子」となれたことです。

私たちは「神の選びの民」として、祝福をいただいて生かされることを教えられています。

このメッセージは病人、貧しい人、世から見捨てられた人の慰めにもなったでしょう。

 

【7】神の教会(教会の使命)

 

 教会はこの世に遣わされた「神の民」の集団です。

教会には神様の使命が与えています。

教会と他の集団の違いは、使命を与えられていることです。

 

 会社は利益を追求します。

楽しみのための趣味の会もあります。

教会という集団は「神様の使命」が与えられて、この世に遣わされています。

それは、この世で苦しみ、悲しみ、一人悩んでいる人にイエスキリストの喜びと希望の福音を伝えることです。

この使命を与えられてこの世に遣わされているということは、この世の苦しみや悲しみを共に負うのです。

弱い私たちは使命を負う辛さ苦しみを常に感じるのです。

 

 私たちは自分の弱さを感じながら神様の助けを仰いで使命を果たすのです。

神様を仰ぎつつ謙遜にされ、信仰を強められてこの世に仕えるのです。

クリスチャンは神様と人々に「仕える」という使命を負っています。

私たち一人ひとりが神様の使命を負っているのです。

この使命を与えられていることを知ると、背筋がピンとなります。

神様に救われたものは、神様のお恵みに感謝しつつ、神様を証する使命が与えられていると教えられます。

 

【8】私たちの使命に伴う困難

 

 パウロは十字架のキリストを伝えると言いました。

十字架で死なれたイエス様を伝えると、反対者がいたり、迫害するものがいます。

イエスキリストに従うことは、痛みや苦しみを負うことです。

 

 Ⅰコリント10:13に「あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう逃れる道をも備えてくださいます。」とあります。

パウロは、IIテモテ4:18で「主は私を全ての悪い業から助け出し、天にあるご自分の国へ救い入れてくださいます」(p.395)と言いました。

また、ヤコブのI:12には「試練を耐え忍ぶ人は幸いである。その人は適格者と認められ神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」とあります。

使命を果たすものには、「命の冠」を与えられます。

使命を生きる教会に私たちは連なり、神の国の一員として生かされていることの幸いを思います。

 

【9】教会と生きる

 

 「教会」とは十字架の死を持って、私たちの身代わりとなったイエス様を神様と崇めて、神の民とされた人たちの集団です。

ただの集団ではなくイエスの十字架で買い取られたというイエスの痛みと犠牲を身に刻んでいる集団です。

自分の力やプライドではなく、イエス様の痛みを知るがゆえに謙遜に、しかし、イエス様が一緒に居てくださるので勇気を持つ人の集団です。

だから、弱った人、助けを必要とする人に仕えるのです。

 

 この世の人生には、悲しいこと、不条理としか言えないこと、納得できないことが一杯です。

しかし、教会は、素晴らしい先人を持っています。

信仰の先人も苦しみや悲しみを経験しながらも、主イエスキリストと共にその生涯を生き抜かれました。

多くの先人たちが神様の元に迎えられたように、私たちにも天国の約束が与えられていることを信じて毎日を生きるものでありたいと思います。

神様からの使命に負って生きるのです。

信仰の先人が遺してくださった霊的遺産を、私たちも次の世代に伝えていく使命を負っているでしょう。

その霊的遺産は目に見ないので、信仰で見るしかありません。

 

【10】まとめ

 

 私が九州におりました時、ある教会の集会に招かれたことがあります。

その当日は、大雨が降り集会の参加者の足が鈍りました。

人が集まりません。

年老いた牧師は気を遣って、私に言いました。

「この教会には祈りの奉仕者が一杯いて、今日の集会のために祈っています」と。

大雨で人が集まらないで心を乱している私を励ましてくださったのです。

私は老牧師の行き届いた配慮に心を打たれました。

 

 集会の時間になり集会が始まっても、確かに席がたくさん空いていました。

それを見て、牧師は会衆に向かってこう言われました。

「大雨で来る人は少なく席は空いているが、空いた席に目に見えない天使が座ってこの集会のために祈っている」と。

その言葉を聞いた瞬間に、その場の雰囲気はいっぺんに晴れて、神様がいてくださると思えたのでした。

 

 空いていると見えた席に天使が座って祈っているという信仰は、祈りを持って教会に仕え、支えている信徒のことです。

このような祈りの使命を持つ人がいて教会は教会の使命を果たせるのです。

私たちも自分に与えられた使命をしっかりと自覚して、教会を立ち上げる一人になりたいと祈ります。

 

牧師 窪寺俊之 


2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日

 

説教 「まだ悟らないのか」

聖書 エレミヤ書 23:23~32 マルコ福音書 8:11~21

 

 多くの預言書に、民が神に背き、異なる神を拝み、神の言葉ではない自分の都合のよい言葉を受け入れてゆく姿が描かれております。

また福音書には、弟子たちが主の近くにおりながら鈍く、ゲッセマネの園では目を覚ましていることができず、眠り込んでしまう姿もみられます。

本日のマルコ福音書に於いても、主の言葉の意味を理解せず、弟子たちが頓珍漢なやりとりをしている場面になります。

 

 主イエスの「まだ悟らないのか」の御言葉に、わたしたちも心を傾けて聴いてまいりたいと思います。

自分は分かっていると傲慢に思う時、自分の計画が順調に運んでいる時があります。

むしろ、それは自分の言葉が中心で、神の御心から遠く離れて流されている時かもしれません。

 

 主イエスが弟子たちと舟に乗る前、ファリサイ派の人々がやってきて、主イエスを試すため、しるし(奇跡)を求めます。

そのことに主は嘆きを感じ、弟子たちに漏らした言葉が、「ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種に気をつけなさい」でした。

これは、直前のファリサイ派の人々が自分たちのために、特別なしるしを求めるそんな信仰を指しています。

しかし、弟子たちは全く違うパンと思い、食事の心配をしています。

そんな弟子へ主は、「分からないか。悟らないのか。見えないのか。聞こえないのか。覚えていないのか」と連呼し、パンの奇跡を弟子たちに思い起こさせます。

5つのパンで5,000人が食べて満腹し、残りのパン屑の籠はいくつあったかと。そして4,000人の時は、いくつあったかと。

 

 パン種から始まり、誤解と無理解の弟子たちへの「まだ悟らないのか」の主イエスの言葉。

そこに、愚かな弟子たちの叱責ではなく、神の恵みの深さを感じます。

この現実の世に、神を見て、神の御言葉を聞き、神の御心を生きるように、と大きく広い御手の導きを感じます。

それは預言者の言葉もそうです。

命に通じる狭き門ではありませんが、まことの神に立ち帰るようにとの厳しさです。

 

 私たちの歩みにも、しばしば困難な壁が生じることもあります。

見えない神を信じる信仰は、すぐに解決を与えてくれるわけではありません。

けれども、そのような時にあって、神はその大切な御子を捧げてくださいました。

この世界の中で、私たちの苦しみや悩みの中に、いのちや愛を聖霊の息吹でもって吹き入れてくださることを信じます。

その大きな深い神の愛の招きが「まだ悟らないのか」の御声であります。

何を見るか、何を聴くか、

その応えは主イエスの十字架と復活の光が、私たちの目を開いてくださるようにとの祈りです。

そして、自分だけではなく隣人も見ることができるように、声が聴ける歩みが与えられますように。

 

 

そして、いつ私たちがそんなことをしたでしょうかという言葉に、神が「この小さき者一人にしてくれたことはわたしにしてくれたことだ」という御声の喜びにあずかりたいと願います。 

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日

 

説教 「バプテスマのヨハネ」

聖書 マルコ福音書 6:14~29

 

 今朝私たちに与えられました聖書箇所は、マルコによる福音書6章の14節から29節になります。

この聖書箇所に、イエスご自身は直接出てこられません。

登場するのは、ヘロデとバプテスマのヨハネです。

 

 この、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネとヘロデの物語は、マルコ、マタイ、ルカそれぞれの福音書に記されています。

このうちマルコによる福音書が最も詳細に記しています。

有名な、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の物語に近い、もっとも詳しい描写がなされているのがこのマルコによる福音書です。

 ここには、ヘロデが「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護したこと。

また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けて 」いたこと。

そして、ヨハネの首を求められたときにヘロデが「非常に心を痛めた」とあります。

 

 このヘロデの心情はなかなか複雑です。

一方では殺したいほど憎々しいと思いながら、ヨハネの言うことを聞きたいとも思い、殺すことになってしまう。

心を痛めているというヘロデの姿は、現代的であり、我々のようでもあります。

 

 私たちは、正しいことをかたる正しいことばに対して、その正しさに恐れをなします。

また、正しいことが私たちの罪悪感をよびさまします。

その辛さのゆえに、正しさを前面に出してくる人間を嫌に思い、耳をそむけたくなったりします。

 

 ヨハネは人里を離れて、荒野で修行生活をしていました。

自分にも他人にも厳しい。自分に対しても厳しさを貫徹しています

そういう近寄りがたいところがあるのかもしれません。

私たちは、もう少し無理なく受け入れられるような正しさを、求めたいのではないでしょうか。

 

 しかし、正しいことばを、完全に退けてしまうことは、たいてい私たちにはできません。

内心では、何が正しいのかよくわかっています。

素直に受け入れられない自分を変えたいとも思っているのです。

 

 そして、ヨハネを殺してまっても、ヨハネが正しいことを言っていることは変わりません。

それは、神様のことばをヨハネは語っているからです。

イエス様の場合も同様です。

十字架につけて殺してしまっても、イエス様の、偽善をあばく正しさ、虐げられたもの、貧しいものへのやさしさは、変わることがないのです。

弱いものの弱さを受けとめる優しくも力強い頼りがいのあるあり方は、変わることがないのです。

 

 神様のみことばは、どうしても聞こえてきてしまうのです。

この16節から29節の箇所でイエス様は直接登場してはおられません。

けれども、ヘロデ王のような人物の心にさえ届く、強力な存在感を発揮しておられるのです。

 

 私たちが現在生きているこの世界も、直接イエスご自身にお会いできるというわけではありません。

けれども、イエス様の強力な存在感を感じることは、確かにできます。

どうか私たちが、この世の理屈にとらわれて反発し「近寄りがたい」と思わず、神様のことばである聖書そのものに立ち返ることができますように。

みことばそのものを受けとめることができるよう、福音そのものを受けとめることができるよう、祈り、願いたいと思います。

 

教師 岩野祐介


2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日

 

説教 「キプロスへ」

聖書 アモス書 7:10~15 使徒言行録 13:1~12

 

 パウロの最初の宣教の旅は、アンティオキアからキプロス島に向かうところから始まります。

その同行者はバルナバ、若いマルコとよばれるヨハネもつれてゆきます。

どうしてキプロス島なのかよく分かりませんが、地中海の島なので、文字通り船出となります。

その後のパウロに、キプロスに特別な思い入れがあったのか。

一通過地点の起点の地に留まったのか。それも分かりません。

ただ、聖霊によって送り出されたことと、偽預言者、魔術師との遭遇が書かれてあります。

 

 「主のまっすぐな道をゆがめようとするのか」と対抗しているような者たちとの出会いが続きます。

呪術的な妨害、ユダヤ的な教えに封じ込めようとする力、華やかなギリシアの知恵の誘惑などが次々と登場します。

様々な力がパウロを取り込んでしまおうと働きます。

その中で、パウロは「十字架の言葉」という福音に立つことを、その身にしっかりと帯びてゆくように思えます。

 

 アモス書の箇所も有名なところです。

預言者アモスが、自分が預言者として立てられた召命の箇所とも言われます。

祭司アマツヤから「ベテルという北イスラエル王国のこの神殿では語るな」と禁じられています。

その口調は「田舎者よ、さっさと帰れ」というような感じです。

それに対してアモスは、「自分は預言者でも預言者の子でもない」と答えます。

自分は雇われて、耳障りのよい言葉だけをいうような偽預言者ではない。

ただ神の召しによって立てられた者であり、その神の言葉を告げている。

そのような意味だと考えることができます。

 

 聖霊降臨の主日に入り、弟子たちが聖霊に満たされ、主イエスを信じる者とされた意味は、このアモスの言葉にも感じられます。

パウロはあらゆる論敵を破っていきます。

それは自身のもつ雄弁さや説得力、力強さだけに依るものではありません。。

自分がここにたつ、これしかない、そのような確かさの力があります。

その確かさには、むしろ自分にとって有利と思えたものは、かえって不要なのかもしれません。

(フィリピ書3章)

 

 アモスの自分は預言者でも、預言者の子でもないという言葉。

それは、祭司アマツヤに対して、この世的な誇りや権威に屈することも臆することもなく、自分を立てられた神の召しにただ従うことを証ししています。

 

 聖霊によって使徒たちは送り出されてゆきます。

キプロス(口語訳クプロ)は、パウロにとってその最初の船出の地であります。

私たちも、時に、自分の原点を振り返ってみてもよいかもしれません。

聖霊なる神が、主イエスの名によって、この世界に送り出してくださったその最初の日々。

もう一度神の恵みを感じさせてくれるでしょう。

新たなキプロスが私たちの前に現れて、主イエスの「わたしに従って来なさい」との御声が、新たな喜びをもって感じられるかもしれません。

その時、いつでも聖霊が助けてくれます。

 

主イエスの十字架により罪の私が救われたという岩を、立つべき処と示してくれていると思えます。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日

 

説教 「ゲラサの地で」

聖書 マルコ福音書 5:120 使徒言行録 16:1624 

 

 使徒言行録16章はパウロたちが投獄されている場面です。

占いの霊に取り憑かれた女性の霊を追い出したところ、その女性で金儲けをしていた者の陰謀により、牢に入れられます。

本日は、この箇所とマルコ福音書のゲラサの地の物語を併せて聞いてゆきます。

すると、まるで様々な色の紐が組み合わされていくような繋がりを感じます。

 

悪霊を追い出すこともそうですが、投獄されたパウロもゲラサの人も鎖で縛られようとしています。

また細かなことかもしれませんが、パウロは衣服を剥ぎ取られ鞭打たれていて、ゲラサの人も裸のようです。

そして、ゲラサの人は自分で、自分の身体を痛めつけています。

 

次にパウロの牢屋は、地震が起こり、鎖は外れていきます。

ゲラサの地では、主イエスによって取り憑いていた霊は豚へと移り、地鳴りのような勢いで崖下に雪崩落ちます。

 

使徒言行録では結びでは、自殺しようとする看守をパウロとシラスが思い留まらせます。

そして、主イエスを信じることで、自身も家族も救われることを告げます。

看守たちは、死を覚悟した思いから、静かに明るい希望の光が見出します。

 

 ゲラサの汚れた霊に取り憑かれた人は、鎖でも繋ぎとめておくことができない荒々しい様相でした。

主イエスによって、その霊から解き放たれると、静かに正気になり、主イエスと一緒についていきたいと願います。

しかし、主イエスは自分の家に帰るように命じます。

そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを知らせなさいと仰います。

 

 不思議なことに、使徒言行録の「信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」との言葉と重なっていきます。

 

 共に悪霊を追い出す奇跡物語のようであり、同時に福音宣教の物語でもあります。

鎖やこの世の縛る力から解放され、主イエスを信じること、家族と共に救われることへと結ばれていきます

 

聖霊降臨祭を迎えて、3度目の主日となる聖霊の働きの中で、この聖書の箇所が与えられております。

縛っていた鎖から主イエスの福音によって、解き放たれたこと。

自分のいる場所、生きる居場所に於いて、神が憐れんでくださったこと。

そして、神の恵みによって、今の自分があることを、喜びをもって生きてゆくこと。

それこそが、聖霊がその人を送り出してゆく力となっていきます。

 

今のこの時、誰も傷つくことのないように、神は、一人一人に生きよと、その聖霊の息吹を吹き入れてくださっています。

私たちの歩む道には、主が先立ち、共にあり、労苦を共に担っていてくださることを身に受け、雄々しく大胆に進みゆきましょう。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日

 

説教 「脅しに屈せず」

聖書 歴代誌下 15:1~6 使徒言行録 4:23~31 

 

 使徒言行録の前半はペテロたちの歩みが、後半はパウロの異邦人伝道が中心になっております。

パウロは、コリントの手紙で、海での難、盗賊の難、むち打ちに、飢え乾き、寒さの難等々の被った体験を挙げています。

しかし、続けて誰かが弱っているなら、私も弱らないでいられるだろうか。

誰かが躓くなら、私が心燃やさないでいられるだろうかと語っています。

その宣教の旅路は、順風満帆の日々でなく、艱難の旅路といえます。

 

 私たちの人生でも、成功や幸運に運んだ時ではく、挫折や病など大変なことによって、新たな感じ方や異なる見方を得ることがあります。

むしろ、それが大きいようにも思います。

聖書の外典にシラ書という格言集があります。

そこにも「不幸な目に遭って、幸せをみつける人もいれば、思わぬ幸運に巡り遭って、損をする人もいる」とあります。

不思議ですが、初代教会の福音宣教は、迫害や脅しによって、福音を押さえこもうとする力の下にありました。

しかし、福音は、その大きな力によって、むしろ大胆に神の言葉を人々に伝えました。

そして、主イエスの御救いを多くの人に語りかけていきました。

 

主の約束された聖霊の大きな力は、その中で人々を励まし、よみがえりの主イエスと結び付けられたことです。

もう一つの働きは、異邦人へと、その救いが広く宣べ伝えられていったことだと思います。

ユダヤ人の壁を越えてゆくこと、安息日と律法の壁を越えてゆくこと。

割礼やそれまで厳守されてきた形の壁を越えてゆくこと。

それが使徒言行録の中で、聖霊の働きの物語として描かれ、パウロは言葉を通じて告げます。

福音書では、それを主イエスと律法学者、ファリサイ派のとの対峙、論争の物語の中で語っております。

まさに新約聖書全体において、聖霊の働きが溢れるように感じられてきます。

 

 主イエスに私たちを結び付けてくれる聖霊の働きは、歴代誌にあるアサ王の偶像礼拝の聖所を廃棄し、誠の神を礼拝することに繋がります。

使徒言行録でも、福音は大胆に力強く語られています。

単に目に見えるような強さや力ではありません。

ただ誠の神のみを崇め、救い主イエスを告白して生きるという姿勢にあります。

 

主の体ともいわれる主日の礼拝を守り、聖霊と共にその礼拝から遣わされる日々こそが、神の大きな愛と恵みをこの世界にもたらせます。

静かに、しかし確かに、また内なる喜びをもって、聖霊は働きます。

困難な時に神の助けの御手を感じさせ、順調な時に己の傲慢さを砕き、主イエスの招きに、ひたすら従う確かな道を示してくれます。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日(教会創立107年記念礼拝)

 

説教 「福音に固く立つ」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:1~11

 

 本日は懐かしい関西学院教会創立107周年記念礼拝にお招き頂き、広瀨牧師をはじめ教会の皆様に厚く御礼申し上げます。

私はこの3月で53年にわたる牧会生活に一応区切りをつけ、 隠退いたしました。

その間、この教会を牧しておられました長久清先生、今井和登先生、山岡善郎先生、 神学部同期の森里信生先生、 そして現在の広瀨規代志先生と公私にわたって親しく御指導並びにお交わりを頂いたことを感謝いたします。 

その他にも神学部関係でご指導頂いた先生方や信徒の方々もおられる教会ですので、 今日は大変光栄に思っております。

 

 私が3月まで牧会しておりました宇和島中町教会の創立者は、関西学院創立者であるウヲルター・ラッセル・ランバスと、 その父ジェームス・ウイリアム・ランバスであります。

関西学院大学より2年早い1887年に創立されたメソジスト教会の伝統を持った教会です。

まだ鉄道も自動車も普及していない時代です。

その中を船で瀬戸内海沿岸地域を福音宣教のため伝道して回った情熱を知らされ、私もそのパッションを継承しなければと思ってまいりました。 

関西学院教会も源流において、 同じ流れの中にある教会であると思います。

伝道に対するパッションを今後も持ち続けていただきたいと思います。 

 

  さて、今日の個所はコリント信徒への手紙の中で、最も格調高い個所と言われてきたところであります。

それは聖書のメッセージの根源ともいわれるイエス・キリストの十字架と復活が描かれているからです。

パウロは十字架と復活の福音こそ、私達の信仰生活の基本的告白でなければならないと教えています。 

先週は聖霊降臨日礼拝を守ったことと思います。

イエス・キリストの十字架と復活の福音は、まさに聖霊の働きがあってこそ、 私たちの魂に受肉されるものです。 

今朝も皆様と御一緒に 「聖霊よ、働きたまえ」 と祈りつつ、 十字架と復活の福音に耳を傾けたいと思います。 

 

  1節で 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一 度知らせます。 これは、あなたがたが受け入れ、 生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」 と、パウロは私たちが 「福音に固く立つ」ことを求めています。 

また2節では 「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、 しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなた方が信じたこと自体が、 無駄になってしまうでしょう。」 と告げ知らされています。

福音を疎かにすると、 信仰そのものが崩れてしまうことを警告しているのです。 

 

  広瀨先生に送っていただいた週報にこのような言葉がありました。

「受洗を希望される方は、牧師、または 長老までお申し出ください。 洗礼式には準備が必要です。」 

いわゆる受洗準備会をするということです。

 

牧会53年を振り返ると、受洗準備会をちゃんとせずに、人間的判断で「鉄は熱いうちに打て」 と洗礼式を行なったこともありました、

そして、しばらくは燃えていても、いつの間にか熱が冷めて、教会生活をやめてしまうケースが多かったことを、思い出して反省させられます。 

 

 ではパウロの「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば」 という言葉はどのような意味でしょうか。

「ハイデルベルグの信仰問答集」 のように教理的勉強を確り続けなさいと言うことでしょうか。

ここではどうも違うようです。 

何故なら3節に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、 わたしの受けたものです。」 とあります。

パウロは実際に自分が体験した、 神から与えられた出来事をコリントの教会の人々に伝えたと述べ伝えているのです。 

 

 福音はパウロが努力して獲得したものではなく、 神の側から一方的に与えられた恵みであり、 そのことを実際に体験したというのです。 

またこの恵みは一 方的にあなた方にも神から与えられている恵みであることを私たちは忘れては ならないと言うのです。

これは理屈で考えても分からないことです。 

彼もガラテヤ 1:11-12 で 「兄弟たち、 あなたがたにはっきり言います。わたし が告げ知らせた福音は、 人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」 と告白しています。 

 

  従って、福音は人を通して聞くわけですが、厳密には神ご自身から直接自分に語られた言葉。

あるいは直接示された出来事として受けとめることが大切であります。 

森里先生のお父様も関学出身の牧師でしたが、私の父も関学出身の牧師でした。 

父は「牧師ほど素晴らしい仕事はない」 というのが口癖でした。 

私は貧乏暇なしの生活、 信徒の方々に絶えず気を遣う生活のどこが素晴らしいのか理解できず、 反発を感じていたものです。 

それは職業としての牧師を考えていたからです。

やがて父の 言葉は、 「キリストの十 字架と復活の福音に生かされる喜びを伝えることは素晴らしい」という意味であると気づかされました。

そして、福音に生かされる喜びを伝える、それがキリスト者の使命であることを学ぶことができました。 

 

 パウロも2節で「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって 救われます。 さもないと、 あなたがたが信じたこと自体が、 無駄になってしまうでしょう。」 と述べています。

十字架と復活の福音が、神が直接この私自身に啓示くださった救いのメッセージであることを忘れてはなりません。

忘れることがなければ、たとえ自分自身の罪深さや弱さが新たに出ても、この福音によって慰められ、希望が与えられるのです。 

 

 ところがルカ 17:15には、イエス・キリストによって癒された10人の病人のうち、帰ってきて感謝を述べたのは一人しかいなかったと記されています。 

これほどに、キリストの十字架と復活の福音によって救われた喜びと感謝を抱き続ける人は少ないのです。 

福音によって、自分が救われた者であるとの信仰を無駄にしているのでないか。

私たちは、それを絶えず自らに問い直す者でありたいと思います。

 

 パウロは3節後半から8節にかけて、自分が十字架と復活の主に出会う原体験なるものを述べています。

特に注目したいのは3節、4節にある「聖書に書いてある通り」という言葉です。

これはキリストの十字架と復活の出来事は偶発的なことでないことを示しています。

神の御計画と決意のもとに旧約時代から、神に予告されていたことを言い表しています。

パウロは具体的個所を明記していません。

ただ、それがイザヤ書53章の苦難の僕としての預言であり、詩編 1610節やホセア書 6章2節の復活預言の記事と言われています。 

確かに、 十字架、葬り、復活、顕現に関わる聖書の記事を記憶することは大切なことであると思います。 

 

 しかし、もっと大切なことは3節後半から4節にかけて書かれている「私たちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、三日目に復活したこと」 を自分のために起こしてくださった神の御業、 出来事と受けとめ、喜びと感謝の告白をする原体験なのです。

 

 私たちは日常的に意識的か無意識か別にして、 自分を絶対化して 神の御旨に反する罪を犯してしまいます。 

パウロも自分の歩みを振り返るとき、8、9 節 にかけて 「月足らずで生まれたようなわたしにも」 とか 「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さなものであり、 使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」 と自分の嘗ての罪深い歩みを懺悔告白しています。 

 しかし、彼は復活の主の栄光に包まれ、罪びとをも赦し、主の器として選んでくださる愛に触れました。

その事によって、 新しい人間に回心させられました。 

信仰生活はこの 「主の罪の赦しと選び」 に立ち帰ることです。 

私たちも深いところで同じです。

主の赦しと選びによって主の器とされたのです。 

そのことを忘れてしまっているところに、 私たちのいらだちや信仰生活のマンネリ化があることに気づかねばなりません。 

 

 私も恥ずかしい話ですが、 何度も牧会に行き詰まりました。 

それは人間的に傲慢や怠惰になったときです。 

神の赦しと恵みによって生かされていることを忘れているときです。 

それでも立ち上がることができたのは、 私の弱さを超えて十字架の主が 「お前の罪は贖われた」 と語ってくださったからです。

 「葬り」が意味するたった一人取り残された時も、「私はあなたと共にいる」 と慰めてくださったからです。

「後ろを振り返らず前に向かって進みなさい」と励まし、希望と力を 与えてくださったからです。 

 

  5~8節にかけて、 復活の主が歴史の中で多くの弟子たちに見える形で顕現されたことが記されています。 

パウロも8節で 「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」 と復活の主の顕現を体験を述べています。 

私たちは、この証人たちのように実際に復活の主の顕現を体験していません。 

ただ彼らが神の御業として現された復活の主を見て、歓喜と確信をもって地の果てまで復活の証人として歩んだ事実を信じるだけです。 

 

  しかし、私たちは聖霊の働きを通して復活の主が共にいてくださる事を確信することができます。

先週はペンテコステ礼拝を守られたと思います。

今は聖霊が、復活の主の声として「あなたは決して一人ではない。 私が貴方と共 にいる。 新しい命に生きなさい。」 と、 語り続けてくださっています。 

10節に 「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」 とのパウロの言葉が記されています。

これはパウロに留まらず、十字架と復活の福音に生かされているものの共通の感謝と喜びの告白であると思います。 

私も長い牧会生活でこの言葉が事実であることを感じます。 

そういった意味で、私たちもパウロのごとく神の恵みによって 「多く働きました」と告白できる生涯でありたいと思います。 

 

 「福音に固く立つ」

そのことが、 最後の11節に記されている 「宣べ伝えてい く」ことであり、またこれからも 「信じて行く」事であると思います。

 

牧師 東島勇気


2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨祭礼拝)

  

説教「主は共にいる」

聖書 ヨシュア記 1:1~9 使徒言行録 2:1~11

 

 聖霊降臨祭の礼拝を本日迎えております。

この日、私たちの教会では礼拝堂に、使徒言行録にある舌のような赤い炎の壁掛けを掛けらます。

シンプルではありますが、この特別な日を祝う意味づけをしてくれています。

 

 ペンテコステは、聖霊に満たされた弟子たちが、心を一つにして福音宣教を始めた日とされています。

壁掛けの赤い炎も、その宣教への思いが心に燃えるようにも思えます。

使徒言行録の聖霊の舌の形は、言葉の壁を越えて、皆が理解しあえたことも意味しています。

 

 聖霊の降臨は、使徒言行録のこの箇所に留まるものではありません。

主の十字架と復活から、絶えず吹き入れられる主の息吹として、弟子たちの目を開かせてくれています。

 

 この後に、ペトロが旧約のヨエル書を語り、またイスラエルの歴史を紐解きます。

詩編も引用しつつ、まるでパウロの如く、主イエスがメシアであることを告げます。

誰にも聖霊の賜物が授けられることを教え、その日3000人が仲間に加わったとあります。

 

 聖霊降臨の出来事は、ここでも終わりません。

後の4章にも、一同が共に集まり祈っている時に、その場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだしたとあります。

まるで2章が再現されているようです。

その後にも、聖霊の賜物が、異邦人の上にも注がれるのを見て、人々は大いに驚きます。

異邦人が異言を語り、神を讃美するようになったこともあります。

 

 ついに最後はパウロが裁判によりローマに護送されます。

この時、ローマで福音が自由に宣べ伝えられたことは、地の果てにいたるまで、その福音が届けられたと理解されています。

これら全てが聖霊降臨の出来事であるといえます。

 

 弟子たちを通して、よみがえりの主の息吹、聖霊が働き、神の罪の赦しという招きに全ての人が預かっていく。

これを使徒言行録は示しています。

その福音宣教の湧き出る源泉は、よみがえりの主を信じ讃美する民の集い・礼拝であるといえます。

 

 聖霊降臨を思い、旧約のヨシュア記を聞くと、「主は共にいてくださる」ことが直接語り掛けられてくる思いがします。

神が見放すことも、見捨てることもなく、共にいてくださることを、私たちに教えてくれます。

主イエス・キリストを私たちが信じて歩み、従いゆく。

その歩みの中に、その神の恵みと愛の大きさを、聖霊によって味わい知ることができると思うのです。 

 

 聖霊降臨日を迎えて、教会の創立記念礼拝を迎えられることも幸いであります。

関西学院教会は、神戸の原田の地で、関西学院の中から生まれた教会であります。

学院と共に歩んできた歴史もあります。

この2年の間、コロナ禍の中で、ようやく3年振りに共に礼拝が守れますことを感謝します。

天上の聖徒たちの信仰を受け継ぎ、雄々し、これからも宣教の歩みを続けてゆきましょう。   

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年5月29日 復活節第7主日

  

説教「昇天と降臨」

聖書 イザヤ書 45:17 ヨハネ福音書 17:113

讃美歌  120、25、409、467、28

 

 

  キリストの昇天は、13日ある教会暦の日の1つです。

灰の水曜日と同じく曜日が定まっており、木曜日になります。

使徒言行録(ルカ文書)には、40日という具体的な日数が記載されています。

 (他の福音書では、シンプルに天に上げられたとの表現になっています)

  

 ヨハネ福音書は、主イエスの告別説教の最後の祈りであります。

 主が十字架を前に、弟子たちとの告別します。

「わたしを見なくなる」と告げられ、それと共に聖霊、助け主の約束が語られています。

今の私たちにとって主の昇天を前に、そのよみがえりの主からの御言葉と、聖霊としても聞く事ができます。

  

 聖霊は、よみがえりの主の息吹としても感じられてきます。

家に閉じこもる弟子たちに、よみがえりの主が息を吹き入れ、信じる者とする為に遣わされます。

この聖霊降臨という出来事が、福音宣教の始まりといえます。

  

 使徒言行録2章にも、弟子たちの上に聖霊が降ったことが描かれています。

言葉の壁を越え、皆が一つにされたことが、その時に初めて起こったように描かれております。

主の十字架と復活、聖霊はひとつとなって、弟子たちに、そして私たちにも働いていることを指し示してくれます。

  

そこには罪の赦しが、土台にあります。

主の十字架によって、神の御救いの御業がなしとげられます。

主のよみがえりが、私たちの罪の赦しと新しい命へと導きます。

そして聖霊が、罪赦された私たちを、神の恵みのもとに送り出してくれることになります。

  

 日曜日に教会に行くのが、クリスチャンのように見られています。

(今は配信によって礼拝に参与しておられる方も多くいます)

しかし、正確に申すならば、主日の礼拝から、それぞれの1週間の旅路へと遣わされてゆくのがクリスチャンともいえます。

 主イエスの歩まれた御跡に従い、御言葉に聞き従い歩む姿に、神の愛が働きと福音の光が灯されています。

 

 もちろん、その中心と始まりは、この主日の礼拝であります。

誠に神を崇め、御子の十字架により新しい命を受けて遣わされる。

そこに主の証人としての姿と信仰もあります。

キリストの昇天は、まさに聖霊の働きにあります。

神と隣人に仕える私たちの歩みの只中に、救い主がおられることを感じさせてくれます。

  

 次主日には聖霊降臨祭を迎えます。

教会が福音宣教の為に立ち続けられてゆきますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代


2022年5月22日 復活節第6主日

  

説教「願いなさい」

聖書 ヨハネ福音書 16:12〜2  ロマ書8:22〜30

讃美歌 120、25、479、532、28

 

 復活節の第6主日になります。

この週の木曜日には主の昇天日を迎えます。

礼拝も主の復活から、昇天と聖霊降臨へと移行してゆきます。

それは既に、先主日の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」の御言葉。

そして「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえらえる」のみ教えにも見受けられます。

本日の「願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びに満たされる。」

このみ言葉も、ほぼ重なっております。

即ち、これが聖霊の約束になります。

 

 教会での祈りは、聖書のみ言葉と共に、信仰生活の重要な位置を占めているといえます。

祈祷会で声に出して、共に祈る祈りもあれば、個々の神への祈りもあります。

主日の礼拝をもとにした信仰者一1週間の歩みと旅路。

それも。神様に捧げられているという点においては、広く祈りであるといえるかもしれません。

私たちのこれらの祈りが、神様に喜ばれるものとなりますようにと願います。

 

 教会での祈りは、いわゆるご利益の祈りとは違っているとよく言われます。

神がその御子を十字架に捧げられた方であると信じて告白し、その神の御心に沿うようにと、祈りが捧げられます。

福音書で主イエスも戒めているのは、、律法学者たちの自分の正しさを、神の前にひけらかし、誇るような祈りです。

そのような祈りは慎み、それは十分に人に知られており、報いを受けている。

そう注意しています。

 

 私たちが、全てを捨ててくれた主イエスに何を願い、何を求めるのか。

何がかなえられて、何が与えられるのか。

迫害や試練、重荷を負う世の中で確かとされたのは、パウロが証しするように、神は祈りを聴かれることです。

そして、弱さを備えて下さることです。

その弱さの中で、神の恵みとして力が十分に働くことを、主の十字架の言葉、福音の宝として受け継いできました。

苦難の中に、むしろ福音の光は輝きます。

 

 本日の聖書も、願いがかなえられ、喜びにかわること。

万事が益となること。

このような感謝を約束しています。

主イエスの十字架と復活、そして聖霊の賜物が、私たちの心の目を開かせてくれるからです。

 

 自分の思いからでなく、神の愛によって開かれた心の目です。

それはこれまでに受けてきたことを、感謝の思いで見ることのできる力です。

あんなこと、こんなこともあったと感じられ、心の杯が溢れてきます。

多くの優しい手と、背後にある神さまの恵みです。

それで必然的に願いもかなえられ、全ての祈りがきかれてゆくといえます。

今生かされているのは、これは唯神の恵み也と。

そのような祈りかもしれません。 

 

 6月に入ると、最初の主日が聖霊降臨日です。

教会が誕生した月ともいわれています。

幸いにも関西学院教会は、今年、この聖霊降臨日を迎えた翌主日に教会創立記念日(107年)の礼拝を捧げます。

コロナのため過去2年は無会衆の中での創立記念日でした。

今年、共に集い祝えること、このことひとつでも、十分祈りがきかれてように思えます。  

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年5月15日 復活節第5主日

 

説教「木とその枝」

聖書 出エジプト記 19:1~6 ヨハネ福音書 15:1~11 

讃美歌120、25、393、452、28

 

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

教会学校に通っていた方は、この主イエスの御言葉を幼い頃から耳にし、どこか心に残っていることでしょう。

「ぶどうの木と枝」は、「羊飼いと羊」ともに、教会学校の表彰バッジのデザインにも見かけられました。

礼拝堂の建築意匠にもありますので、耳だけでなく、目からも心に入ってきています。

 

 主が、漁師であった弟子を招く箇所とこの箇所を、私は葬儀の時にも選ばせていただいております。

うまく説明できていないかもしれませんが、死という別れにあって尚、主と結ばれて、主の招きの御声と光の中に歩む。

信仰者としての生涯であり、死も命も変わりないとの思いが、強く感じられてくるからであります。

 

 出エジプトの民に、神はモーセを通して、言いきかせます。

「あなたたちは見た」「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」と。

そして「あなたたちは、わたしの声に聴き従い、わたしの契約を守るならば、わたしの聖なる国民となる」と。

神とその民が繋がっているのは、主の御恵みを忘れず、主の御声に聞き従うことであります。

ヨハネ福音書のぶどうの木と枝の譬の後には、迫害の予告もあります。

弟子たちを世は憎み、迫害するであろうと告げています。

そのような世にあって、枝が実を結ぶのは、その木と繋がっているかです。

木と離れた枝は枯れてしまいます。

穏やかな時もあれば、激しい風や豪雨、日照りの苦難の時もあるでしょう。

暴風の中でも、その木と繋がっていることで、枝は命も繋ぎます。

主イエスと私たちの関係もその木と枝であります。

 

 自分の力で実を結ばせられる。自分の力で木と繋がっている。

もし、枝がそのように過信をしたり、思いあがったとしたら、どうでしょう。

まさに、葉だけのいちじくの木ではありませんが、実らずに、やがて枯れてしまうと思えます。

またなにより、枝も罪の枝であるということも忘れてはなりません。

繋がっておれるのは、ただ主イエスという「まことのぶどうの木」であるからです。

枝のために、その木は、十字架という自らの命を捧げられました。

その犠牲によって、枝は守られています。

その枝を生かすために、その木は命を枝に与えてくれています。

こんな枝が実を結ぶことができるのは、赦しを受け、その木の豊かな愛に育まれているからです。

その木の恵みを忘れずにいたいと思います。

自分の力ではなく、まことのぶどうの木の愛によって枝として繋がらせてもらっている。

その時に、枝は生き生きと新しい芽を出し、花咲き、実を結ばせてゆきます。

 

5月の季節に、この御言葉に聞き、主の復活の命が、私たちの生きる命となりますように。

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年5月8日 復活節第4主日 (母の日礼拝)

説教「古く新しい教え」

聖書  レビ記 19:9~18 ヨハネの手紙Ⅰ 4:13~21 ヨハネ福音書 13:31~35

 

 ヨハネ福音書13章は、主イエスのいわゆる告別説教の直前にあたります。

先主日は、羊飼いと羊の関係についてお話ししました。

本日のみ教えは、その主イエスによって養われる羊として「互いに愛し合いなさい」に尽きます。

 

 ヨハネ福音書では、「新しい教え」と述べておりますが、古くからの教えでもあります。

主イエスが多くの律法の中で、最も大切なこととして挙げられたのは二つです。

神を愛することと、隣人を愛することの二つであります。

そしてこの二つは一つでもあります。

 

 レビ記は、申命記と似ているところがあります。

貧しい同胞のを具体的に支えていくこと、助けていくこと。

それが愛することになっています。

ヤコブ書は、時に誤解され、信仰より「行い」を重視しているように理解されています。

しかし、信仰と隣人を愛する生き方が、不分離のこととして教えられております。

愛を唱えるヨハネの手紙とも相対するものではなく、むしろ兄弟を愛することに於いて、非常に近くもあります。

 

 クリスチャンにとって、互いに愛し合うことは、牧師が語るまでもなく、自明のように思われるかもしれません。

敢えて、本日は「古く新しい教え」という題をつけさせていただきました。

この聞き慣れた教えでも、活かされてなければ、固まっている冷凍食品のような感じもします。

むしろ、分かっているという思いは、禁物かもしれません。

 

新しい教えとして、主の十字架と復活という、主の死と新しい命のもとで、この「互いに愛し合いなさい」を受け止めてゆきたいと思います。

私たちの罪の赦しに、神の愛が注がれ、人を互いの弱さと欠けにおいて、結び付けてくれます。

その神によって結ばれた交わりが、信仰共同体となり、主の御手にある羊の群れとなります。

それは私たちの姿でもあります。

 

 兄弟を、私たちの持っている心の寛容さで愛することは、無理ではないでしょう。

しかし、恐らくその愛以上に、兄弟を傷つけ裁き、疎ましくも感じる。

それが私たちです。

 

 けれども、そこによみがえりの主イエスの息吹が、私たちを変えてゆきます。

この兄弟のために、主は命を捧げられた。

この兄弟を生かすために、主はよみがえられた。

それを、この私が今主から託されております。

 

 こんな私のために、主がどれだけ苦しまれたか。

また主の御恵みによって、こんな自分が赦されて生かされていることを思い出す。

その時、兄弟の中に主の輝く姿が見え、私を支えてくれている多くの人の手が見えてくるように思います。

主と共にある新しい命をそこに感じます。

 

 教団の行事で、子供の日は6月で、5月の第2主日は母の日です。

讃美歌「まぼろしの影を追いて」の歌詞には、神の愛を知らず背く子供を思う母の心が込められております。

主の愛にたち帰ること。

それが母への感謝でもあり、また隣人への優しさをきっともたらしてくれます。

 

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年5月1日 復活節第3主日

説教「よき羊飼い」

聖書 エゼキエル書 34:7~15 ヨハネ福音書 10:7~18

 

 よみがえられた主は、三度主を知らないと言ってしまったペトロに三度「わたしを愛しているか」とお尋ねになります。

そして、三度目に「わたしの羊を飼いなさい」と託されています。

また別の箇所では「あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」とも言われました。

 

 旧約聖書から、神とその民の関係は、羊飼いと羊に譬えられます。

エゼキエル書でも、捕囚という困難な時代にあって、失われ、散らされた羊を探して養う、と神様はおっしゃいます。

詩編23編や95編も、主はわが牧者と告白し、その御手にある羊として、神を讃美しています。

 

 聖書の多くの箇所が、主なる神が誘惑に誘われ、神に背き、弱さに沈みこんでしまう民を、赦して導く羊飼いであること。

その弱さと罪を贖ってくださることを教えています。

そのよき羊飼いである神の御名を讃美すること。

それが羊飼いと共にある羊の姿かもしれません。

 

 ヨハネ福音書の主イエスの言葉として「わたしは良い羊飼いであり、羊を知っている」とあります。

復活の主が共にいてくださることを、何と表してしていいのか。

死よりよみがえられた主のその新しい命を、どのように表現できるのか。

唯この「主はわが牧者」の短い告白が、よみがえりの主を信じ、生きている者の告白といえます。

 

 良い羊飼いは、羊のために命を捨てるとあります。

十字架の贖いの死が込められ、再び命を受けるのは、そのよみがえりの主の命ともいえます。

 

 私たちは、往々にして失われたその羊のように自分を感じます。

そして、神の力強い守りと、見捨てないその愛も感じることができます。

ただ恵みにより救い出された羊として、聖霊の助けにあって、同じ羊への小さな、小さな羊飼いとして、心を配り歩んでゆきたいと思います。

教会というのは、この迷子の99匹の羊の群れの集まりのようにも思えます。

罪赦されたことを溢れる恵みとして、主を讃美する群れである時、主の教会として立てられてゆくのだと思います。

 

 ペトロは主の復活を宣べ伝える器とされました。

それは、彼が誰よりも主に大きな背きをなし、誰よりも大きな赦しをもって、その愛を受けて強くされたからに思えます。

私たちも、主が私たちのためにその命を捧げられた、その愛をこの目とこの身に受けた証人として、遣わされてゆきたいと思います。

 

 よみがえりの主の命が、人を活かしてゆきますように。

人に喜びを与え、希望を与えてゆきますように。

「主はわが牧者」という讃美が、生涯、私たちの人生の確かな道標となってゆきますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年4月24日 復活節第2主日

説教「トマスにも」

聖書 民数記 13:30~33 ヨハネ福音書 20:19~31

 

 イースターから聖霊降臨日までの7主日に亘る復活節の前半の礼拝では、主の顕現物語が与えられます。

そして、後半はキリストの昇天が礼拝主題となります。

 

 よみがえられたイエスさまの物語は、そんなに多くはありません。

よく知られているのはトマスの物語です。

「疑い惑うトマス」とか「不信仰のトマス」と呼ばれたりもしています。

しかし、十二弟子の中でペトロと同じく、主イエスの大きな赦しの愛を感じる物語です。

 

 旧約は民数記のカレブの物語です。

斥候として遣わされたカレブだけが、目に見える恐怖ではなく、主にある勝利を確信していました。

「見ないで信じる」ということが、トマスの物語と結びついているように思います。

 

 トマスの顕現に先行して、他の弟子たちによみがえりの主イエスが顕われます。

トマスだけがそこに居なかったのですが、その理由は分かりません。

トマスが御傷を示され、信じる者とされるために備えられていたようにも思えます。

つまり、弟子トマスへの主の顕現であると共に、愛する弟子全てに、私たちへの顕現です。

私たちもまたトマスであるといえます。

 

 トマスだけが、他の弟子たちのいるところに居なかったことにも注目してみます。

集団から離れた時、人は、ある意味で初めて自分を感じ、自分の存在を感じます。

99匹の群れから外れた迷子の1匹の羊は、羊飼いを見失ったと同時に、羊飼いを探し求める羊になったともいえます。

放蕩息子も家と家族から離れて食べられなくなり、初めて自分を知り、父を思います。

そこには聖書の教えている罪があります。

罪は不合格の烙印ではなく、この罪が唯一の神さまへと繋がる道であります。

 

 トマスの「信じない」の言葉は、ありのままの自分で神の前に立つことのようにも思えます。

その自分は、罪の中にあり、信じることに於いても欠陥でしかない者です。

ペテロも同じです。

自分の口から出た完全と思える言葉は、鶏の鳴き声と共に、自分の罪の姿を現す言葉となりました。

しかし、ここに神の愛があります。

神の赦しという主の復活の新しい命は、このトマスに主イエスによって吹き込まれるのです。

主の復活は、私たちにとっても、この罪の身が赦されたのは、それはただ主の御恵みしかない。

それを、トマスの「わが主、わが神よ」の告白が現わしています。

 

 復活の光は、私たちの名誉やその豊かさ、力の輝きではありません。

この罪を赦してくださる神の大きな深い愛の光であります。

そのことを知っている喜びが、私たちの人生の掛け替えのない宝となります。

 

 神に栄光がありますように。そして地には平和がありますように。

主の復活の光が、闇の中にある人々を慰め、希望を生み出して下さいますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年4月17日 復活節第1主日 復活祭礼拝

説教「週の初めの日」

聖書 イザヤ書42章10節~16節 ヨハネによる福音書20章1節~18節

 

   主のよみがえりを祝うイースターの礼拝です。

冬の最も夜が長い時、神の御子がこの世に来てくださったことを祝います。

クリスマスです。

そして春。

光が夜を超え、春分の日を過ぎて迎える主日、イースターの礼拝がもたれます。

待ちわびたように、生命の息吹をもって、木々も新しい芽を出し、花が咲きます。

私たちの罪を贖い、十字架の死よりよみがえられた主の息吹(聖霊)が、私たちを新しい命へと活かしてくださいます。

教会の全ては、この主の十字架と復活から始まったと言えるでしょう。

イースターの礼拝は、世にはそれほど広く浸透され、祝われていないかもしれません。

しかし、教会にとって最も重要な日であることは、間違いありません。

 

 「週の初めの日」の礼拝は、主イエス・キリストのよみがえりの朝を記念しています。

 福音書の全てが、安息日が明けたその朝のことを記しています。

朝の光の中、女性たちに御使いが「主はよみがえられた。ここにはおられない」と告げたことを記しています。

福音書によって記述は微妙に異なります。全てに登場するのが、マグダラのマリアです。

主の復活が、悲しみに茫然とする彼女の心に恐れと驚き、そして喜びを与えます。

 

 まさに、全てはそこから始まりました。

女性たちから主の弟子たちに。そして他の兄弟たちに。そして使徒パウロによみがえりの主が現れました。(コリント1 15章)

 

それは神の愛により、主の新しい民として、共に生きるようになるためです。

殻を打ち破るように、主のよみがえりと共に、これまでの旧約の長い歴史を導いた御教えも、新しい福音として、主の民の道を照らす御言葉となりました。

 

 本日は、この礼拝のなかで、天上の聖徒たちも覚えて祈る時としています。

これまで、教会墓所での礼拝を捧げてきましたが、今年もコロナのため中止となります。

その代わりにこのイースター礼拝を、天上の聖徒たちと共に守りたいと思います。

この1年に召された方、御納骨をされた兄弟姉妹も加え、多くの信仰の証人が天にあります。

イースターの墓前礼拝は、そういう信仰の故人を偲ぶことでもあります。

そして、福音宣教の始まりは、主が葬られたみ墓から、先ず小さき女性たちに告げられたことを思い、その喜びの原点に立つことでもあります。

それは、大きな川の湧き出る清水のようです。

「エッサイの切り株」の言葉が示すように、倒された大木の梢に芽生える新しい命でもあります。

主の復活は、死という闇の中から、朝の光が眩しいほど差し込んでくる私たち全ての救いの源です。

教会の全ての始まりであり、今もなお教会の福音宣教の原動力となります。

 

 マグダラのマリアに御使いが告げた主のよみがえりは、世界の全ての人がその罪から救われたことを証ししています。

主イエス・キリストのこの救いこそが、私たち信じる者にとって新しい命となります。

週の初めの礼拝は、主イエス・キリストのよみがえりの身体であるといわれます。

どうかこの礼拝が人々の喜びと希望となり、平和と慰めとなりますように。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代


2022年4月10日 復活前第1主日(棕梠の主日)

説教「時が来た」

聖書 イザヤ書 50:4~9 マルコ福音書 14:32~42

 

 コヘレトの言葉に、「何事にも時がある。定められた時がある」とあります。

主イエスの十字架への道も、まさにこの受難週において、その時を迎えようとしております。

 

 今週の木曜日は、洗足の木曜日です。

弟子達との過越しの食事をし、ゲッセマネの園での祈り、そして主は引き渡されてゆきます。

金曜日が受難日、十字架の日です。

金曜日の日没から安息日に入り、3日目の朝、主の復活日を迎えます。

 

 イースターは、クリスマスと異なり移動祝祭日で、春分の日の後の満月の次の日曜日です。

主がゲッセマネの園での祈られた時、上空には静かに満月が昇り、全てを見守っていました。

弟子たちは深い眠りの中に引き込まれています。

ただ一人、主が苦しみの祈りを捧げられてから、もう二千年の年月が経ちます。

しかし、遥かに離れていても、この夜の月が、私たちをゲッセマネの主への傍にまで導いてくれます。

 

 ただ私たちも、弟子と同じく罪の中に生きています。

十字架の手前までのところにしかいけません。

その場と十字架には、大きな深い溝を感じます。

そしてその溝を、主の赦しという御手が結んでくださっているように思えます。

 

 旧約のいわゆる第2イザヤとよばれる預言の中に、苦難の僕の歌があります。

その苦難の僕と主イエスの十字架の贖いが重ねられております。

贖いの小羊として、黙して流された血潮と命が、私たちの新しい救いの光となってゆきます。

 

 主イエスは、人の子として、その十字架の苦しみを受けられる前に「この杯をわたしから取りのけてください」と祈ります。

「しかし、御心に適うことが行われますように」と結ばれます。

主が洗礼を受けられた時も、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が響きます。

山上の変貌の輝く姿の時にも「わたしの愛する子」の御声が響きます。

 

 神の愛と神の御心のままに、その独り子である主イエスは、私たちのために世に降られ、その命を捧げられた。

これが、私たちの生きている世界で、私たちの知る最も確かなこととなります。

真実といえるかもしれません。

ペトロは、主イエスに「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と決意を込めて話します。

その強い告白も人の確かさも、十字架の前にいとも浅く消えてゆきます。

 

 神がその御子を捧げて、私たちを救い出してくださった。

そのことだけが、私たちに残された唯一つのことです。

その主にどのように応えて生きてゆけばいいのか。

それがわたしたちの信仰の歩みとなります。

いえるのは、ただ神の赦しだけしかないと。 

 

 イースターの日に墓前礼拝を守る教会も多くあります。

関西学院教会は、イースターの翌主日に教会墓所での礼拝を守ってきました。

今回も状況を鑑みて、3度目の中止とさせていただきます。

復活祭の礼拝の中で、天にある聖徒たちを覚える礼拝を守ります。

それにより福音の始まりは、主がよみがえられた御墓から女性たちに告げられたことをより新鮮に感じたいと思います。

 

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志

 


2022年4月3日 復活前第2主日

説教「栄光受ける時」

聖書 哀歌 3:18~33 マルコ福音書 10:32~45

 

旧約聖書には詩編以外にも、嘆きの歌の哀歌と喜びの歌、恋の歌、雅歌があります。

雅歌は礼拝であまり読まれること少ないかもしれません。

哀歌は、以前はエレミヤ哀歌とも呼ばれ、苦悩の預言者エレミヤと結び付けられてもいました。

 

復活前のこの時、哀歌の「苦悩の中に主を待ち望もう」と、マルコ福音書の「ヤコブとヨハネの願い」から、人の罪の深さのなかに、主の歩みをきいてゆきたいと思います。

 

 マルコの平行箇所のマタイでは、ヤコブとヨハネの願いは、母の願いになっております。

母の子を思う気持ちと、またマ兄弟本人たちの気持ちも、人の気持ちとしては理解できます。

「偉くなりたい」

この誰もが持つ本音のような願いを、ヤコブとヨハネの兄弟は、主イエスに告げています。

他の十人の弟子たちは腹を立てます。

しかし、その怒りは、偉くなりたいという自戒すべき願いにではなく、抜け駆けしようとする狡さに向いているように思います。

この箇所は、三度目の受難予告の後にあります。

まさに主の受難が迫り来るなかです。

 

「栄光をお受けになるとき」と二人は言います。

それはこの兄弟には、民を治める権力まではいかなくとも、律法学者、ファリサイ派の人々に勝る栄誉の座に輝く姿だったでしょう。

その時、自分たちをその近くに置いて欲しいという願いです。

この願いを、恐らく二人はそんなに悪いことだと感じていません。

主イエスの傍に誰よりも近く、離れずにいたい。

そして、しっかりと働きたい。

その気持ちを、熱意を込めて打ち明けたのでしょう。

 

ただ主の栄光は、彼らの思いとは、まったく逆のものでした。

この世の中で、最も悲惨で惨めな姿である十字架の栄光でした。

いままで傍にいた弟子たちの姿はなく、主は罪人として処刑されます。

ゴルゴダの丘に、三本の十字架がさらされました。

それは人の罪の贖いとして、その命を捧げられた神の御子の姿でもあります。

 

 何かを得たいと望む時、自分の進む道しか見えていないのが人の心であり、人の姿であります。

その道が間違っているとは断言できません。

けれども、得ること、失うことを繰り返し、喜びから暗闇へと変わることもある自分だけの栄光の道です。

神の栄光は、主イエスの十字架によって、全ての人が光の中へ招かれるようにしてくださった道です。

捧げることで、豊かに富み、自らの弱さの中にも、恵みとして働かれる神の力に溢れ、人と共に生きることを喜びとする道であります。

 

 私たちも、主イエスの十字架によって、神の御救いに預かった者であります。

ルカ福音書にある一人のように「主よ、どうかあなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願います。

主から「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた人のように、主に従ってゆきたいと思います。  

  

関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日

 

説教 「手には剣もなかった」

聖書 サムエル記上 17:41~50 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6:1~10 

 

 ダビデの名前は、旧約のみならず広く新約にも登場します。

サムエル記上は、そのダビデが王となっていく物語です。

ダビデは王位につきエルサレムを都としますが、晩年は実の息子との権力争いな、ど影の部分もあります。

ただ前半は、サウル王に追われながらも、その命を助ける忠誠心や、この巨人ゴリアトを倒す物語など、雄々しく勇敢な姿が輝かしく描かれております。

 

 巨人ゴリアトと少年ダビデの戦いは、神を信じ「主の名によって戦う」と宣言した信仰的な一面だけでなく、当時のペリシテとイスラエルの関係をも現わしています。

 

サウルが、同胞の危機より立ち上がり、初めて王国がイスラエルに誕生します。

その生まれたばかりの小国に脅威となるのは、地中海側の浜辺の都市国家を既に形成しているペリシテという国です。

士師の時代から、ペリシテに攻めてこられては、好き放題に略奪される状況が続いていました。

イスラエルの民は戦うすべを知らず、なにより武器を持っていませんでした。

サウルの王国ができても、剣と槍を手にしているのは、サウルとその王子であるヨナタンだけであった(サム上13章)とあります。

それはペリシテの支配のもと、鍛冶屋がイスラエルにはいなかったからでした。

武器を所有する国と、持っていない民との戦いが、この巨人ゴリアトと少年ダビデの戦いでもあったといえます。

ダビデは羊を守る投石で戦っております。

(ちなみに士師サムソンは驢馬の顎の骨、士師シャムガルは牛追いの棒を武器としています)。

これが歴史の現実であり、立ち向かうことのできないような相手にダビデは挑み、勝利をします。

そして聖書は、その手には剣もなかったと語ります。

 

 コリントの手紙では、左右に義の武器を手にしています。

地上での武器ではありません。

これらは、非現実的な内容であるかもしれません。

しかし武器によって勝利がもたらされるのでしょうか。

人の命を奪い、破壊をもたらすことを今、私たちは知らされています。

 

 ペリシテとの戦いでのイスラエルの勝利は、逃げ隠れて守る勝利であったかもしれません。

しかし、このダビデからより広く示されてくることがあると思います。

臆せずに立ち向かう事、それは神によって怯まずに立つことができることを現しています。

また倒れても立ち上がることのできる力。

忍耐して苦難の中にあっても流されることなく、何が真実であるかを見抜く力。

これらがまさに、主の名によって賜る勝利であると思えます。

 

私たちに与えられている神からの勝利、それは主イエスの十字架でもあります。

死という苦しみのなかで、そこに神の罪の赦しと全ての人の救いが成し遂げられてゆきます。

神の勝利と祝福は、この世界の中で、いとちいさき者を通して、力強く働いてゆくことを、私たちは驚きと喜びでもって受けとめております。

神の平和が、この世界を治められてゆくことをしっかりと見つめてゆきましょう。  

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志