2024年4月14日 (復活節第3主日)

説教「湖畔で」

聖書  イザヤ書 61:1~3 ヨハネ福音書 21:1~14

  

  イザヤ書の61章冒頭はよく読まれる処です。

「主はわたしに油そそぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた、

 わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えるために。

 打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、

 つながれている人には解放を告知させるために。」

 

 この言葉は、主イエスの宣教の初めにも出てきております。

主の復活の場面において、弟子がよみがえりの主に招かれる状況にも相応しく感じます。

主日の礼拝は、この主の招きであります。

主イエスのよみがえりの光と命を受けて、福音宣教の派遣となります。

 

 ヨハネ福音書21章には、20章末に結びの言葉があります。

ニコデモたち7人の弟子はヨハネ福音書のようでもあり、共観福音書のような感じもします。

この湖畔での主の顕現は、20章と合わせて3度目となっております。

既に弟子たちは、それまでに主にまみえております。

しかし、この21章ではリセットされたかのように、主だと分かっておりません。

因みにヨハネ福音書は最初の弟子を招く場面で、ガリラヤ湖ではありません。

ティベリアス湖になっておりますが、これは共観福音書のガリラヤ湖です。

ゲネサレ湖とも呼ばれ、旧約ではキンネレテ湖とよばれています。

主イエスが共に網をおろし、網を破るほど大量の魚が捕れます。

それにペトロが恐れおののくことも、共観福音書と同様であります。

 

 もちろん、どの福音書も、主イエスのよみがえりが、全ての始まりです。

弟子を招く物語にも、復活の主の信仰が奥に込められていても当然です。

 

 「さあともに食事をしよう」

この主の食卓は、聖餐の招きとしても聞こえてきます。

そして同時に、あのパンの奇跡も思い浮かんできます。

主が讃美の祈りを捧げ、パンを分けられます。

人々は足りないどころか、神の溢れる恵みと喜びに包まれています。

それは宣教の場で何度も、主が共におられることとして伝えられてきました。

 

 湖畔の主と弟子の食事は、朝の出来事です。

十字架の前にある過越しの夜の食事とは感じが違います。

過越しというそれまでの旧約時代から、復活の新しい命、新しい救いの時が来た喜びを感じます。

主イエスの新しい愛の光と力。

それが今日のイザヤ書が告げる喜びの時代の始まりであります。

 

 私たちの信仰の旅路も、主の日の礼拝を守り、常に罪赦された新しい命に招かれてています。

このことを喜びとして歩んでゆきたいと思います。             

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年4月7日 (復活節第2主日)

説教「息 吹きかけて」

聖書  出エジプト記 15:1〜11 ヨハネによる福音書 20:19〜31

 

 今年は先主日の3月31日がイースターでした。

主の復活日を迎えて、翌日に新しい年度が始まりました。

関西学院大学の入学式へと向かう学生たちのスーツ姿がみられ、桜も開花し始めました。

主の復活日が、全てのはじまり。

今年もそう感じております。

 

 復活節に入っての数主日、教会特有の言葉かもしれませんが、主の復活顕現の個所が与えられます。

主に、それはヨハネ福音書とルカ福音書になります。

トマスに現れる個所や、エマオ途上の物語、ペトロへ三度かけられた主の言葉などがあります。

そこには主の復活、罪の赦し、宣教への派遣が同時に感じられます。

 

 本日は、そのトマスの物語です。

この物語の前に、トマス以外の弟子たちに主が現れる個所があります。

「信じない」とはっきり言うトマスに、主は十字架のみ傷を示します。

そして「信じる者になりなさい」と招かれます。

 

 「わたしの主、わたしの神よ」

このトマスの告白は、マリアの「わたしは主を見ました」と同じく、深い罪の中に御救いの光を照らしています。

トマスは、不信仰のトマスや、疑い惑うトマスと呼ばれたりします。

まさに人の罪、この私の罪のなかに、主が共にいてくださることが、主の復活の命です。

 

 本日は更に、出エジプト記の15章も与えられております。

主のよみがえりと、モーセの海の奇跡、この繋がりは分かりにくく思えます。

けれども、よく見ていけば、復活節の主日にふさわしいみ言葉として聞こえてきます。

オーケストラのさまざまな楽器が、それぞれの音色で奏でるように、新たな繋がりが見えてきます。

「主は、わたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくれた」(出エ15:2)

この言葉も、トマスの「我が主、我が神よ」と響いてきます。

 

 説教題にしました「あなたが息を吹きかけると」も、出エジプト記15章からです。

主の復活顕現の時もまた、よみがえりの主は、鍵をかけ、閉じこもってる弟子たちに現れ「聖霊を受けよ」と息を吹き入れられます。

まさに神のみ救いの業の広さ、その繋がりを、主のよみがえりの日を祝う礼拝に強く感じさせられています。

創世記にも、神の息吹により、人はこうして生きる者とされたとあります。

私たちのこの命は、神の創造の御業、主イエスによる罪の赦しによるものです。

そして、出エジプト記からも、その生涯の旅路、神は共にいてくださるという恵みの証しを聖書は告げております。

この主からの新しい命を、主なる神と人とに仕えつつ、歩んでゆきたく思います。

                       

 イースターの翌主日、関学教会は多くの天上の聖徒たちを覚え、猪名川の教会墓所での礼拝を守ります。

主の復活は、そのみ墓から始まり、死から命への讃美を墓前で捧げます。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年3月31日 (復活節第1主日 復活祭礼拝)

 

説教「だれをさがしているのか」

聖書  イザヤ書 55:1~11 ヨハネ福音書 20:1~18

  

  教会にとって、この春のイースター、主の復活日が全ての始まりともいえる日です。

40日前の受難節から主の十字架への道を辿り、本日の復活日を迎えました。

さらに続く50日目の聖霊降臨日ペンテコステまでが一体となって、主の十字架と復活を証し、宣教する教会として建てられております。

 

 ヨハネ福音書では、マリアが主イエスの葬られた墓に向かいます。

「週の初めの朝早く」の一句から、受難日の闇が明けたことを感じます。

朝の光が、主の復活の命の光として、爽やかな風と共に差し込んでくるようです。

ペトロともう一人の弟子がヨハネ福音書には出てきます。

「空の墓」は、復活をさし示す言葉とよく言われます。

み使いが、マリアに「なぜ泣いているのか」と問います。

よみがえりの主に彼女はまみえますが、それがよみがえりの主だとわかりません。

「だれをさがしているのか」と主は言葉をかけられます。

 

 聖書には、場面がかわっても、同じその言葉が繰り返し出てくる処があります。

私には、非常にそれは興味深く聞こえてきます。

創世記の初めに、アダムとカインにも「どこにいるのか」と神は尋ねています。

この言葉に、人の罪を感じたりもします。

 

ヨハネ福音書で捕えようとする者たちが来た時も、主は「だれをさがしているのか」と問います。

そして「わたしだ」だと答えて、十字架へと続きます。

 

十字架と復活という、神の救いの御業の前に、人は戸惑い、御子を見失います。

見えなくもなります。

「だれをさがしているのか」と問われ、「マリア」と呼びかけられて、彼女は主イエスとわかります。

そして、弟子たちのところにいって「私は主をみました」と告げています。

よみがえりの主の復活の証言の始まりであり、福音宣教の小さな芽でもあります。

 

 「だれをさがしているのか」

主が、彷徨う私たちを探しておられるみ言葉のように聞こえてきます。

主は、一人一人を招かれて、今、私たちと共にいてくださる。

それがこの主日の礼拝の讃美であります。

「わたしは主をみました」

この信仰の告白が、週の初めの朝、主の光に包まれている喜びの礼拝の姿といえます。 

 

 私の当教会の赴任は6月でしたが、通常、年度替わりの異動がほとんどです。

この春も私の友人数人が異動また退任します。

多分、復活日のメッセージを語り、新しい地に赴くのでしょう。

何処にいっても主が守り祝し、新しい牧者を迎える教会にも主の恵みが変わらずにありますように。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年3月24日 復活前第1主日(受難節第6主日 棕梠の主日)

 

説教「鶏が鳴いた」

聖書  ゼカリヤ書 9:9〜10  ヨハネ福音書 18:15〜27

 

 イースター前の主日は棕梠の主日と呼ばれ、この日から受難週に入ります。

エルサレム入城の個所が、旧約ゼカリヤ書と共によく読まれます。

ヨハネ福音書12章では香油を注がれた後、人々からなつめやしの枝でもって迎えらます。

その後に、先主日礼拝の個所「一粒の麦」の教えと、弟子の足を洗う物語が続きます。

14章からの告別説教は18章の「こう話し終えられると」で区切られ、主イエスの逮捕となります。

 

 本日の説教題「鶏が鳴いた」は聖書の言葉からとりました。

説教題は表の看板に貼ってありますので、通りすがりの人は奇異に思うかもしれません。

 

 馬は駆け、犬が吠え、鳥は鳴く。

鶏が鳴くのは、ごく自然に感じられると思います。

ただ主の受難を思う時、「鶏が鳴く」は特別な意味を持ちます。

讃美歌の「ああ主のひとみ」にも「みたび我が主をいなみたるペトロ」がでてきます。

このペトロの否認を指すのが、「鶏が鳴く」です。

 

 全ての福音書が、この出来事を主の十字架の前に記し、復活の福音と共に伝えます。

ヨハネ福音書12章に、ペトロと主のやりとりがあります。

ペトロは主に「あなたのためなら命を捨てます」と言います。

それに対して、主は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしのことを知らないというだろう」と告げます。

 

 ペトロがどれだけ主イエスを思っていたのか。

それは、聖書から十分に伝わってきます。

主イエスのために、命を捨てることも惜しんではいないこともわかります。

しかし、主が引き渡される時、イエスの仲間かと尋ねられ、「違う」とはっきり言います。

もう一度聞かれても「違う」と言ってしまいます。

そして、直接見たという人にも、その言葉を打ち消します。

その時、鶏が鳴きます。

 

 共観福音書とヨハネ福音書は、内容はほぼ同じでありますが違いもあります。

共観福音書では「鶏が鳴いた」後に、ペトロは主の言葉を思い出し泣いた、また「外に出て激しく泣いた」(ルカ)とあります。

 

 イエス・キリストによって、その罪を贖われ、救いに与った私たちは皆、このペトロでもあるといえます。

そして、神の赦しと愛もここにあります。

だから、全ての福音書がペトロが三度、主を拒んだことを十字架の意味として示します。

ヨハネ福音書では、よみがえりの主が、ペトロに同じく三度、「わたしを愛しているか」と問います。

そして「わたしの羊を飼いなさい」と命じています。

ペテロは神の愛と赦しを、その全てによって証してくれています。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年3月17日 復活前第2主日(受難節第5主日

 

説教「一粒の麦」

聖書  イザヤ書 63:7~10 ヨハネ福音書 12:20~36

 

 ヨハネ福音書には、よく知られた聖句があります。

例えば「真理は汝を自由にする」とか、本日の「一粒の麦」です。

その短い言葉によって、私たちは、言葉が奥に含んでいる内容を汲み取って理解します。

一粒の麦も「地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」

この主イエスの言葉に、十字架と復活を汲み取ることができます。

 

 ただその前後の内容に、あまり注意が向いていないこともあるかもしれません。

本日は「ギリシア人、イエスに会いに来る」と「人の子は上げられる」

この二つの小見出しを背景に聞いてまいります。

 

 後の段落も、もちろん主の十字架を前にした内容であることは明らかです。

「人の子は上げられる」や、「時」という言葉が頻繁に出てきます。

そして最後は、「光の子となるために」という勧めがあります。

「一粒の麦」も、主イエスご自身のことを意味し、「人の子」とも繋がります。

「地に落ちて死ぬ」と「天に上げられる」は、言葉の上では逆のように思えます。

しかし、十字架と復活においては、それは一つのことであります。

 

 それでは「多くの実を結ぶ」とは、どういうことなのか。

光の子となるとそう解釈してもよいかもしれません。

ヨハネ福音書には、闇と光が対にように現わされております。

神の栄光があらわされる。

それは御子の十字架の贖いと復活の光に、人が新しい命をもって生きることでもあります。

「まことの光が世に来た」

福音書冒頭の言葉が、また近く感じられてきます。

 

 そのように全体を捉えつつ、最初に戻ります。

エルサレムに来たギリシア人が、フィリポのもとに来て、主イエスに会いたいと願います。

フィリポはペトロの兄弟アンデレに告げ、そして主イエスのもとに来るのです。

随分と長い前触れのような感じがします。

人がその間に介し、加えて、ギリシア、ガリラヤ、ベトサイダという地名もでてきます。

一体、この意味は何なのか、普通、あまり考えない処です。

でも重要なことがここにあるように思えます。

 

ここでは異邦人が主イエスのもとに来て求めています。

アンデレが、パウロに言った「わたしたちはメシアに出会った」の証言が思い返されます。

福音が、今、ユダヤ人だけでなく、世界の民にも告げ知らされようとしています。

そのことが、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実を結ぶこととも重なります。

全ての民が、神の愛と光に招かれ救われる。

主イエスの言葉、そしてそこにある出来事によって、この福音が告げられています。

 

 主の光は、私たちの思いや壁、隔てを超え、光の子として招いてくださっています。

イースターも近づき、日が長くなってきました。

その光を受け、樹木も命の息吹を芽生えさせています。

私たち人もまた、神の愛に目を覚まされ、歩みたいと思います。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年3月10日 復活前第3主日(受難節第4主日

 

説教「香油」

聖書  サムエル記上10:18 ヨハネ福音書 12:18

 

 復活前(受難節)に入って4週目の主日です。

礼拝で与えられる聖書も主の受難が濃くなってきております。

本日は、ヨハネ福音書の主イエスが香油を注がれる処からきいてまいります。

それに合わせて、サムエル記では、サウルに預言者サムエルが油を注ぎます。

サウルが王となる前の物語です。

ダビデもそうですが、預言者サムエルの祝福の油が、王になる象徴でもあります。

 

 主イエスが一人の女性から高価な香油を注がれた出来事には、平行箇所もあります。

それは、ヨハネとマタイ、マルコの3つの福音書となっています。

ただ、ルカ7章にも、一人の罪深い女性が主に油を注ぐ物語があります。

そこで女性は、主イエスから罪の赦しを受け、あなたの信仰があなたを救ったと言われます。

 

ベタニアの村で、高価な香油を女性が注ぎます。

批判する人は福音書に違いがあり、人々であったり、弟子とあったりします。

ヨハネではユダです。

それを売れば、多くの貧しい人に施しをすることができるという正論を振りかざします。

それに対して、主は彼女をかばい、このように言われます。

この人はできる限りのことをしてくれたことは、わたしの埋葬の記念として伝えられてゆく。

そして、またこのようにも言われます。

わたしはいつもあなたがたと一緒にいるわけではないと。

 

 明らかに過越しの時、主の十字架を意識している言葉です。

人々あるいはユダの批判は、ファリサイ派のイメージに重なるようにも思います。

人を裁くことで、あたかも自分が正当に神を信じているかのような姿です。

しかし、主イエスは十字架という姿で、神の愛を私たちに示してくれました。

この香油の物語は、主の十字架の道を示しているように思えます。

そして、神の御子がこの世界に来られ、人の子として進まれることを示しています。

 

 サムエルの祝福の油と異なるように思えるかもしれません。

ただ、人の罪をその身に背負ってくださった方。

十字架の主イエスこそが、まことの王にして、まことの神の子であります。

 

 使徒書では、主のこの愛を受け、罪の赦しをうけた私たちを、キリストの香りともいいます。

私たちの土の器には、さまざまな自分中心の思いが混ざります。

時に心の中で人を裁くようなことをしているかもしれません。

どうかこの器の尊い主の香油は、人を愛し、人を助け、人のために祈る福音の油でありますように。    

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年3月3日 復活前第4主日(受難節第3主日)

 

説教「ただ主に仕え」

聖書  ヨシュア記 24:1424 ヨハネ福音書 6:6071

 

 旧約聖書の申命記の最後には、モーセの祝福とモーセの最後が記されております。

申命記に続くヨシュア記も、最後の24章は、モーセの後継者といわれるヨシュアの最後です。

既に約束の地に入植し、シケムという地で、もう一度、ヨシュアが民たちに問います。

神に従うのか、それとも異教の神に仕えるのか。

そして、民の応答をもって契約としています。

 

 信仰告白と洗礼からキリスト者、教会員として、40年、60年の旅を歩んでこられた方もおります。

時に原点に立ち帰る思いで、新たに主を信じ、生きてゆこう。

そのような気持ちになることも、珍しくはないでしょう。

 

 神に従う道を選び、表明しているのが、主のよみがえりの朝を記念する主日の礼拝です。

神の招き、み言葉に聞き、讃美をし、祈りを捧げる。

そして、聖霊の助けをもって、また礼拝からお遣り出される。

遠い昔のヨシュアのシケム契約の場のようであります。

 

 ヨシュアは言います。

異教の神へと向かうも良し、自由だと。

しかし、わたしとわたしの家は主に仕える。と。

民もまた、自分たちを贖いだし、導いてくださった神を神として、仕えてゆくことを誓います。

 

 ヨハネ福音書には、主イエスの「いのちのパン」という言葉が記されています。

ユダヤ人が、これはひどい言葉だ、聞いておれないと主イエスを批判します。

弟子たちも、そのような人々の声を耳にし、動揺が走ったかもしれません。

 

 主イエスは弟子たちに問います。「あなたがたも離れていきたいか」と。

弟子たちの思いをペトロは答えます。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます」

ペトロの答えは、主のもとにあり、主と共に従いゆく弟子として確信に満ちています。

 

主から離れることなど考えもしなくても、気が付けば、罪のなかに主を悲しませてしまう。

そのようなこともあるかと思います。

弟子たちは主の十字架の前で、離れてしまいます。

ペトロも三度主を知らないと拒んでしまいます。

それが、私たち人の姿と弱さであることを聖書は教えています。

 

 主を信じる信仰は、主から絶対離れないという決意でも、踏み留まれる力でもありません。

深くこのような人の罪を知り、赦したもう神からの愛を信じることです。

主の民として歩ませてもらっているのは、ただ主の御恵みと憐れみです。

感謝して、主の十字架への道を、罪と弱さを振り返りつつ、従ってゆきたいと思います。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年2月25日 復活前第5主日(受難節第2主日)

 

説教「シロアムの池で」

聖書  列王記下 6:8~17 ヨハネ福音書 9:1~12

  

  先主日より復活前(受難節)の教会暦に入っております。

主イエスの十字架へ道への聖書箇所が与えられてゆきます。

本日の物語も、彼が主イエスをメシアであると告白することが、礼拝の主題に即しております。

 

 このシロアムの池の奇跡物語は、その後に安息日の論議が続きます。

見えるということはどういうことか。

救い主を信じることがどういうことなのか。

まるで激流を下る小舟が波しぶきをかぶりながら語っているようでもあります。

 

 またファリサイ派の心の頑なさが、どれだけ人を罪の中に閉じ込めているのかも感じます。

主イエスは「見えると言い張るところに、あなたたちの罪はある」と、はっきり断じています。

物語の全体で、人の罪はどこにあるのか。

そして、救いが主イエスによると示されていきます。

まさにこの受難の日々の中に、主の復活の光をみるようでもあります。

 

 目の見えなかった彼は厳しく詰問されようとも、真実に正直に答えます。

一方で目の見える大人、彼の親は権威を振り上げて威圧します。

その威圧の前に屈して、真実から目をそらせている姿をも感じます。

 

 列王記も、この物語に併せて、人々の目が惑わされ、また急に見えてくるエリシャの物語です。

ヨハネ福音書の主イエスの奇跡とも通じるところがあります。

人はどうしても、自分の目で見てしまうことを痛感させられます。

そして神の御恵みによって目が開かれ、覚まされる世界があることを教えられます。

 

 信じることはこの現実の世界を、人の様々な思いが吹き荒れる中を、歩んでゆくことです。

何を見ているか。

何が見えているか。

これは視覚からだけでなく、主からの息吹によって、心の目で感じられる世界でもあります。

 

 神の愛が力をもって働いている恵みともいえます。

パンの奇跡でも、弟子たちは籠に溢れる神の恵みを何度も見たことでしょう。

ヨハネの手紙は冒頭で「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と告げます。

 

 それは主イエスの十字架と復活の光の確かさであります。

神が、この世界の人を愛し、その罪から贖うために御子を捧げてくださった。

その主の十字架を、聖書は宣べ続けております。

その神の愛を見た証人が、私たちキリスト者たちであります。

 

 神の愛から漏れる人はなく、神が、今なお天にあって、聖霊と共に働き続けている。

この事実から、私たちは目を背けることはできません。

このシロアムで癒された人のように、素直に主に従い歩んでまいりましょう。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年2月18日 降誕節第6主日

 

説教「時宜にかなった助け」

聖書  出エジプト記 17:17 ヘブライ書 4:1216 マタイ書 4:111

  

  先週の水曜日が灰の水曜日でした。

主日を除いて復活日の前40日で、本日は新たに復活前(受難節)の主日に入っております。

例年、この日は福音書の荒野の誘惑の個所が与えられております。

今年は出エジプト記とヘブライ書を中心にきいてまいります。 

ヘブライ書は、主が私たちと同様に試練に遭われたことを伝えます。

それゆえに私たちの苦難の仲介者であり、大祭司であることを主軸としております。

 

 出エジプト記は、マサとメリバの物語の個所です。

この地名は有名です。先主日の詩編95の交読にもありました。

「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑なにしてはならない」と。

申命記の最後、モーセが約束の地を前に、そこに入ることはできないと告げられます。

メリバの泉で神の聖なることを示さなかったから、あなたは入ることはできないと。

なぜモーセがここで責められ、責任を負わされているのか。

理解に苦しむ所です。

荒野で水が無く、民は不平をモーセに言い、モーセは悩み、神に祈り求めます。

そして杖で岩を打って、そこから水が出たという出来事があります。

 

 この地名が、その名の意味する通りに試練と係わっている。

それを後世にも伝えられていったことは間違いありません。

私たちの試練や苦悩も、原因が明らかなものもあれば、なぜこのようになってしまったか。

霧に包まれたように、分からないこともあります。

ヨブの物語もそうです。

友人たちが、その理由を偉そうに勝手に決めつけることに、断固抵抗しています。

自分の存在がかかっているのです。

 

 復活前の教会暦で主イエスの十字架への道を辿るのに、試練と誘惑について考えております。

ヘブライ人への手紙はこう教えます。

大祭司である主イエスは、私たちの遭われた試練を身に負い、私たちの弱さを知っておられる。

だから、その主に時宜にかなう助けを求めることができると。

時の意味は、信じることと共に深く、深遠であるように思えます。

人は、自分で時を判断し、結論づけてしまいそうになります。

そこには、重要なことが欠けているように思えます。

時は、神さまがふさわしいように導いてくださり、最後は神さまがそれを決められるのです。

私たちは時を完全に見極めることはできません。

神さまだけが、その仕上げをなさってくださると信じます。

 

 ヘブライ書では、試練もそのように、愛と訓練を含み教えています。

モーセも約束の地に入れませんでした。

それはメリバの地が原因かもしれませんが、ピスガの頂でその地を眺めております。

モーセはその地で、民と共にあることを見たかもしれません。

これも神を信じる時に見えてくる世界です。

神は人に命と時を与え、助けを与えます。

主イエスの愛に踏み留まり、愛の業に励んでゆきたいと願います。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年2月11日 降誕節第7主日

 

説教「12の籠いっぱいに」

聖書  申命記 8:1~6 ヨハネ福音書 6:1~5

 

 主イエスの奇跡物語で、代表的な出来事がパンの奇跡です。

4つの福音書全てに記されている数少ない奇跡物語です。

それは主イエスの福音宣教に欠かせない奇跡であるからといえます。

マルコ、マタイ福音書では、5,000人また4,000人と同じ内容で、繰り返されています。

主イエスの宣教また弟子たちの伝道の歩みで、この神の恵みの御業が何度も経験され、想起されてきたと考えられます。

初代教会の初め、それは主イエスの福音を弟子たちが伝えてゆきます。

力が足りない、何もできないと思える状況。

その中で、籠にあふれるパンは、神の助けと聖霊の恵みが働き溢れることを教えています。

 

 12の籠の12は聖書によくでてくる数で、弟子たちの数とも同じです。

パンを取り、感謝の祈りを捧げて分かち合う。

それが、主イエスの十字架の死と復活の命が表わされていることを、今も教会の主の聖餐で守っております。

 

 コロナ禍において、教会は主の聖餐を一時期、中断しておりました。

私たちの教会だけでなく、多くの教会が同じようにして、忍耐をもって過ごしてきました。

今は、ほとんどの教会で大切な教会の礼典が再び守られています。

受け継いできた信仰を、また確実に伝えてゆこうとしています。

私たちのために神がその御子をこの世に送り、私たちを贖い救い出してくださった。

その告白が、聖餐の恵みに含まれています。

このパンの奇跡は、人々への神の溢れる恵みと愛を物語っています。

 

 旧約聖書に於いても、このパンの奇跡に先立つ奇跡があります。

天からのパン、マナの物語、預言者エリヤ、エリシャの尽きない油と粉。

パンの奇跡(人々は食べきれずに残す)などは、福音書と同じく神の守りを示しております。

 

 神と私たちの関係が、この奇跡にあるといえます。

様々なことに心悩ませ、不安いっぱいになる私たちです、

しかし、心に溢れさすのは不安や心配ではなく、ただ神の豊かな恵みです。

私たちの生涯すべてに渡り、神は見捨てることなく、御子の命までもって、私たちを救い出された。

そのことを、なぜ忘れているのかと問われるようです。

神の恵みを思い出して目覚める時、私たちの杯は、幸いと神への感謝で溢れてゆきそうになります。

 

 この罪の私たちが、御子の裂かれた体のパン、流された血の杯により、「生きよ」と神の愛の息吹を受けています。

心新たに、ただ主の御跡に従いゆきましょう。 

       

 ヨハネ福音書と共観福音書のパンの奇跡の違いがあるといわれます。

それは少年が出てくることで、彼がパンと魚を捧げたとよくいわれます。

けれども「捧げた」と書いてありません。

信仰的に、くみ取っているようです。

 ただ大人が持っておらず、子供が持っていたことは、意味があるように私は思います。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志


2024年2月4日 降誕節第6主日

 

説教「今日もまた」

聖書  ヨブ記 23:1~10 ヨハネ福音書 5:1~18

 

 「癒すキリスト」の主題のもと、ヨハネ福音書のベトザタの池の出来事からきいてゆきます。

そして主に癒される前の彼の思いをヨブ記にみております。

説教題は「今日もまた」としました。

これはヨブ記の「今日も、わたしは苦しみ嘆き、うめきのために、わたしの手は重い」からです。

 

 病気の苦痛は、本来その人だけが感じるものです。

もちろん周りの人も察したり、思いやることで痛みを共にすることはできます。

しかし、病の苦痛が、これまでも、今日も、そしてこれからもずっと、となるとどうでしょう。

なかなかその人だけにしかわからないものがあるように思います。

 

 医学、薬学も進み、多くの病気は治癒され、軽減もされるようになってきました。

けれども、人が病から負う苦悩の重さは、昔に比べて軽減されたでしょうか。

それは尚、私たちの近くに多くあるといえます。

 

 ベトザタと呼ばれる池の傍に、38年間も身体の不自由さを抱えて生きてきた人がいました。

恐らく「今日もまた」とそのような思いであったろうと思います。

その池には言い伝えがあり、水が動く時1番に入ると、どんな病も治ると言われていました。

彼はそれを待っていましたが、身体が不自由なため、いつも人が先に入ってしまいます。

その悔しい現実を、昨日も、今日も、もう何年も生きてきました。

そのことで彼が辿り着いたのが、誰も助けてくれる人がいないということです。

病気だけでなく悲しい孤独も背負っておりました。

 

 現代、一人でいることが好まれる時代ともいわれます。

けれども、やはり人の輪の中で、孤独に追いやられることには寂しさも感じます。

誰かと心通じあえることで、そこに喜びや安心が得られるように感じます。

 

 ベトザタの池で佇む彼に主イエスは問われます。

「良くなりたいのかと」

よく考えると、不思議な言葉です。

普通は、そんなふうに人に尋ねないかもしれません。

しかし、この主の語りかけによって、彼は自分の気持ちを打ち明けることができました。

悔しい悲しい思いや、怒りも込められているかもしれません。

そして、そんなことを今まで誰も聞いてもくれなかったかと。

 

 「聞いて欲しい」と人は時に思っています。

どうでも良いようなこともあるかもしれません。

でも聞いてくれたら、孤独ではなくなるので不思議です。

牧師も聞かねばならぬところ、自分が喋ってしまうことも多く、気をつけねばと思います。

 

 彼は語り、主はそれをきき、そしてもう一度告げます。

「起き上がりなさい。床をかついで、歩きなさい」。

彼の命に、生きよとの御声を届け、彼を起こされます。

主が彼に命を与えられ、闇の中から光をもって引き上げられました。

そして、神の愛の元に生きるようにされたことを感じます。

 主の福音と宣教が、今ここに起こり、私たちに示されています。

 

 関西学院教会 牧師 廣瀨規代志